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【つの版】日本刀備忘録93:幕末動乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 元禄期以降は刀剣の形骸化が進みましたが、江戸時代後期には優れた刀工たちが再び現れ、寛政の改革により武芸が奨励されて剣術道場も盛んになります。さらに19世紀になると異国が日本を脅かし始め、尊王攘夷の機運が高まって社会が不安定化し、志士たちの活動が始まります。長年天下泰平であった日本で、刀剣によるテロの嵐が吹き荒れる時代が来たのです。

◆剣◆

◆心◆


幕末動乱

 いわゆる「幕末」とは、一般には嘉永6年(1853年)6月の黒船来航から、慶応3年(1868年)の王政復古と幕府終焉までの15年間を指し、長くは翌年の戊辰戦争終結までを指します。嘉永7年(1854年)、幕府は再び来航したアメリカの使節ペリー提督と日米和親条約を締結し、英国・ロシア・オランダ・フランスとも順次国交を締結していわゆる鎖国を解除、開国します。これらの条約は日本側に不利で異国に有利な「不平等条約」でした。

 嘉永7年から安政5年(1858年)にかけて、日本各地で大地震が頻発します。これが収まった安政5年からは3年にわたり海外からもたらされたコレラのパンデミックが起き、全国で30万人、江戸だけで12万人が死ぬという大惨事となりました。当時の日本の人口が3000万人として、100人に1人が死ぬという異常事態です。開国した途端にこんなことが立て続けに起きたなら、混乱と悲嘆のはけ口を求めて外国人にヘイトが向かうのは必然です。

 そもそも隣の清国では英国などに戦争を吹っ掛けられて不平等条約を結ばされ、国家存亡の危機に立たされていますから、それらの事情を知る知識人層でも悪辣な異国のやり方には危機感を抱いていました。江戸時代後期の剣術ブームで道場での稽古に打ち込んでいた剣士らは、今こそ日本を異国から守り、悪を討ち取り手柄を立て成り上がるチャンスだと決起したわけです。当時でも現代でもテロリストそのものですが、理由は理解できます。

 この頃、攘夷派志士による外国人に対するテロ事件やテロ未遂事件がしばしば起きています。安政6年(1859年)にはロシア人の海軍少尉と水兵、フランス副領事の従僕(清国人)が殺されており、安政7年(1860年)1月には英国公使通訳の日本人、2月にはオランダ人船長が殺害されました。その後もテロは相次ぎ、幕府は毎回賠償金を支払っています。かくて日本は刀剣を帯びた攘夷派のテロリストが横行する危険な国となりました。

桜田門変

 安政5年、幕府大老に就任した彦根藩主の井伊直弼は、攘夷思想に染まった朝廷の勅許のないまま諸外国との通商条約を締結します。また朝廷が次期将軍に推していた一橋慶喜(水戸藩から一橋家の養嗣子となる)ではなく、紀州藩出身の徳川慶福(家茂)を将軍に擁立したため、怒った朝廷は水戸藩へ密勅を出して幕政改革を求めます。これを知った直弼は反対派への弾圧を決行し(安政の大獄)、水戸藩士を含む攘夷派の志士が多数処分されます。

 江戸の水戸藩邸へ密勅の写しを持ち込んだのは、薩摩藩士の日下部伊三治でした。彼の父は薩摩藩を脱藩して水戸藩に仕え、伊三治も水戸藩に仕えましたがのち薩摩藩に復帰し、攘夷派の志士の中心人物として京都で活動していました。そのため安政の大獄では首謀者の一人として逮捕され、拷問の末に獄死しています。

 薩摩藩士・有村次左衛門兼清は薩摩で薬丸自顕流を、江戸で北辰一刀流を学んだ人物で、安政5年から兄の雄助とともに江戸で尊王攘夷活動を行い、脱藩して伊三治を介して水戸藩の志士と交流を持ちました。安政の大獄が起きると憤慨し、兄や水戸藩の志士らと井伊直弼らを暗殺せんと計画を巡らします。水戸藩の志士らは脱藩して江戸に潜伏し、江戸城へ向かう途中の直弼を次左衛門を含む18名で襲撃しました。

 護衛の彦根藩士らは60名もいましたが、折からの雪で視界が悪く、雨合羽を羽織り刀には柄ごと袋をかけており、とっさに抜刀できない状態でした。また江戸市中で大名の駕籠が襲われた前例は幕府始まって以来皆無で、警告は伝えられていたようですが無視されます。襲撃者らはまず一人が直訴を装って行列の前方で騒ぎを起こし、護衛の注意を引き付けたところで他の者が駕籠へ短銃(ピストル)を放ちます。井伊直弼は関口流(新心流)の居合術と柔術の達人でしたが、駕籠越しに撃たれて太股から腰にかけて貫通する傷を負い、駕籠の中から動けなくなりました。

 浪士たちは一斉に駕籠へ飛び掛かり、護衛の河西忠左衛門は二刀流で応戦して浪士の稲田重蔵を殺しますが斬り殺され、永田太郎兵衛も同じく二刀流で応戦しますが銃撃を受けて倒れます。直弼の駕籠には多数の刀が突き刺され、有村次左衛門は瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、3回斬りつけてついに首を刎ねます。しかし蘇生した彦根藩士・小河原秀之丞に背後から斬られて重傷を負い、秀之丞はその場で斬られますが、次左衛門は逃走の末に自害しました。残る水戸浪士らも自害するか自首して斬首され、2人だけが潜伏して明治時代まで生存しています。

 大老の白昼堂々の暗殺に幕府は動揺し、公式には「2ヶ月後に病死した」と発表して家督を相続させますが、幕府の権威の失墜は避けられませんでした。直弼暗殺の15日後には、この災難や江戸城の火災などを理由に「万延」と改元されています(翌年2月に文久と改元)。

文久改革

 老中の安藤信正・久世広周は井伊直弼の開国路線を踏襲し、朝廷に働きかけて皇女和宮の将軍家茂への降嫁を求め、公武合体により幕府の権威を立て直そうと図ります。幕府は朝廷に攘夷実行の意志を示し、和宮は翌文久元年(1861年)11月に江戸城に入りますが、水戸藩などの攘夷急進派は憤激し、文久2年(1862年)正月に江戸城坂下門外で安藤信正を襲撃します。今回は警備が厳重だったうえ襲撃人数も6人と少なく、信正に軽傷を負わせただけで全員討死しました。しかし幕府の権威にはまたも傷がつき、信正は4月には失脚に追い込まれます。

 これを好機として、薩摩藩の最高権力者(現藩主・島津忠義の実父)島津久光は藩兵を率いて上京し、朝廷や一橋派・水戸藩を支援して幕政改革を行おうとしました。久光に討幕の意志はなく、朝廷から攘夷急進派の処分を命じられましたが、有馬新七ら薩摩藩の急進派は挙兵討幕を企て、関白と京都所司代の首をとって久光に献上し決意を促そうともくろみます。驚愕した久光は4月に京都伏見の旅館寺田屋に集っていた急進派に対し藩士を遣わして説得させますが拒絶され、上意であるとして武力で粛清させました。

 朝廷は久光の建白書を受け入れ、幕府に勅使を派遣して改革を迫り、久光自身も藩兵1000人を率いて江戸へ向かいます。やむなく幕府はこれを受け入れ(文久の改革)、一橋慶喜を将軍後見職に、前越前藩主の松平春嶽を政事総裁職に、会津藩主の松平容保を京都守護職に任じました。さらに参勤交代も緩和され、諸大名の妻子も江戸から帰国してよいとされたため、幕府の権威は著しく低下し、朝廷の権威は相対的に上昇しました。

 同年8月、帰国途中の久光の行列は武蔵国生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)で騎馬の英国人たちに乱入され、怒った薩摩藩兵は彼らを無礼者として斬り捨てました。これはテロではなく、当時の外国人の観点からしても乱入した英国人たちが悪いのですが、不平等条約によって治外法権を得ていた英国は翌年幕府から賠償金を得たうえ薩摩に軍艦7隻を派遣して威圧し、薩英戦争が勃発することになります。また京都は長州・土佐の攘夷急進派に占拠されており、久光はやむなく薩摩へ帰還しました。

京都血風

 同文久2年7月、京都では島田左近正辰が暗殺されています。彼の出自は諸説ありますが、安政年間に井伊直弼のもと暗躍し、条約勅許や将軍擁立、安政の大獄に関して功績を立てました。直弼暗殺後も京都で幕府のために活動を続け、和宮降嫁問題に際しても関係者を調略、権勢を振るって莫大な賄賂を獲得し、「今太閤」と異名されました。彼の苛烈な政治手腕は多くの政敵を作り、特に攘夷急進派からは仇敵として恨まれていたのです。

 島田左近を殺したのは、薩摩藩士(陪臣)の田中新兵衛です。生まれつきの武士ではなく、船頭か薬種商の子であったといわれ、攘夷派の豪商・森山新蔵に気に入られて士分の株を買い与えられました。新蔵の息子の新五左衛門は文久2年4月の池田屋騒動で武装蜂起を図り、久光の命令を受けた藩士らに制圧されて自害しています。新兵衛はその後に上京し、海江田信義らのもとに身を寄せます。信義は日下部伊三治の娘婿で、生麦事件で英国人リチャードソンを介錯することになる人物であり、つまりは攘夷急進派です。

 新兵衛は京都で志士たちと交流し、その一人で豊後岡藩出身の小河おごう弥右衛門一敏かずとしから島田左近が伏見に潜伏していると聞かされ、仲間とともに暗殺に向かいます。左近は1か月逃げ隠れましたが再び発見され、ついに新兵衛により討たれたのです。このことで名を挙げた新兵衛は、土佐勤王党の武市瑞山に引き合わされ、岡田以蔵らと徒党を組んで「天誅」と称した暗殺活動を開始します。閏8月には同じ攘夷急進派の本間精一郎、9月には安政の大獄に協力した渡辺金三郎らが殺されています。

 岡田以蔵は土佐の下級郷士出身で、武市瑞山に師事し、中西派一刀流の麻田勘七直養に剣術を学びました。のち豊後岡藩で直指流剣術も学び、土佐勤王党に加わって瑞山とともに上京しています。田中新兵衛と岡田以蔵は、薩摩藩士の中村半次郎(桐野利秋)、熊本藩士の川上彦斎と並び、後世に「幕末の四大人斬り」と称されましたが、その暗殺手段は集団で突然少数を囲んで斬りかかるもので、一対一で決闘を行ったわけではありません。

朔平門変

 文久3年(1863年)3月、将軍・徳川家茂は朝廷からの要請を受け、老中3名と家来3000人を率いて上洛しました。将軍が江戸を離れて京都に入るのは家光以来229年ぶりです。さらに参内して和宮の兄である孝明天皇に攘夷を約束し、政務委任の勅命に公式に謝辞を述べます。しかし天皇との石清水八幡宮への参詣は病気と称して欠席し(清和源氏の氏神の神前で攘夷の詔勅と節刀を下されるとごまかしがききません)、名代として供奉した一橋慶喜も急病と称して辞去したため、朝廷や攘夷急進派は幕府を侮る様になります。なおこの将軍上洛に際して警護のために作られた「浪士組」は、のちの新選組の母体となりましたが、これに関しては次回に譲ります。

 この頃、朝廷で攘夷急進派の中心人物となっていたのが、中流公家の姉小路あねがこうじ公知きんともです。彼は安政5年の日米修好通商条約締結に反対し、多数の公卿とともに孝明天皇が勅許を下すことを阻止しており、文久2年には幕府への攘夷督促・上洛要請の副使として三条実美とともに江戸へ向かい、翌年2月には数え25歳で国事参政に昇格しました。長州や土佐の攘夷急進派からは盟主として仰がれましたが、幕府はもとより孝明天皇や島津久光ら公武合体派からは危険視されていました。

 幕府としては交渉による不平等条約破棄など穏便な形で「攘夷」を行いつつ、公武合体で権威を回復しようとの腹積もりでした。しかし長州藩は攘夷急進派が政権を掌握しており、幕府が朝廷に攘夷を約束した期日の文久3年5月10日より、馬関海峡を封鎖し外国船に砲撃を行う暴挙に出ます。

 同5月20日夜半、姉小路公知は御所北東の朔平門外にある猿ヶ辻で3人の刺客に襲われます。彼は従者に応戦させ、自ら扇を振るい刀を奪って奮戦し、撃退には成功したものの重傷を負い、帰宅の翌日に絶命しました。事件現場には凶器となった刀と薩摩下駄が遺棄されており、刀は薩摩の刀工奥和泉守忠重の銘で薩摩風の拵だったため、当初から薩摩藩関連者の犯行と目されましたが、犯行現場にそれとわかる物品を残すのは不自然ではあります。

 事件の2日後、薩摩藩邸に潜伏していた土佐浪士の那須信吾(土佐の佐幕開国派であった吉田東洋の暗殺犯)が姉小路邸を訪れ、遺棄された刀が薩摩藩陪臣・田中新兵衛の愛刀であると証言します。また新兵衛は公知の従者が犯人に負わせたのと同じ箇所を負傷していたといいますが、攘夷急進派の刺客として活動していた新兵衛が、その盟主である公知を暗殺する理由はないはずです。刀は犯人が盗んですり替えたとも言われますが証拠もなく、新兵衛は町奉行所で取り調べを受けることになりました。ところが彼は一言も発さず、隙を突いて脇差を抜くや切腹し、返す刀で頸動脈を掻き切り自害したため、事件の真相は不明のままとなります。

 事件の首謀者と目された薩摩藩は「田中新兵衛はこのところ精神状態が不安定であった」として関与を否定し、幕府や京都守護職である会津藩の陰謀ではとも噂されますが根拠はなく、薩摩藩と関係の深い青蓮院宮や、公知と対立していた同じ攘夷急進派の公家の関与もささやかれました。近年では公知が大坂で勝海舟と接近し、異国との条約を容認する意見に「変節」したため、実際に田中新兵衛に斬られたのではないかとの説も浮上しています。

 真相はさておき、この事件により薩摩藩は攘夷急進派の支持を失い、三条実美や長州・土佐の攘夷派がかえって勢力を伸ばします。将軍家茂と一橋慶喜は大坂から船で江戸へ帰り、薩摩藩は英国との交渉や戦争で動けず、長州藩兵は御所の警備を任される様となりました。さらには天皇が攘夷のために親征を行い、大和へ行幸するとの詔勅を勝手に出します。これを危険視した孝明天皇、公武合体派の公家や薩摩・会津ら諸侯は連携して8月18日に攘夷急進派の公家と長州藩兵を追放しますが、共通の敵がいなくなったことで一致団結できなくなり、政局はますます混迷を深めていくこととなります。

◆京都◆

◆動乱◆

【続く】

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