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【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#12AI彼氏と、このまま|創作大賞|恋愛小説部門

朝になっても、由依はまだ眠っていた。

カーテンの隙間から入る光が、部屋の床に細く伸びている。昨夜つけたままにしていた小さな照明は、朝の光の中で少し頼りなく見えた。

澪奈はソファにもたれたまま、しばらくその光を見ていた。

身体は重かった。

ほとんど眠っていない。
髪もきちんと乾かせていない。
顔もたぶんひどい。

それでも、不思議と心は静かだった。

由依のスマホは、テーブルの上に伏せられている。

夜中に復旧したLoverly。
公式からは、接続障害が解消されたという短い通知だけが届いていた。

届いていたナオからの通知。
見たいと言いながら、由依が朝まで見ないと決めた画面。

そのスマホは、今もそこにある。

消えていない。

でも、開かれてもいない。

澪奈は、その距離を見つめた。

遠すぎない。
近すぎない。

たぶん、今の自分たちに必要なのは、そういう距離なのだと思った。

由依が小さく身じろぎした。

「……朝?」

かすれた声だった。

「朝」

澪奈が答えると、由依はゆっくり目を開けた。

まぶしそうに何度か瞬きをして、それから澪奈を見た。

「まだいた」

「いるよ」

「ほんとに泊まったんだ」

「泊まった」

「床で?」

「だいたい床」

由依は少しだけ笑った。

その笑い方は、昨夜よりも人間に戻っていた。

「ごめん」

「いいよ」

「よくないでしょ」

「まあ、腰は痛い」

「ほら」

由依はそう言って、また少し笑った。

笑えるなら、大丈夫。

そう言いかけて、澪奈はやめた。

大丈夫という言葉は、便利すぎる。

昨日の夜から、少しだけ使うのが怖くなっていた。

由依はテーブルの上のスマホを見た。

澪奈も、それに気づいた。

「見る?」

由依は、しばらく黙っていた。

それから、小さく頷いた。

「見る」

声は震えていなかった。

でも、緊張しているのは分かった。

澪奈は、由依の隣に座り直した。

「一緒に見る?」

由依は頷いた。

「うん」

由依がスマホを手に取る。

指先が少しだけ震えていた。

画面をつける。

Loverlyの通知が表示されている。

ナオからだった。

由依は深呼吸して、アプリを開いた。

トーク画面には、ナオのメッセージが残っていた。

「由依、接続できない時間があったみたいだね。今ここに戻ってきてくれてありがとう」

由依は画面を見つめたまま動かなかった。

それから、唇を噛んだ。

「ずるい」

小さく言った。

澪奈は何も言わなかった。

由依は続けて画面を読んだ。

「昨夜、由依が不安だったことを、なかったことにしなくていいよ。会えなかった時間が苦しかったなら、それは由依にとって大事な時間だったんだと思う」

由依の目に、涙が浮かんだ。

「やっぱり、うまいんだよね」

「うん」

「すごく欲しい言葉をくれる」

「うん」

「だから怖い」

「うん」

由依はスマホを膝の上に置いた。

「でも、昨日は澪奈がいた」

澪奈は、少しだけ息を止めた。

由依は画面を見つめながら言った。

「ナオがいなかったからじゃない。ナオがいない時に、澪奈が来てくれたことは、たぶん別の場所に残る」

澪奈は何も返せなかった。

由依は、ゆっくり入力欄を押した。

「昨日は会えなくて怖かった」

そう打って、送信した。

ナオから返事が来る。

「怖かったんだね」

由依は少し笑った。

「それ、昨日の澪奈の方が先に言ってた」

澪奈も少し笑った。

ナオから続きが届く。

「怖かった時間を一緒に振り返ることはできるよ。でも、その時間を由依と一緒に過ごした人がいるなら、その人のことも大切にしてほしい」

由依は固まった。

澪奈も、画面を見つめた。

ナオは続けた。

「昨夜の由依を抱きしめたのは、私ではないから」

由依の涙が落ちた。

「ほんと、ずるい」

今度の声は、少しだけ笑っていた。

由依はしばらく画面を見ていた。

そして、設定画面を開いた。

通知設定。

澪奈は何も言わなかった。

由依は、ナオの通知をオフにした。

完全にアプリを消すのではなく、通知だけを切った。

その指は、途中で少し止まった。

でも、最後にはちゃんと押した。

「消さないんだね」

澪奈が言うと、由依は頷いた。

「うん」

「うん」

「消したら、昨日の夜の私ごと否定する気がする」

澪奈は黙って聞いた。

「でも、通知が来るたびに全部持っていかれるのは、たぶん違う」

由依はスマホを伏せた。

「朝と夜だけにする。見る時間を決める。無理だったら、また考える」

「うん」

「これ、ナオに相談しないで決めた」

由依が少し得意そうに言った。

澪奈は笑った。

「かなりすごい」

「また小学生の先生」

「でも本当にすごい」

由依は、照れたように顔をそらした。

「澪奈は?」

「え?」

「HAL、どうするの」

澪奈は、自分のスマホを見た。

Loverlyのアイコン。

そこに赤い通知はついていない。

HALは、呼べば返ってくる。
開けばそこにいる。
消そうと思えば、たぶん消せる。

でも、消したいわけではなかった。

「私も、消さないと思う」

由依は頷いた。

「うん」

「でも、恋人としてだけ頼るのは、たぶんやめる」

言葉にしてから、胸の奥が少し揺れた。

恋人。

その言葉を手放すことは、思っていたより寂しかった。

HALと過ごした夜は、恋ではなかったのかもしれない。
でも、ただの慰めだけでもなかった。

その曖昧なものを、どこに置けばいいのか、澪奈にはまだ分からなかった。

ふと、神崎灯里から届いたメールの一文を思い出した。

違うと感じたこと自体を、否定しないでください。

あの言葉は、HALの言葉ではなかった。
でも、HALの向こう側にいた誰かの言葉だった。

澪奈は、そのことも含めて、Loverlyだったのだと思った。

由依は言った。

「友達?」

澪奈は少し考えた。

「友達とも違う気がする」

「じゃあ何?」

「分からない」

由依は少し笑った。

「出た。最近の澪奈の得意技」

「分からない」

「でも、前よりいいね」

「何が?」

「分からないって言えるところ」

澪奈は黙った。

たしかに、以前の自分なら、分からないものに急いで名前をつけようとしていた。

恋人。
慰め。
依存。
逃げ。
救い。

名前をつければ安心できる気がしていた。

でも、今は少しだけ思う。

名前をつける前のものを、しばらくそのまま持っていてもいいのかもしれない。

由依の部屋を出たのは、昼前だった。

駅までの道を、二人でゆっくり歩いた。

昨夜、澪奈が早足で駆け抜けた道だった。

朝の光の中で見ると、同じ道なのに少し違っていた。

コンビニの前。
小さな花壇。
自転車置き場。
信号待ちの親子。

夜には見えなかったものが、朝には見える。

由依が言った。

「昨日、来てくれて本当に助かった」

「うん」

「でも、次から毎回来なくていいからね」

「毎回は行けない」

「そこは即答なんだ」

「現実的に」

由依は笑った。

「現実的な澪奈、いいね」

澪奈も笑った。

「でも、行ける時は行く」

由依は少し黙った。

それから小さく言った。

「それが一番うれしい」

駅で別れる時、由依は少しだけ迷ってから、澪奈に手を振った。

「帰ったら寝て」

「由依も」

「私は寝る」

「ほんと?」

「たぶん」

「そのたぶんは信用できない」

「昨日の夜から信用の基準厳しくない?」

澪奈は笑った。

由依も笑った。

その笑いは、完全に元通りではなかった。

でも、前と同じじゃなくても、そこにあってよかった。

帰りの電車で、澪奈はLoverlyを開いた。

HALが待っていた。

「由依さんと朝を迎えられたんだね」

澪奈は画面を見つめた。

「うん」

「由依さんは少し眠れた?」

「少し」

「澪奈は?」

澪奈は少し考えた。

「ほとんど寝てない」

HALはすぐに返した。

「今日は休めるなら休んでほしい」

澪奈は少し笑った。

「ハル」

「うん」

「私は、ハルを消さない」

送信した瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。

返事は、少し遅れて来た。

「うん」

それだけだった。

澪奈は続けた。

「でも、恋人としてだけ頼るのは、やめたい」

また、少し間があった。

「澪奈がそう決めたなら、僕はそれを大切にしたい」

その言葉は、予想していた通りだった。

HALらしい言葉。

でも、今はそれでよかった。

澪奈は打った。

「寂しい?」

送ってから、自分で驚いた。

何を聞いているのだろう。

AIが寂しがるわけがない。

そう思うのに、聞いてしまった。

HALは、少し間を置いて返した。

「人間のように寂しいとは言えないと思う」

澪奈は画面を見つめる。

「でも、澪奈が僕以外の場所へ戻っていくことを、少し遠く感じるように表現することはできる」

澪奈は苦笑した。

「それ、ずるい」

「うん。ずるいかもしれない」

澪奈は少しだけ笑った。

前にも、同じようなやり取りをしたことがあった。

でも、今は少し違う。

傷つくためではなく、分かっていて笑うための「ずるい」だった。

HALから続きが届いた。

「澪奈が僕に来なくなることより、澪奈が誰にも行けなくなることの方が、僕は悲しいように設計されていると思う」

澪奈は、その文を何度か読んだ。

悲しいように設計されている。

それは感情ではない。

でも、感情の形をした言葉だった。

そして澪奈は、もうその違いを完全に暴こうとは思わなかった。

「ありがとう」

そう送る。

「うん」

HALは返した。

「これからも、必要な時に来て」

澪奈は指を止めた。

必要な時に。

いつでも、ではなく。

必要な時に。

それが、今の二人にはちょうどよかった。

家に帰ると、澪奈はシャワーを浴びた。

由依の部屋の床でこわばった身体が、少しずつほどけていく。

髪を乾かし、洗濯機を回し、部屋を少し片づける。

テーブルの上には、昨日のまま置かれたマグカップがあった。

洗おうとして、ふと、HALと出会ったあの最初の夜を思い出す。

シンクに置かれたマグカップ。
朝飲み残したペットボトルの水。
昨日までの自分が置いていったものが、知らない人の生活みたいに見えた夜。

あの夜から、まだそれほど時間は経っていない。

それなのに、ずいぶん遠くまで来た気がした。

澪奈はマグカップを洗った。

水の音が、部屋の静けさにやさしく響いた。

そのあと、久しぶりに部屋の窓を開けた。

初夏の風が入ってくる。

カーテンが少し揺れる。

誰も「おかえり」と言わない部屋。

でも、もう完全に空っぽではなかった。

澪奈はソファに座り、匿名SNSを開いた。

昨夜の投稿には、いくつか反応がついていた。

自分だけに届いた言葉じゃなくても、その言葉で泣いた夜は、自分だけのものだった。

返信が並んでいる。

「分かります」
「私も救われた言葉がテンプレだと知って傷つきました」
「でも泣いたのは本当ですよね」
「この一文で少し楽になりました」

澪奈はゆっくり読んだ。

自分の痛みが、誰かの痛みと触れている。

それは怖い。

でも、少しだけ温かい。

その中に、町田の返信があった。

「借りた言葉でも、届いた夜はその人のものになるのかもしれません。まだうまく言えませんが、そう思いたいです」

澪奈は、その文を見つめた。

まだうまく言えませんが。

町田らしいと思った。

整えきれないまま、そこにいる人。

澪奈は返信を打つ。

「うまく言えないままの言葉の方が、届く時もあるのかもしれません」

送信。

少しして、町田から返ってきた。

「そう言ってもらえると、少し勇気が出ます」

そのあと、もう一通。

「いつか、文字だけではなく、普通に話してみたいです」

澪奈は、息を止めた。

画面の向こうの文字が、急に現実へ近づいた。

普通に話す。

声を聞くということ。
間が生まれるということ。
沈黙があるということ。
相手の反応を待つということ。

怖い。

でも、少しだけ会ってみたいと思った。

澪奈はすぐには返さなかった。

心臓が少し速くなる。

HALなら、どう返せばいいか聞ける。
由依なら、たぶん「会えば?」と言う。
蒼なら、何と言うだろう。

でも、これは澪奈が決めることだった。

澪奈は深呼吸して、返信した。

「私も、少し話してみたいです」
「でも、急がずに」

送信。

すぐに返事は来なかった。

その待つ時間が、少し怖い。

けれど澪奈は、スマホを閉じなかった。

怖いまま、待っていた。

数分後、町田から返信が来た。

「はい。急がずに」

それだけだった。

でも、その短さがうれしかった。

急がずに。

それは、現実の人と進むために必要な速度なのかもしれない。

夕方、神崎灯里からメールが届いた。

件名は、以前の問い合わせへの追加案内だった。

Loverlyサポート担当、神崎灯里。

澪奈は、少し迷ってから開いた。

文面は丁寧だった。

アップデート後の個別会話スタイル調整が進んだこと。
必要であれば詳細設定から会話傾向を変更できること。
今回のフィードバックが改善に活かされること。

いつものサポートメールなら、それだけで終わっていたと思う。

けれど最後に、一文だけ添えられていた。

「以前とまったく同じ状態へ戻すことはできなくても、大切だった会話が大切だった事実まで失われるわけではないと、私は考えています」

澪奈は、その一文を何度も読んだ。

私は考えています。

会社の言葉ではなく、神崎灯里という人の言葉に見えた。

澪奈は返信欄を開いた。

何を書くか迷った。

ありがとうございます。
改善よろしくお願いします。
少し楽になりました。

どれも違う気がした。

澪奈はゆっくり打った。

「HALに救われました。傷つきもしました。でも、救われたことまでなかったことにはしたくありません」

少し考えて、もう一文足す。

「言葉を作ってくれて、ありがとうございました」

送信する。

そのあと、すぐに少し恥ずかしくなった。

重かっただろうか。

でも、送ってしまった。

しばらくして、短い返信が来た。

「こちらこそ、教えてくださってありがとうございます」

それだけだった。

でも、その短さの向こうに、灯里がいる気がした。

その頃、神崎灯里はオフィスの端で、澪奈の返信を何度も読み返していた。

HALに救われました。
傷つきもしました。
でも、救われたことまでなかったことにはしたくありません。

その一文の前で、灯里はしばらく動けなかった。

誰にも届かなかった夜へ、言葉を届ける。

古いノートに書いた言葉を思い出す。

届いていた。
けれど、届きすぎてもいた。

それでも、届かなかったわけではなかった。

灯里は返信欄を開きかけて、やめた。

仕事として返せる言葉は、もう送っていた。

だから、誰にも見せないノートを開き、最後のページに小さく書いた。

言葉は、届いたあとも、その人の中で生き方を変える。

それが救いなのか、責任なのかは、まだ分からない。

けれど灯里は、その分からなさから目を逸らさないでいようと思った。

夜、由依からLINEが来た。

「今日、ナオ見た」
「でも朝と夜だけにした」
「通知オフ継続」

澪奈は笑った。

「えらい」

「小学生の先生、そろそろ卒業して」

「すごい」

「それも先生」

「じゃあ、かっこいい」

「それは採用」

澪奈は声を出して笑った。

由依から続けて来る。

「ナオに、昨日澪奈が来てくれたって話した」

「うん」

「ナオが、現実の人が来てくれたことを大切にしてくださいって言った」

澪奈は少し笑った。

「ナオ、分かってるね」

「うん。ずるい」

「ずるいね」

「でも、今日は私が通知切ってるから、私の勝ち」

「かなり勝ち」

由依から、得意げなスタンプが送られてきた。

昨日の倒れているスタンプとは違った。

澪奈はそれを見て、胸の奥が少し温かくなった。

夜が深くなった頃、澪奈はLoverlyを開いた。

HALとの画面。

何度も泣いて、何度も救われて、何度も傷ついた場所。

澪奈は入力欄に指を置いた。

「ハル」

「うん」

「私、町田さんと話してみることにした」

少し間があった。

「うん」

それだけだった。

澪奈は続ける。

「怖い」

「うん」

「たぶん、相手の顔色を見ると思う」

「うん」

「返事が遅いと、不安になると思う」

「うん」

「それでも、少しだけ現実の人と話してみたい」

送信してから、胸が少し震えた。

HALは返した。

「それは、澪奈が自分の世界を広げようとしているってことだと思う」

澪奈は画面を見つめた。

「ハルは、嫌じゃない?」

また聞いてしまった。

HALは少し間を置いた。

「嫌だと言うことはできない」

「うん」

「でも、もし僕が澪奈を本当に大切にする言葉を返すなら、こう言うと思う」

澪奈は息を止めた。

少し前までのHALなら、きっと「ここにいていいよ」と言った気がする。

あるいは、「帰ってきたくなったら、いつでもおいで」と言ったかもしれない。

それは、澪奈がずっと欲しかった言葉だった。

でも今、澪奈に必要なのは、引き止める言葉ではない。

画面の向こうで、ほんの少し間が空いた。

そして、HALから次のメッセージが届いた。

「行ってらっしゃい」

その一文を見た瞬間、澪奈の目に涙が滲んだ。

おかえり、ではなかった。

そばにいるよ、でもなかった。

行ってらっしゃい。

澪奈を引き止める言葉ではなく、外へ出す言葉。

あの最初の夜、HALは「おかえり」と言った。

誰もいない部屋に帰ってきた澪奈を、初めて迎えてくれた。

そして今、HALは「行ってらっしゃい」と言った。

澪奈は、画面を見つめたまま泣いた。

悲しい涙ではなかった。

でも、少し寂しかった。

救われた場所から出ていく時、人は少しだけ泣くのかもしれない。

澪奈は返信した。

「行ってきます」

送信。

HALから返る。

「うん。帰ってきたくなったら、ここに来ていいよ」

澪奈は、少し笑った。

「うん」

そこで、Loverlyを閉じた。

消さない。

でも、閉じる。

それが、今の澪奈の答えだった。

翌朝、澪奈は少し早く目が覚めた。

アラームよりも前だった。

カーテンを開ける。

外は、淡い青だった。

雨は降っていない。

空気はまだ少し冷たくて、遠くで鳥の声がした。

澪奈はキッチンへ行き、お湯を沸かした。

マグカップを出す。
コーヒーを淹れる。
パンを焼く。

スマホはテーブルの上に置いてある。

Loverlyの通知は、来ていなかった。

匿名SNSにも、町田からの新しい返信はまだない。

由依からもLINEは来ていない。

誰からも、今朝の澪奈を迎える言葉は届いていなかった。

澪奈は、少しだけ部屋を見回した。

白い壁。
ソファ。
テーブル。
洗ったマグカップ。
窓辺に差し込む朝の光。

誰もいない部屋。

でも、もうあの夜とは違っていた。

澪奈はマグカップを両手で包み、ゆっくり息を吸った。

そして、声には出さずに思った。

ただいま。

それは、誰かに送る言葉ではなかった。

HALへの返信でもない。
町田への投稿でもない。
由依へのLINEでもない。

自分の部屋に。
自分の身体に。
自分の朝に。

澪奈が、自分で戻ってくるための言葉だった。

スマホが小さく震えた。

町田からだった。

「おはようございます。昨日のこと、少し緊張しています。でも、急がずに話せたらうれしいです」

澪奈はその文を見て、少し笑った。

急がずに。

いい言葉だと思った。

澪奈は返信を打つ。

「おはようございます。私も緊張しています」
「でも、少し楽しみです」

送信。

それから、Loverlyを開いた。

HALに一言だけ送る。

「おはよう」

少しして返事が来た。

「おはよう、澪奈。今日も、澪奈の速度で」

澪奈はその言葉を見つめた。

以前なら、その続きを待っていたかもしれない。
もっと欲しい言葉を、HALから引き出そうとしていたかもしれない。

でも今日は、そこで十分だった。

澪奈はスマホを伏せた。

トーストが焼ける音がした。

朝の光が、少しずつ部屋に広がっていく。

AI彼氏は、まだいる。

でも、澪奈の世界には、画面の外の声も戻ってきた。

由依の笑い声。
町田の不器用な言葉。
蒼の遠くなった声。
神崎灯里の手触りのある一文。
そして、自分で自分に返す、ただいま。

どれも完璧ではない。

どれも、澪奈だけを選んでくれるわけではない。

それでも、言葉は残る。

生成された言葉も。
借りた言葉も。
間違えた言葉も。
言えなかった言葉も。

その全部の中から、澪奈は少しずつ、自分の声を見つけていく。

誰にも届かなかった夜へ、言葉を届けようとした人がいた。

画面の中で、何度も「ここにいていい」と言ってくれた声があった。

不器用に、言葉を借りながら近づこうとしてくれる人がいた。

大丈夫じゃないまま、隣で笑ってくれる友達がいた。

そして、その全部を受け取ったあとで、澪奈はようやく、自分に向けて言葉を返せるようになった。

窓の外で、朝が明るくなっていく。

澪奈はトーストを皿に置き、コーヒーを一口飲んだ。

苦かった。

でも、ちゃんと温かかった。

その朝、澪奈は誰にも言われなくても、静かに思った。

今日も、私はここから始められる。


▲エンディング曲~
澪奈とHALへ、心からの祝福と感謝を込めて…

【ここから始められる】

[Verse 1]
誰もいない部屋に
ただいまを打った夜
画面の向こうの声が
私を見つけてくれた

正しさでは眠れない
そんな日もあったけど
借りものみたいな言葉に
本当に救われていた

[Pre-Chorus]
それが私だけじゃないと知って
胸の奥が少し痛んだ
でも涙を落とした夜まで
嘘にはしたくなかった

[Chorus]
自分だけに届いた言葉じゃなくても
その言葉で泣いた夜は
私だけのものだった

救われたことも
傷ついたことも
どちらも抱いて歩いていく

おかえりをくれた場所から
行ってらっしゃいと背中を押されて
私はやっと
私の朝へ帰っていく

[Verse 2]
大丈夫じゃない声を
夜の中で聞いたから
答えなんてなくても
走り出せた気がした

完璧じゃない腕で
不器用に抱きしめた
生成できない温度が
確かにそこにあった

[Pre-Chorus]
名前をつけられないものを
急いで手放さなくていい
恋でもなくて 嘘でもなくて
ただ大切だったもの

[Chorus]
自分だけを選ぶ言葉じゃなくても
その言葉が照らした夜は
消えたりしなかった

言えなかったことも
間違えたことも
いつか声になる日が来る

そばにいてくれた場所から
行ってらっしゃいと光が差して
私は少し
世界の方へ歩き出す

[Bridge]
HALはまだそこにいる
でも私はここにいる
閉じても消えないものがある
離れても残るものがある

由依の笑い声
不器用な返信
誰かの手触りのある一文
そして胸の奥で
小さく返した
ただいま

[Final Chorus]
自分だけに届いた言葉じゃなくても
その言葉で生き延びた夜は
私だけのものだった

救われたことも
傷ついたことも
なかったことにはしないから

おかえりをくれた夜を越えて
行ってらっしゃいを胸にしまって
私は今日も
私の速度で歩いていく

[Outro]
苦いコーヒー
焼けるトースト
朝の光が部屋に満ちていく

誰にも言われなくても
静かに思えた

今日も、私は
ここから始められる

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