【つの版】日本刀備忘録97:土方歳三
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
慶応3年12月9日(西暦1868年1月3日)、岩倉具視らは王政復古の大号令を発布し、天皇を頂点とする新政府の樹立と江戸幕府の解散を宣言します。旧幕府勢力はこれに抵抗し、新政府軍との戦争が勃発します。

◆錦◆
◆旗◆
鳥羽伏見
王政復古の大号令の後、徳川慶喜らは大坂城に退きましたが、薩摩・長州ら新政府側は幕府を暴発させるため各地で反幕府の火を煽り立てます。長く抑圧されてきた尊王攘夷の志士たちは「討幕の密勅」を大義名分として各地でテロと放火・掠奪を繰り返し、幕府側は取り締まりに手を焼きます。ついには江戸の治安維持を任せられていた庄内藩らが、一連の騒乱を指揮する薩摩藩邸に討ち入りをかけることとなりました。薩摩藩邸に匿われていた数百名の浪士らは民家に放火しながら撤退し、品川に停泊していた薩摩藩の運搬船に駆け込んで逃走しますが、大部分は捕縛されます。
江戸からの報せを受けた大坂の幕臣は憤激し、慶喜は朝廷に対して「数々の罪を犯した奸臣松平修理大夫(薩摩藩主・島津茂久)を討伐する」との上表を行い、慶応4年戊辰1月3日(西暦1868年1月27日)に1万5000の幕府軍が京都へ進軍を開始します。慶喜は風邪をひいていて大坂城から一歩も出られず、先に伏見で負傷した近藤勇、労咳が悪化していた沖田総司も大坂から動けず、伏見にいた新選組は副長の土方歳三が率いてこれに合流しました。
薩摩藩は鳥羽村に兵を派遣して街道を封鎖させ、周囲に伏兵を潜ませて幕府軍を包囲しておき、交渉が決裂するや否やラッパを吹き鳴らして一斉に銃砲を射撃します。戦闘準備を整えていなかった幕府軍は大混乱に陥り、一時反撃に転じますが持ちこたえられず、伏見を経て淀城へ撤退しました。また新政府軍は官軍の象徴である「錦の御旗」を翻し、幕府軍を威圧したため、淀藩は朝敵となることを恐れて幕府軍を城内に入れようとしませんでした。
1月5日、幕府軍は淀城付近で新政府軍と激戦を繰り広げます。近藤勇の兄弟子で新選組副長助勤の井上源三郎は銃弾を腹に受けて戦死し、幕府軍は男山八幡まで後退して防備を固めますが、津藩が新政府軍に寝返って幕府軍に砲撃を行い、総崩れとなった幕府軍は6日には大坂城へ逃げ戻ります。慶喜は密かに大坂城を脱出して幕府の船「開陽丸」に乗り込み、江戸へと逃げ帰ってしまいました。残された幕府軍も船に乗って江戸に向かいますが、幕府は「錦の御旗」に逆らった朝敵とされてしまいます。
甲陽鎮撫
近藤・土方・沖田ら新選組の一同も、幕府の軍艦に乗って大坂から江戸へ帰還しました。彼らはひとまず江戸鍛冶橋門外の秋月種樹(日向高鍋藩秋月家世嗣、前若年寄)邸を屯所とします。近藤は徹底抗戦を求め、徳川慶喜に「甲府城の守備をお任せ願いたい」と申し出ており、2月28日に資金と武器弾薬を賜って甲州へ派遣されました。この時に近藤は大久保剛、土方歳三は内藤隼人と変名し、新選組は鎮撫隊(甲陽鎮撫隊とも)と改名します。
当時の新選組は70名まで人数を減らしており、沖田総司は労咳が悪化して参加できず(同年5月に死去)、鎮撫隊には会津・彦根藩などから若干名、弾内記(もと穢多/長吏頭の弾左衛門)の部下の銃隊100名などが加わっていました。甲州街道を西へ進む途中では、近藤勇の義兄弟である佐藤彦五郎、小島鹿之助らも農兵隊を組織してこれに加わります。
しかし新政府軍はすでに板垣退助率いる迅衝隊を東山道に派遣し、美濃・信濃を経て甲府に入らせていました。板垣退助は土佐藩上士乾家の出身で、武田信玄の重臣であった板垣信方の末裔と称していたため、この頃に乾から板垣に復姓し、「武田の遺臣が甲府に戻った」と喧伝し民心を掴みました。迅衝隊ともども土佐勤王党として早くから行動し、土佐藩と薩摩・長州の同盟にも尽力した人物ですから、新選組改め鎮撫隊や幕府には仇敵です。
鎮撫隊は甲府城を奪還すべく、甲州街道の甲府盆地への出口にあたる勝沼に布陣し、新政府軍を待ち構えます。3月6日に両軍は衝突し、近藤らは抜刀して敵陣へ斬りこみ奮戦しますが、衆寡敵せず敗走に追い込まれます。また3月9日には信州防衛のため派遣された古屋作左衛門らが下野国足利郡梁田で新政府軍に敗れ、北関東も新政府側に制圧されます。
江戸に戻った近藤は徹底抗戦のため兵を集めて再編しますが、永倉新八・原田左之助らは会津に退いて再起を図ることを提案し、3月12日に靖兵隊を結成して離脱しました。近藤は大久保大和と変名し、五兵衛新田(現東京都足立区綾瀬)に屯所を置いて江戸防衛にあたります。しかしこの頃には甲州街道を守る八王子同心、東海道を守る桑名藩・尾張藩も新政府に降り、駿府城に西郷隆盛率いる官軍が入城し、北陸道も次々と制圧されています。
江戸開城
2月より上野寛永寺に謹慎していた慶喜は、密かに恭順の道を選び、旗本の高橋泥舟に新政府軍との和平交渉を頼みます。彼は槍術の達人で慶喜の護衛をつとめていましたが、主君の傍らを離れることはできないと断り、義弟の山岡鉄舟を推挙します。彼も槍術・剣術の達人で、身長6尺2寸(188cm)の巨漢でしたが、かつて清河八郎とともに尊王攘夷活動をしていたため謹慎処分を受けていました。慶喜が江戸に戻った後は身辺警護を行う精鋭隊に抜擢され、歩兵頭格の地位についています。
慶喜の命令を受けた鉄舟は、幕府陸軍総裁の勝海舟と面会して交渉の方針を相談し、西郷隆盛宛の手紙を受け取ります。また江戸で放火・掠奪を重ね幕府に逮捕されていた薩摩藩士の益満休之助を案内役につけられました。彼は清河八郎・山岡鉄舟が結成した尊王攘夷組織「虎尾の会」に名を連ねていた人物でもあります。鉄舟は親友の関口隆吉から大小を借り、3月9日に駿府へ到達し、臆することなく西郷隆盛と面会、慶喜と海舟の意向を伝えます。
西郷は慶喜の恭順を受け入れますが、その身柄を備前藩へ預けることとし、江戸城の明け渡し、兵器・軍艦の引き渡しなどを要求します。鉄舟は慶喜を備前藩に預けることだけは拒み、西郷も慶喜の身の安全を請け合って交渉の大筋は纏まりました。鉄舟は江戸に戻って海舟に報告し、西郷は官軍を江戸近郊の板橋宿まで進めて江戸を脅かしつつ、海舟ら幕臣との会見を求めます。3月13日と14日に行われた会見により、慶喜は故郷の水戸で謹慎することとなりますが、江戸城は官軍に引き渡したのち徳川田安家に返却するなど極めて寛大な処置がとられ、江戸は無血開城しました。
西郷は上京してこれを報告しますが、岩倉具視・三条実美らはあまりに寛大な処置に難色を示しました。特に会津藩主・松平容保、前桑名藩主・松平定敬に対しては「降伏しなければ討伐する」と厳命が下されます。また新政府側に降伏するのを是としない幕臣たちは武装解除や軍艦の引き渡しを拒絶し、会津へ退いて徹底抗戦の構えを示します。新選組改め鎮撫隊を率いる近藤勇(大久保大和)らも4月1日には下総国の流山に移りますが、新政府軍は4月3日に近藤を捕縛し、板橋宿の本陣へ連行します。捕縛の状況については諸説あり、越谷の新政府軍本陣に出頭したとの記録もあります。また追い詰められた近藤が切腹しようとしたのを土方歳三が押しとどめ、助命嘆願をするから投降するように勧めたともいいます。
近藤は「自分は大久保大和である」と言い張りますが、元御陵衛士の加納鷲雄、清原清らが近藤勇であると看破します。憎き仇敵の新選組局長を捕縛したことで新政府軍は喜びますが、薩摩藩の平田宗高は「一軍の将であるから生かしたまま京都に送るべきだ」と主張し、坂本龍馬を尊敬していた土佐藩の谷干城は「浮浪の者の頭に過ぎぬ、斬首せよ」と主張します。のち谷は「斬首の前に拷問にかけて背後関係を調べよう」と言いますが、平田は「江戸開城前に旧幕府側と揉めるのは良くない」と反対し、近藤勇は4月25日に厳しい取り調べを受けることなく斬首されました。享年は数え35歳、満33歳です。首は京都へ送られて三条河原に晒されました。
奥羽戦争
この頃、土方歳三は新選組の隊士の多くを斎藤一(山口二郎と改名)に託して会津へ向かわせ、自らは島田魁ら数名を連れて大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流していました。4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出、下館・下妻を経て宇都宮城を陥落させますが、反撃を受けて右足を負傷し、会津へ護送されています。
閏4月20日、関東と奥羽の境である白河城を会津藩兵および山口二郎率いる新選組が占領し、下野から迫る新政府軍を防ぎます。仙台藩、棚倉藩、二本松藩の援軍も白河防衛に駆けつけますが、5月1日の戦いで白河城は陥落、新政府軍に制圧されました。陸奥・出羽・越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して抵抗を継続し、白河城を奪還せんと攻撃を繰り返します。
5月15日には江戸上野で新政府軍に抵抗していた彰義隊が壊滅し、これに参戦していた新選組の原田左之助も戦死します。5月末には沖田総司が江戸で病死しました。関東をおおむね制圧して背後の憂いを絶った新政府軍は奥羽・越後への圧力を強め、7月には郡山・二本松以東を制圧、8月21日には母成峠を越えて会津藩領に侵攻しました。

この頃には徳川宗家を継いだ田安家の家達が新政府に恭順して駿府に移っていますが、400万石から駿河・遠江2国70万石に減封されたため、多数の幕臣が路頭に迷い、新政府軍や旧幕府軍に参加することとなります。また9月8日は慶応から改元して明治となり、天皇は京都から江戸に行幸して江戸城に入り、東京城と改めました。同年末には京都へ戻りますが、翌年3月に再び東京へ移り、以後は江戸改め東京が事実上の首都となりました。
山口二郎は会津に踏みとどまって戦い続け、最終的に降伏しますが、大鳥圭介は仙台へ、土方歳三は出羽庄内へ撤退して抵抗を続けます。しかし庄内藩は新政府に恭順して土方らを入城させず、土方は会津に戻ったのち仙台へ向かいます。ここで榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流すると、10月12日に石巻から出航して蝦夷地へ向かいました。
箱館戦争
明治元年10月26日、旧幕府軍は松前藩兵らを打ち破って箱館を制圧し、五稜郭に入りました。ここは幕府が箱館港を守るために築いた西洋風の城塞でしたが未完成で、堤を修築し大砲を据え付けて防御を固めます。12月には蝦夷地を領土とする仮政府の樹立を宣言し、榎本武揚が総裁に選ばれました。
彼らは日本国からの独立を宣言したわけではなく、蝦夷地を開拓して旧幕臣の生活にあてるとともにロシアの南下に対する警備を行うと告げ、徳川家の血を引く人物を総裁に招きたいと明治新政府に打診しました。英仏両国はこれを仲介して伝えますが、明治新政府は当然承認せず、真冬であるため翌春を待って蝦夷地の「賊軍」を征伐することを計画します。
明治2年己巳(1869年)3月、箱館政権は元フランス海軍士官候補生の提案を採用し、宮古湾に集結している新政府軍の艦隊に対して外国船を装った軍艦3隻で奇襲攻撃を仕掛け、これを奪い取るという作戦に出ます。土方歳三もこれに参加しますが、新政府軍の反撃を受けて撃退され、箱館へ逃げ帰りました。新政府軍艦隊は後を追って北上し、青森港に入ります。

4月9日より始まった新政府軍の上陸作戦に対し、箱館政権は徹底抗戦を行います。1か月あまり続いた戦いの末、土方歳三は5月11日に五稜郭付近で狙撃を受けて戦死します。享年35歳。また5月15日には伊庭八郎が26歳で自害しました。
彼は心形刀流剣術道場練武館の主・伊庭秀業の嫡男で、義兄にして養父である秀俊とともに幕府に仕えて講武所教授などをつとめ、武術の達人を集めた遊撃隊を率いて新政府軍と戦いましたが、戦いの中で負傷し隻腕となります。その後も遊撃隊の生き残りとともに奮戦したものの、4月20日の木古内防衛戦で胸に銃弾を受け瀕死となります。最期は五稜郭に担ぎ込まれ、榎本武揚に渡されたモルヒネの瓶を飲み干して自決しました。彼は色白の美男で文武両道、生粋の江戸っ子かつ壮烈な死を遂げたため人気が高く、彼を描いた錦絵は飛ぶように売れたと言います。新選組も江戸っ子からは人気があったものの、彼ほどではなかったことでしょう。
5月18日、榎本ら箱館政権は新政府軍に降伏して五稜郭を開城し、箱館戦争(己巳戦争)はここに終結します。これより明治新政府は日本を統治する唯一の合法的な政府と国際的に認められ、そのもとでの大規模な国政改革「明治維新」は継続することとなりました。
◆漂◆
◆流◆
【続く】
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