【つの版】日本刀備忘録94:壬生浪士
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
文久3年(1863年)3月、将軍・徳川家茂は朝廷からの要請を受け、老中3名と家来3000人を率い上洛しました。その警護のため作られた「浪士組」は新選組の母体となります。彼らはどんな連中だったのでしょうか。
◆新◆
◆選◆
清河八郎
浪士組の結成を発案したのは、清河八郎という人物です。彼は出羽国田川郡清川村(現山形県東田川郡庄内町)の庄内藩郷士の出身で、もとの名を齋藤正明といいました。弘化4年(1847年)、18歳の時に江戸に出て儒学を学ぶ傍ら、玄武館に入門して北辰一刀流をも学び、免許皆伝を許されます。やがて清河八郎と名乗り、清河塾を開いて剣術と儒学を同時に教え、安政2年(1855年)には各地を旅行して名士と交わり、尊王攘夷思想を強めました。
のち幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)ほか15名を発起人として「虎尾の会」を結成、横浜外国人居留地への焼き討ちを計画しますが、幕府に知られて追われる身となります。その後は京都や九州に赴いて尊王攘夷派と接触し、鉄舟を通じて幕府政事総裁職の松平春嶽に「急務三策」を上書、攘夷断行のために大赦を発して天下の英才を集め教育すべしと吹き込みました。
幕府は江戸近辺で活動していた過激な尊王攘夷派の志士を体よく追い出すため、この計画を採用します。腕に覚えのある者であれば前科者でも百姓や町人でも問わぬと布告したため、たちまち200名を超える人数が集まり、尊王攘夷派ばかりでなく佐幕派の志士も多数加わりました。彼らは「浪士組」と名付けられて七組に分けられ、文久3年(1863年)2月に将軍家茂が上洛する前に先駆けとして京都へ向かうこととなります。
ところが京都到着後、清河八郎は彼らの代表を京都西郊壬生村の新徳寺に集め、「真の目的は将軍の警護ではなく、尊王攘夷の先鋒にある」と演説しました。幕府から浪士組を切り離し、急進的な倒幕攘夷運動に利用しようとしたのです。彼は浪士組を率いて朝廷に建白書を提出し受理されますが、これを危険視した幕府は浪士組を江戸へ呼び戻します。
この時、江戸へ戻るか京都に残留するかで浪士組内の意見が分かれ、2月末に芹沢鴨ら5名、近藤勇ら8名が京都残留を申し出て浪士組を脱退します。幕臣で取締役の鵜殿鳩翁は殿内義雄・家里次郎らに指示して京都に残留する者の募集と取りまとめを任せました。これに応じて根岸友山らも加わり、残留者は24名となります。彼らは壬生の郷士・八木源之丞の邸宅を屯所としたことから「壬生浪士」と呼ばれるようになりました。
清河八郎は江戸へ戻ると200名もの浪士組を私兵めいて動かし、軍資金調達と称して商家への押し込み強盗などを行わせたため、4月13日に幕命を受けた佐々木只三郎らによって暗殺されます。幕府は清河八郎の同志らを次々と捕縛させ、翌年正月に浪士組を「新徴組」と改名し、江戸市中警護などの役目を与えました。元治元年(1864年)には清河八郎の生国である庄内藩酒井家の預かりとなり、庄内藩士が監督役となっています。
壬生浪士
京都に残留した壬生浪士のうち、主導権を握ったのは芹沢鴨です。彼の出自や過去については謎が多く、生年も定かでありません。永倉新八らが記すところでは「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」「芹沢村浪人」と称し、自ら桓武平氏繁盛流大掾氏の末裔、諱を光幹と称していたとされ、江戸時代初期に行方郡富田村に知行100石を賜り水戸藩上席郷士となった芹沢家が存在します。しかし諸史料によれば、彼はもとの名を下村嗣次といい、常陸国多賀郡松井村(現茨城県北茨城市中郷町松井)の神官の子でした。父は下村次郎八祐といい、百姓身分から神官に取り立てられたとされます(『石河明善日記』による)。
下村嗣次は、安政5年(1858年)より始まる「戊午の密勅」返納阻止運動に参加し、万延元年(1860年)頃には行方郡玉造村の文武館を拠点とする攘夷運動組織「玉造勢」に入ったと推測されています。彼らは「横浜で攘夷を決行するため」と称して各地の豪商や豪農から資金を募り、しばしば暴力で押し借りを働いたため盗賊として取り締まりを受けました。嗣次も捕縛されて投獄されますが、水戸藩内の政変により密勅受納派が政権を握り、文久3年(1863年)初め頃に恩赦を受けて釈放されています。彼が捕縛された時に芹沢外記の家にいたため、これ以後変名として芹沢鴨を名乗ったようです。
同年2月、芹沢鴨は清河八郎の呼びかけに応じ、同志の新見錦(新家粂太郎から変名か)ら数名を伴って浪士組に参加します。彼は七つの組のうち六番組の小頭に任命され、京都では近藤勇らとともに壬生の八木邸に分宿することとなり、清河八郎と分かれて壬生浪士となったのです。しかし後ろ盾がいないとどうにもなりませんから、10日後の3月10日、芹沢・近藤らは連名で京都守護職の会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、12日には同藩の「御預かり」という立場になりました。この間に徳川家茂は上洛を果たし、京都で剣術道場の師範代をしていた斎藤一ら11名が壬生浪士に加わっています。
松平容保は、朝廷と幕府が力を合わせて(公武合体)国内の混乱を立て直し、開国は保ちつつ挙国一致で外国と交渉し、不平等条約を改正すべしという建議書を幕府に提出しており、孝明天皇からも信頼されていました。芹沢鴨が水戸藩の過激派攘夷志士くずれといえど、会津藩の御預かりとなれば、各地を騒がす不逞浪士同然に振舞うわけにはいきません。芹沢たちは会津藩から手当金を賜って制服を仕立て、面会に来た会津藩士らをもてなします。
芹沢専横
その翌日の3月25日、殿内義雄が京都四条大橋で暗殺されます。彼は家里次郎とともに鵜殿鳩翁から京都に残留する浪士組の取りまとめを任されていましたが、芹沢や近藤が主導権を握ったため対立し、粛清されたようです。孤立した家里は大坂へ出奔しますが芹沢らに追いつかれ、4月24日に士道不覚悟として強制的に切腹されます。恐れをなした根岸友山・清水吾一・遠藤丈庵・鈴木長蔵らは「伊勢参詣に行く」と称して江戸へ逃げ戻りました。
芹沢・近藤・新見は大坂で商人の平野屋五兵衛から100両を押し借りし、局長となって壬生浪士組を統率しますが、芹沢はその筆頭となり、5月25日には松平容保に攘夷実行の上書を提出しています。その名簿によると、この頃に近藤派の永倉新八の友人である島田魁ら20名が入隊しており、減少したぶんを補って余りある人数になっていました。
6月3日、芹沢・近藤ら10名が再び大坂へ下りますが、途中ですれ違った力士が道を譲らなかったため暴行を加えます。怒った力士の仲間たち(小野川部屋)は芹沢らの宴席に駆け付けて乱闘となり、力士側に死傷者が出ます。小野川部屋の年寄が詫びを入れてことはおさまったものの、大坂町奉行所や伏見警備役の近江水口藩から「壬生浪士は乱暴だ」と会津藩へ苦情が届きました。芹沢はこれを聞いて激怒し、永倉新八・原田左之助・井上源三郎・武田観柳斎ら4人を水口藩邸に派遣して詫び証文を要求します。
藩の公用方はやむなく独断で詫び証文を出しますが、藩主の耳に入れば処分は免れないため、京都二条通りで直心影流の道場を開いていた戸田一心斎を介して証文の返却を求めます。揉め事が大きくなれば会津藩から叱責されますから、芹沢は「会議の場所を提供すればそこで返す」と告げ、暗に宴会を要求しました。さっそく京都の花街である島原の角屋に宴席が設けられ、証文は首尾よく返却されます。ところが芹沢は店の対応に腹を立てて暴れまわり、7日間の営業停止を申し渡して立ち去りました。その後も壬生浪士組は不逞浪士の取り締まりを行ってはいますが、権威をかさに着て乱暴狼藉や押し借りをしばしば行い、内ゲバで殺し合ったりしています。
この頃には朔平門外の変や薩英戦争の勃発で薩摩藩が勢力を失い、長州藩を後ろ盾とする尊王攘夷過激派が勢力を伸ばしていました。そこで会津藩は薩摩藩と協力し、長州藩兵および同調者らを京都から追放することに成功します(8月18日の政変)。この時に壬生浪士組も御所や会津藩本陣警護のため駆り出されましたが、さしたる活躍はしていません。
文久3年(1863年)9月18日(16日とも)、島原の角屋に続いて壬生の八木邸で酒宴を催した芹沢は、泥酔した末に愛妾たちと同衾して寝てしまいます。深夜に大雨が降る中、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、素っ裸の芹沢に斬りかかりました。同室で寝ていた副長助勤の平山五郎と芹沢の愛妾・お梅は首を刎ねられ、驚いた芹沢は刀を取ろうとしますがかなわず、八木家の親子が寝ていた隣室に跳び込みます。しかし文机に躓いて転んだところをよってたかって斬りつけられ、無残な最期を遂げました。
至る所で乱暴狼藉の限りを尽くしていた芹沢を恨む者は数多く、因果応報と言うほかありませんが、下手人については諸説あります。永倉新八によると土方歳三、沖田総司、藤堂平助、御倉伊勢武らが実行したとされますが、西村兼文によれば土方・沖田と山南敬助、原田左之助であったといいます。おそらく会津藩から芹沢粛清の密命が近藤勇らに下されたものと思われますが、公式には「長州藩士の仕業」とされ、盛大な葬儀が催されました。芹沢派(水戸派)の新見錦や田中伊織らも同じ頃に殺されており、壬生浪士組は近藤勇を局長とする新体制に移行することとなります。
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