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【つの版】日本刀備忘録96:御陵衛士

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 壬生浪士組改め新選組は、局長の近藤勇のもと、会津藩預かりの京都における治安維持組織のひとつとして活動しました。長州藩を後ろ盾とする尊王攘夷の志士たちは彼らによって京都から排除され、禁門の変を起こして朝敵となり、長州へ追い詰められることとなります。

◆新◆

◆選◆


山南敬助

 元治2年(1865年)2月、新選組総長の山南敬助が切腹しました。彼は奥州仙台の出身と伝えられ、前半生は定かでありませんが、試衛場に他流試合を挑んで近藤勇に敗れ、以後行動を共にするようになりました。浪士組や壬生浪士組の結成にも参加し、土方歳三とともに副長をつとめています。

 文久3年(1863年)10月、大坂高麗橋傍の呉服商・岩城升屋に不逞浪士数名が押し入る事件があり、山南は土方と共に駆けつけ、激戦の末にこれを撃退しました。この功により会津藩主から金8両を賜りますが、この戦いで左腕を負傷し、「摂州住人赤心沖光」の銘が入った2尺8寸5分の刀は激しく刃こぼれし、切っ先から1尺1寸のところで折れたといいます。翌年8月には御所警固に出勤し、京都に潜伏する長州系浪士を斬っています。

 芹沢鴨らの粛清後、山南は局長の近藤、副長の土方に次ぐ「総長」の地位につけられますが、これ以降の活動は記録に残っていません。池田屋事件にも出動しておらず、永倉新八の手記によれば池田屋事件の3週間後には病気で屯所に引き込んでいたとありますが、以後は消息すら不明となります。そして元治2年2月21日、突然「江戸へ行く」と置手紙を残して屯所から脱走しました。近藤と土方は、山南から弟のように可愛がられていた沖田総司を追手として派遣し、その日のうちに近江国大津で山南は捉えられます。そして新選組の規則(局中法度)に背いたとして切腹を命じられたのです。山南は特に抵抗も抗弁もせず、30歳の若さでその生涯を閉じました。

 彼が何故脱走したのかは、誰も記録に書き残していないため推測するしかありません。前年11月に加入した伊東甲子太郎が総長より格上の参謀に任じられて不貞腐れたためとも、近藤や土方と思想や意見の違いで対立したためとも、壬生から西本願寺に屯所を移すことに反対したためともいいます。西本願寺侍臣の西村兼文によれば、当時西本願寺は勤王色が強く、長州藩とも近しい関係にありました。そこへあえて移転して禍根を摘もうと近藤らは考えたのですが、勤王家の山南はこれに強く反対し、決別したというのです。西村は尊王攘夷派で新選組については悪しざまに書いていますから、本当かどうか定かではありませんが、長く近藤勇と行動を共にしてきた山南はあえて局中法度を破り、沖田総司の介錯により死んだのです。同年3月10日、新選組は西本願寺境内に屯所を移しました。

長州再征

 この頃、長州藩では高杉晋作らによるクーデターが勃発し、尊王討幕を掲げて藩政を掌握していました。高杉は200石取りの長州藩士の出身で、藩校の明倫館で文武両道を学びましたが、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門して久坂玄瑞と並び称され、尊王攘夷の志士として活動した人物です。藩政掌握後は下関を開港して英国と手を結ぼうとするなど不穏な動きを見せ、幕府と朝廷は「再び長州を征伐すべし」との意見で一致しました。

 元治2年改め慶応元年9月、将軍徳川家茂は上洛し、長州再征の勅許を賜りました。11月には大目付の永井尚志を長州訊問使として派遣し、安芸国広島の国泰寺で長州側と会見することになりましたが、近藤勇は会津藩を通じて同行を願い出、許可されています。伊東甲子太郎、武田観柳斎ら隊士8名が同行したものの、長州藩は警戒し、彼らを折衝役として長州藩へ派遣したいとの永井らの要請を繰り返し拒否しています。翌年には老中の小笠原長行が広島に派遣され、近藤・伊東らはこれに随行しています。新選組の使節への同行は挑発や脅しにはなったでしょうが、長州藩は屈しませんでした。

 慶応2年(1866年)6月、幕府は諸侯を率いて長州征伐を開始します。前回は戦う前に長州藩が降伏しましたが、今回は徹底抗戦となり、10万5000もの幕府軍は数で遥かに劣る長州の反撃に圧倒されます。大村益次郎率いる一軍は石見国へ攻め込み、中立を宣言した津和野藩領を通って浜田藩を制圧、石見銀山を手中におさめました。安芸や小倉での戦いも膠着状態となり、戦争によって全国的に米価が上昇したため一揆や打ち毀しが各地で頻発します。さらに7月20日には将軍徳川家茂が大坂城で薨去し、長州藩と密約を結んでいた薩摩藩からは長州征伐の停止と政体改革の建議が行われました。

 ひとまず徳川宗家を継いだ一橋慶喜は、朝廷に働きかけて8月20日に停戦の詔勅を出させます。ここに第二次長州征伐は失敗し、幕府の権威はがた落ちとなりました。公家の岩倉具視らは薩摩藩などと結託し、幕府ではなく朝廷が直接諸侯を召集して国政を改革しようとしますが、天皇の怒りに触れて討幕勢力は退けられ、12月5日に慶喜は将軍宣下を受けました。しかし12月25日には天皇(孝明天皇)が崩御し、翌慶応3年(1867年)正月に皇太子の睦仁親王(明治天皇)が14歳で即位します。

 孝明天皇は公武合体派でしたが、明治天皇の外祖父である中山忠能は息子らともども反幕府派の長州シンパで、七男の忠光は元治元年に長州藩で幕府恭順派により暗殺されています。慶喜は朝廷内の親幕府派を支援して討幕派の台頭を抑え込み、英国と結んだ長州・薩摩に対抗するためフランスと手を結び、幕府のもとで日本を近代化する改革を推し進めます(慶応の改革)。こうした政局の変化は、新選組にも深刻な対立と分裂をもたらしました。

御陵衛士

 慶応3年3月、新選組参謀の伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、同志十数名を引き抜き「御陵衛士」を結成します。御陵とは孝明天皇の陵墓である京都東山の後月輪陵を指し、御陵のある泉涌寺の塔頭・戒光寺の長老の仲介によって御陵守護の任務を拝命したことが結成の理由です。孝明天皇が公武合体派であったとはいえ、水戸学を学んでいた伊東の思想は勤王派に近く、長州の尊王攘夷派と戦って来た近藤らとは意見を異にしていました。近藤らは彼らの離脱を了承しますが、両者の間は不穏となります。

 弟の三木三郎篠原泰之進服部武雄らに加え、伊東を新選組に勧誘した藤堂平助もこれに加わります。彼は5000石の大身旗本藤堂家の庶子であり(津藩藩主藤堂家のご落胤とも)、玄武館に入門して10代半ばで北辰一刀流の目録を受け、伊東の道場にも出入りした後、近藤の試衛場に入門した人物です。沖田総司より2歳若く、小柄な美男子であったといい、文武両道かつ勇猛果敢で、新選組では副長助勤や八番隊隊長などを勤めました。池田屋事件では愛刀の上総介兼重がボロボロになるほど奮戦しますが額を切られて重傷を負い、刀代も含めて近藤・土方に次ぐ20両の褒美を下賜されています。その藤堂が近藤のもとから去ったのです。

 また藤堂と同年齢の斎藤はじめも新選組を抜け、御陵衛士に加わります。彼は播州明石藩の足軽の子で、父の右助は江戸に出て旗本に仕え、のち御家人の株を買った人物でした。一は試衛場に出入りして剣術を習っていましたが、19歳の時に旗本と口論して斬ってしまい、父の友人で京都の剣術道場主である吉田某に匿われ、師範代をつとめるようになります。そのため浪士組には加わっていませんが、壬生浪士組には加入しており、新選組では藤堂平助と同じく副長助勤、三番隊組長、撃剣師範などをつとめました。池田屋事件でも活躍して幕府と会津藩から17両を賜っています。彼が御陵衛士となったのは新選組の間者として内部情報を調査するためでした。

 伊東の方も新選組にシンパを残して情報を送らせており、互いに隊士を受け入れないとの約束を近藤と結んでいたため、後から御陵衛士に加わろうとした武田観柳斎などは新選組にも戻れず、同年6月に暗殺されています。

 同年6月10日、新選組は会津藩預かりから全員が幕臣に取り立てられました。近藤勇は御目見得以上の格の三百俵取り旗本となり、幕府代表者の一員として要人との交渉が可能になりました。また6月15日には西本願寺から不動堂村に屯所が移転し、要人警護も新選組の任務とされます。近藤は長州征伐を主張し、幕府や親藩、佐幕派の会合で演説していますが、伊東ら御陵衛士らはこれに対して8月に対長州寛容論を主張、建白書を提出しています。

 慶応3年10月14日、徳川慶喜は「朝廷に大政を奉還する」との上表を行い受理されます。これは薩摩・長州・土佐などの討幕勢力の先手を打って幕府が朝廷から委任された政治権力を返上し、実務能力を持たない朝廷から「幕府に大政を再び委任する」とお墨付きをもらうことが目的でした。果たして朝廷は外交や軍事、内政などに関する大政を再び慶喜に委任し、大義名分上では慶喜に逆らえば逆賊であるとのお墨付きを与えました。近藤は「これは尾張や越前の策謀である」と批判しましたが、これを受けて新選組の対抗勢力であった御陵衛士らの排除を計画します。斎藤一は御陵衛士の屯所から活動資金を盗んで離脱し、新選組に復帰して内部情報を近藤らに伝えました。

 11月15日夜、京都の近江屋を宿舎としていた元土佐藩士の坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺されます。彼らは土佐勤王党の一員で、薩摩・長州・土佐藩による同盟を仲介しており、大政奉還と王政復古による幕藩体制の打倒、新政府の樹立を計画していました。伊東甲子太郎や藤堂平助は龍馬らと交流があり、新選組や京都見廻組が命を狙っていると警告していたといいます。龍馬は北辰一刀流の達人でしたが、突然の襲撃に刀を抜く暇もなく、頭を斬られて重傷を負い、翌日死亡しました。中岡慎太郎も重傷を負っていてその翌日に死亡し、討幕派に大きな衝撃を与えます。

 土佐藩の家老や御陵衛士らは「新選組の犯行だ」と主張し、斬られた中岡もそう推測していますが、当の近藤勇は関与を否定しています。龍馬とトラブルのあった紀州藩や、武力討幕を目指す薩摩藩のしわざとも噂されますが確証はなく、後の証言により京都見廻組の犯行とする説が現代では有力視されていますが、これも確定しているわけではないようです。

伊東暗殺

 近江屋事件から3日後の11月18日夜、近藤は資金の用立てや国事議論を口実に伊東甲子太郎を宴席に招きます。伊東は警戒していましたがしたたかに酔っ払い、帰り道の七条油小路で新選組の大石鍬次郎らに襲撃されて暗殺されます。さらに新選組は伊東の遺体を路上に放置し、御陵衛士らを誘い出して皆殺しにしようと図ります。三木三郎・藤堂平助ら7名が駆けつけて遺体を回収しようとしますが、数十名の新選組隊士が包囲して乱戦となります。この戦いで藤堂が討死し、毛内有之助が滅多切りにされて死にました。

 服部武雄は警戒して鎖帷子を着こんでいたうえ、大柄で剛力な武術の達人で、民家の塀を背にして二刀流で立ちはだかります。彼は仲間を逃がして多数を相手に孤軍奮闘し、新選組も多くの負傷者を出します。服部は全身に20余箇所の傷を負った末、敵に向かって前のめりに倒れて死にましたが、残る御陵衛士は彼のおかげで逃げ延び、薩摩藩邸に逃げ込むことができました。伊東らの遺体はしばらく放置されたものの、新選組が去った後に回収され、先に死んだ山南敬助らの眠る四条大宮の光縁寺に埋葬されました。翌慶応4年(1868年)2月、三木三郎らによって戒光寺に改葬されています。これにより御陵衛士は解散しますが、残党は新選組を仇敵とみなしました。

王政復古

 慶応3年12月9日(西暦1868年1月3日)、幕府が5年前に英国と結んだ兵庫開港の期日から2日過ぎた日、討幕派公家の岩倉具視は薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣と結んで御所を封鎖し、王政復古の大号令を発布しました。これにより慶喜の将軍辞職京都守護職・京都所司代・幕府・摂政・関白の廃止、これに代わる総裁・議定・参与の三職の設置が宣言され、天皇親政のもと新政府の樹立が決定されます。総裁には長州派の有栖川宮、議定には親王や中山忠能ら公家、薩摩・土佐・安芸・越前などの藩主級の人物10名、参与には岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通ら19名が任じられました。

 これに対し慶喜は「自分が出席していない会議には効力がない」とし、諸外国の使節と大坂城で会談して国際的に日本の事実上の支配者であると承認させ、官職を辞さず400万石の幕府領と幕府兵力を背景として王政復古の大号令の取り消しを要求します。薩長以外の諸藩も慶喜の排除までは想定しておらず、親藩である尾張藩や越前藩は動揺し、朝廷も大政委任の継続を承認する告諭を出すありさまでした。一方で討幕勢力は全国各地でテロを頻発させ、幕府軍を挑発して暴発させようとしています。

 新選組ら京都の幕府勢力は撤退と二条城の警護を命じられますが、12月18日には伏見の墨染において近藤勇が銃撃され、肩を負傷しています。これは御陵衛士の残党によるもので、近藤は伏見城に逃れたのち大坂城へ送られ療養することとなりました。同日労咳(結核)のため近藤の妾の家で療養していた沖田総司も御陵衛士の残党に襲撃されていますが、彼は伏見奉行所に出立して難を逃れ、同じく大坂で療養することとなります。

◆錦◆

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【続く】

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