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【つの版】日本刀備忘録95:天然理心

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 文久3年(1863年)9月、壬生浪士組の筆頭局長であった芹沢鴨が何者かに暗殺されます。芹沢派の新見錦や田中伊織らも同じ頃に殺されており、壬生浪士組は近藤勇を局長とする新体制に移行することとなります。

◆新◆

◆選◆


天然理心

 近藤勇は諱を昌宜まさよし、もとの名を宮川勝五郎といい、天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現東京都調布市野水)に生まれました。父は宮川久次郎、祖父は源次郎といい、高七石一升二合の田地を所有する中流の百姓です。長男に音五郎、次男に粂蔵がおり、勝五郎は三男でした。

 嘉永元年(1848年)11月、数え15歳の勝五郎は2人の兄とともに江戸市中にあった天然理心流の剣術道場「試衛場」に入門します。この流派は遠江国の近藤内蔵之助長裕が開いたもので、寛政年間(1789-1800年)に江戸に出て両国の薬研堀に道場を構えました。彼は鹿島神道流系の剣術に加えて居合術・柔術・棒術・小具足(小太刀)術を総合的に教え、幕臣やその家来を弟子としました。また多摩や相模に赴いて百姓にも武芸を伝授し、大いに門弟を増やしたといいます。

 文化8年(1809年)に内蔵之助が没すると、門弟で養子の近藤三助方昌(実家は多摩の名主)が跡を継ぎます。彼は八王子千人同心の家などに武芸を伝授しますが10年後に急死し、弟子は大勢いたものの、後継者が不在となります。11年後の天保元年(1830年)、三助の弟子で剣術の免許を得ていた嶋崎周助が流派を継いで近藤の名字を名乗り、天保10年(1839年)に江戸市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町)に剣術道場・試衛場を開設したのです。

 入門翌年の嘉永2年(1849年)、勝五郎は目録を授かり、ついで周助の養子となって嶋崎勝太と改名します。周助も多摩の名主出身ですから、宮川家とは何らかの縁があり、次男か三男を養子にもらうために入門させたのでしょう。やがて勝太は通称をと改め(安政5年/1858年の奉納額に「島崎勇藤原義武」とあります)、さらに近藤の名字を授かって近藤勇と名乗り、万延元年(1860年)3月に清水徳川家家臣の松井氏から妻を迎えたのち、文久元年(1861年)養父の隠居により28歳で家督と道場を相続しました。

 この頃、試衛場に入門したのが土方歳蔵(文久3年に歳三と改名)です。彼は近藤勇の1歳年下で、多摩郡石田村(現東京都日野市石田)に豪農の10男として生まれました。しかし幼くして父母を失い、兄のもとで実家暮らしをしながら奉公に出たり、家伝の石田散薬の行商を行ったりしています。

 天保15年(1844年)、歳蔵の姉は従兄にあたる多摩郡日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁ぎました。嘉永2年(1849年)に日野宿で大火事が起きた際、彼の祖母が盗賊に斬り殺されたため、彦五郎は武術の必要性を痛感し、翌年に近藤周助の門人となります。安政2年(1855年)には同門の嶋崎勇(近藤勇)や小島鹿之助と義兄弟の契りをかわしました。また自宅の一画に出稽古用の道場を設け、同門や入門希望者を招いています。歳蔵は彦五郎の家にしばしば出入りしており、安政6年(1859年)3月に正式に入門しました。

 この頃、試衛場では沖田総司が塾頭をつとめていました。彼は天保13年(1842年)頃陸奥国白河藩江戸下屋敷詰めの足軽小頭の家に生まれ、9歳で試衛場に入門し、めきめきと頭角を現して塾頭になりました。15歳にして8歳年上の勇より強いと言われ、天然理心流に加えて北辰一刀流の免許皆伝も授かっており、道場では並ぶ者がなかったといいます。この他にも試衛場には多くの門人や食客が集い、剣術修行や政治談議に花を咲かせていました。

 文久2年(1862年)、幕府は清河八郎の献策を採用し、将軍上洛の警護を名目として浪士を募りました。近藤勇はこれに応じ、門人の土方歳三・沖田総司・井上源五郎山南敬助藤堂平助、食客の永倉新八原田左之助らを率いて馳せ参じます。彼らは芹沢鴨らとともに浪士組の三番隊に組み入れられ、翌年2月に京都へ出発しましたが、前述のような経緯で壬生浪士組となったのです。芹沢鴨一派も彼らによって粛清されたと思われます。同年10月には会津藩主の松平容保より「新選組」の隊名を授かりました。

池田屋変

 文久3年8月18日の政変により、長州藩とこれに与する尊王攘夷過激派は京都から追放され、公武合体派が政権を握ります。しかし朝廷も幕府も混乱を収拾して政局を主導する能力はなく、薩摩藩・会津藩・越前藩・土佐藩・宇和島藩などの諸藩と将軍後見職の一橋慶喜らを加えた「参預会議」が結成され、長州藩の処分や開港の閉鎖などについて議論が行われました。

 ところが諸侯の意見は一致せず、翌文久4年/元治元年(1864年)3月には脱会者が相次いで崩壊し、将軍家茂も再び上洛しますがまとめられず、一橋慶喜・松平容保(会津藩主・京都守護職)・松平定敬(桑名藩主・京都所司代、容保の実弟)の三者で構成された「一会桑」が朝廷と協力して京都の政局を掌握することとなります。新選組は会津藩の下部組織ですから、その意向を重んじて京都の治安維持活動にあたることが求められますし、芹沢鴨のような横暴を許していては、会津藩ばかりか朝廷の面子にも差し障ります。このため隊規は非常に厳しく定められました。なお同年2月に京都守護職は越前藩の松平春嶽に交代となりますが、新選組は引き続き会津藩預かりとなっています(4月に容保が復職)。

 元治元年4月26日、幕府は京都守護職の下に2名の京都見廻役を置き、各々に旗本や御家人200名を率いさせて見廻組と名付け、治安維持活動に当たらせました。詰所は二条城の傍らにあり、民間の浪士を募って結成された新選組とは異なり幕臣から構成された正規の組織です。彼らは主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園や三条など町人街・歓楽街を管轄したため、共同戦線をとることはあまりなかったといいます。同職務とはいえ身分の差は歴然としており、新選組にとっては目の上の瘤でした。

 元治元年6月1日、新選組は肥後熊本藩士・宮部鼎蔵の下僕忠蔵ら数名を逮捕し、拷問して情報を聞き出します。次いで5日早朝、河原町四条の薪炭商人枡屋喜右衛門(古高俊太郎)を逮捕します。彼は安政の大獄で獄死した尊王攘夷派の儒学者・梅田雲浜の弟子で、大名や公家・宮家の屋敷に出入りして長州の間者となっていた人物です。5月下旬から彼の調査を進めていた新選組は、古高を拷問にかけて自白を強要し、「御所に放火して要人を幽閉・暗殺し、天皇を長州へ連行する」という恐るべき計画を聞き出した、とされます。長州では実際に京都への進軍論も唱えられていましたが、このような陰謀が実際に計画されていたかどうかは定かではありません。

 新選組はこれを会津藩に報告し、三条・四条方面で尊王攘夷派の浪士らを捜索、三条木屋町の旅籠「池田屋」で謀議中の浪士たちを発見しました。亥の刻(夜22時頃)過ぎ、周囲を隊士らに包囲させると、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助らは池田屋に突入、戦闘を開始します。しかし相手は20数名もおり、必死で応戦しつつ裏口からの脱出を図りました。沖田は奮戦しますが持病の労咳(結核)で吐血し、藤堂は額を切られ、裏口を固めていた隊士3名が死傷して浪士数名の逃走を許します。そこへ土方率いる援軍が駆け付け、浪士9名を討ち取り4名を捕縛しました。翌朝には会津・桑名・彦根藩の応援も加わって市中での掃討作戦となり、3藩合計11名の死者を出しつつも浪士20名余が捕縛・投獄されます。

 なお新選組の隊服として有名な「袖口に白くダンダラ模様を染め抜いた浅葱色の羽織」は、歌舞伎の『忠臣蔵』を真似て芹沢鴨が制定したもので、池田屋事件の時まで着用されていましたが、それ以後は廃止されて黒づくめになりました。これは芹沢の影響を消し去りたかったのと、夜中には目立って隊士たちから不評であったからと言われます。

 これにより宮部鼎蔵、長州藩の吉田稔麿ら多くの浪士/志士が死亡し、自刃や刑死に追い込まれ、池田屋主人の惣兵衛も捕縛されて獄死するなど民間人も巻き込まれました。新選組はこの大捕り物で大いに名声を高め、朝廷と幕府から感状や褒賞を賜りましたが、この報告を受けた長州藩では報復論が噴き上がり、「藩主の冤罪を帝に訴える」との名目で上洛・挙兵します。室町時代によくあった「御所巻き」を天子に対してやろうというのです。

禁門之変

 6月下旬、長州藩兵は山崎・嵯峨・伏見などに兵を集め、朝廷に嘆願書を提出します。朝廷や諸侯は動揺しますが、天皇は会津藩を擁護して長州掃討を呼びかけ、7月19日に御所西辺の蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵による戦闘が勃発しました。薩摩・越前・大垣藩兵や新選組も援軍に駆け付けて長州藩兵と戦い、来島又兵衛・久坂玄瑞・寺島忠三郎ら長州の指導者らは形勢不利となって自害します。戦闘そのものは1日で終結しますが、長州勢や対長州勢による放火・砲撃により出火し、京都市街はこれらを火元とする火災によって甚大な被害を受けます。焼失戸数は4万9000余軒のうち2万7000余軒と半数以上に達し、死傷者は1000名を超えたといいます。

 会津藩や新選組は天王山に逃げ込んだ長州の敗残兵を掃討し、21日には自爆に追い込みました。他の長州藩兵らは逃走し、朝廷は「禁門(御所の門)に発砲した長州藩は朝敵である」と宣告、幕府に対して長州征討を命じました。幕府は尾張藩主を総督、越前藩主を副総督に任命し、西国諸侯を率いて長州藩を攻めよと命じます。新選組も会津藩に従って出陣の準備をしますが京都に留め置かれ、長州藩は戦うことなく降伏に追い込まれました。

 同年8月、新選組内部では局長の近藤勇に対する反発が高まり、隊長の永倉新八・原田左之助・斎藤一、諸士調役の島田魁と尾関雅次郎、伍長の葛山武八郎らが連名で会津藩に建白書を提出しています。会津藩主の執り成しで和解とはなりましたが、葛山武八郎は納得せず切腹しました。

 また9月には第二次の隊士募集を行うこととなり、土方・藤堂・斎藤らが江戸へ戻って剣術道場などを訪問しています。この時新たに加わったのが、藤堂平助の北辰一刀流の師匠であった伊東大蔵でした。同年の干支が甲子であったことから、彼は名を伊東甲子太郎と改め、弟の鈴木三木三郎、盟友や門人32名を率いて上洛することとなります。

◆新◆

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【続く】

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