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【つの版】日本刀備忘録92:練兵士学

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 元和偃武・島原の乱から200年以上の長い間、日本には様々な災害や一揆はありましたが大規模な戦乱は起こらず、天下泰平が続きました。武士は刀を帯びていたものの、実際に用いることは少なくなります。しかし江戸時代には多くの剣術道場が存在し、道を究めた剣術家が存在しました。彼らの人脈は幕末維新期の政治状況にも深く関わってきます。

◆江◆

◆戸◆


神道無念

 北辰一刀流の玄武館設立から4年後、文政9年(1826年)に設立された剣術道場が神道無念流練兵館です。この流派は宝暦年間(1751-64年)に下野国の福井嘉平が起こしたもので、嘉平は江戸四谷に道場を構えましたが経営難に陥り、弟子の戸賀崎暉芳てるよしが郷里の武州清久村(現埼玉県久喜市)に道場を開いて師匠を引き取りました。安永7年(1778年)、暉芳は再び江戸に出て麹町に道場を開き、百姓にも門を開いて教授しました。

 天明3年(1783年)10月、その門人で百姓出身の大橋富吉が、牛込肴町の行元寺前で親の仇を討つ事件が起きます。この仇討ちは暉芳が道場をあげて支援しており、同じく百姓出身の岡田十松吉利ら門弟が助太刀し、暉芳は仇討ちを讃えた『天明復讐美談』なる書を著しています。また行元寺前に仇討の記念碑を立てて文人の大田南畝に碑文を揮毫させ、『敵討農家功夫伝』と題する実録本を流布させるという宣伝ぶりでした。これによって戸賀崎道場は一躍脚光を浴び、門下生は3000人を超えたといいます。

 天明8年(1788年)、岡田吉利は神田猿楽町に「撃剣館」と号する道場を開いて独立します。寛政7年(1795年)には暉芳から麹町の道場も譲られ、暉芳は清久村に戻って子孫に道場を継がせました。吉利は撃剣館を主な道場として門弟を育て、寛政12年(1800年)には常陸国多賀郡平潟村で門弟の大橋平吉が仇討ちを行い、助太刀した秋山要助が武名をあげました。撃剣館には若き日の藤田東湖豊田天功渡辺崋山江川英龍ら錚々たる俊英が入門し、文政3年(1820年)吉利が没すると、子の吉貞が跡を継ぎました。

斎藤善道

 吉利の弟子・斎藤弥九郎善道は越中国の郷士/富農出身で、江戸で旗本の家に仕えながら学問と武芸を修め、20代で撃剣館の師範代となりました。師匠が没すると吉貞の後見人となり、文政9年に江戸九段坂下俎橋付近に道場を開き「練兵館」と号したのです(のち九段坂上・現靖国神社境内に移転)。

 練兵館創立の資金援助をしたのは、同門の江川英龍です。天保6年(1835年)に英龍が伊豆韮山代官となると、弥九郎は彼に仕えて江戸詰書役に任じられました。天保8年(1837年)大坂で大塩平八郎の乱が勃発すると、弥九郎は英龍の命令で大坂へ赴いて大塩の行方を調査し、江戸へ戻ると同門の藤田東湖に状況を伝えました。また4月には英龍とともに刀剣商を装って甲州に赴き、現地の状況を調べています。

 弘化4年(1847年)2月、江川英龍は自邸に練兵館・玄武館・士学館・男谷道場など江戸の10道場から参加者を集めて他流試合を行わせます。弥九郎の長男・新太郎も数え19歳でこれに参加し、4月には2年におよぶ廻国修行に出発します。西は筑後久留米藩の加藤田神陰流、柳川藩の大石神影流道場に立ち寄り、嘉永2年(1849年)5月には肥前大村藩、6月には長州藩を訪れて剣術師範たちと試合を行いましたが、誰も彼に及びませんでした。

 これにより諸藩では神道無念流が高く評価され、練兵館へ留学生が派遣されましたが、その一人が長州藩の桂小五郎木戸孝允)です。彼は入門1年で免許皆伝されて塾頭となり、剣豪として名を轟かせました。後には高杉晋作井上聞多(馨)、伊藤博文品川弥二郎らも門弟となり、幕末の長州藩を牽引した志士たちに多大な影響を与えました。また大村藩には新太郎の弟歓之助が仕官し、桂小五郎の次の塾頭となった渡邊昇らを育てています。

桃井春蔵

 玄武館・練兵館と並び称された剣術道場が、鏡新明智きょうしんめいち士学館です。これは安永2年(1773年)桃井春蔵直由が開いたもので、戸田流抜刀術に一刀流・柳生流・堀内流を合わせたといい、戸田流抜刀術の形名「鏡心」にちなんで「鏡心明智流」と名付けました。

 道場は江戸日本橋南茅場町の長屋に設立された粗末なもので、近隣の道場に目をつけられて試合を挑まれ、直由は病気を理由に断り、養子の直一が受けましたが負けてしまいます。直由は翌年没し、直一は春蔵の名を継ぐと、道場を南八丁堀大富町あさり河岸(現東京都中央区新富)に移しました。他の道場からの嫌がらせは続きましたが、直一は竹刀打ち込み試合稽古を中心として多くの門弟を集め、文政2年(1819年)に没しました。

 三代目桃井春蔵直雄は直一の実子です。この頃に設立された練兵館とは弟子の取り合いで緊張関係にあり、文政13年(1831年)に決着をつけるため親睦試合が行われます。立会人として玄武館の千葉周作が招かれ、弟の定吉と免許者十数名を率いて万一の事態に備えましたが、士学館は惨敗を喫してしまい、千葉の仲裁で事なきを得ています。

 嘉永5年(1852年)に直雄が没すると、直正が27歳で跡を継ぎます。彼はもとの名を田中左右八郎といい、駿河国沼津藩士の家に生まれました。直心影流の剣術を2年ほど学んだ後、天保9年(1838年)14歳で江戸へ上り、士学館に入門します。彼は17歳で初伝目録、23歳で皆伝、25歳で奥伝を得、才能を見込まれて桃井直雄の婿養子とされたのです。

 安政2年(1855年)、久留米藩士・松崎浪四郎直之が江戸へ武者修行にやってきます。彼は23歳の若さでしたが、加藤田平八郎より神蔭流奥免許を、森平右衛門より宝蔵院流槍術の免許を受けており、豊後岡藩の江戸藩邸で行われた試合では桃井春蔵と斎藤新太郎に勝利しています。春蔵の弟子の上田馬之助は師匠が敗れたのに発奮して浪四郎と立ち合い、引き分けに持ち込みました。さらに千葉周作の子・栄次郎は浪四郎に勝利をおさめ、江戸の剣術道場の名声を保っています。浪四郎は各々を評して「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と讃え、これをもとに明治以降には士学館・玄武館・練兵館が「江戸の三大道場」と並び称されることとなります。

 翌安政3年(1856年)、土佐の武市瑞山岡田以蔵らを伴い士学館に入門します。彼は高知で小野一刀流を指南していた麻田直養に剣術を学び、安政元年に免許皆伝を受け、翌年自宅に道場を開いて岡田以蔵ら120人の門弟を集めていました。藩庁は剣術の技量を見込んで各地で出張教授を命じ、臨時御用として江戸での剣術修行を許可したのです。彼の師の直養は中西道場の出身でしたが、三代目桃井春蔵直雄にも剣術を習っていたので、そのツテでしょう。直正は武市の人物を見込んで免許皆伝を授け、塾頭に任じました。彼は道場の風儀を正し、気風を粛然とせしめましたが、翌年9月に土佐へ帰国しています。彼の土佐での道場は土佐勤王党の母体となりました。

心形刀流

 いわゆる「江戸の三大道場」に、心形刀流の練武館を加えて四大道場と呼ぶこともあります。この流派は天和2年(1682年)に伊庭秀明(1649-1713年)が開いたもので、彼は妻片貞明より本心刀流の印可を授かっており、それ以前に学んだ新陰流等の剣術を合わせたとされ、二刀流や居合術、枕刀(小薙刀)などの術も教えていました。平戸藩主の松浦静山(1760-1841年)は第二代伊庭秀康の高弟・水谷忠辰が開いた甲州派を修行し、『伊庭氏剣法家伝略記』や『心形刀流目録序弁解』を著しています。

 心形刀流第八代伊庭秀業(1810‐58年)は練武館と名付けた道場を開き、竹刀と防具を用いた打ち込み稽古を導入しました。老中・水野忠邦は彼を支援して門人となり幕府に取り立てましたが、天保14年(1843年)に忠邦が失脚すると秀業も隠居し、門弟を養子として第九代伊庭秀俊としました。米沢藩主の上杉斉憲ら各地の藩主・家老にも心形刀流の門人がいたといいます。

 安政3年(1856年)、幕府は安政の改革の一環として幕臣の武芸訓練機関「講武所」を設立しました。ここでは砲・槍・剣・弓・柔術が教授され、直心影流から男谷信友・榊原鍵吉・本目鑓次郎、神道無念流から藤田泰一郎、北辰一刀流から井上八郎、心形刀流から伊庭秀俊・松下誠一郎・三橋虎蔵・湊信八郎・中條金之助らが教授に選ばれています。講武所は移転や改組されながらも10年間存続し、幕府陸軍練兵場に吸収されました。のち彼らは幕府軍を率いて戊辰戦争に参戦し、新政府軍に抗うこととなります。

◆銀◆

◆魂◆

【続く】

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