【つの版】日本刀備忘録91:剣術道場
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
元和偃武・島原の乱から200年以上の長い間、日本には様々な災害や一揆はありましたが大規模な戦乱は起こらず、天下泰平が続きました。武士は刀を帯びていたものの、実際に用いることは少なくなります。しかし江戸時代には多くの剣術道場が存在し、道を究めた剣術家が存在しました。彼らの人脈は幕末維新期の政治状況にも深く関わってきます。
◆剣◆
◆心◆
直心影流
剣術は真剣を用いる技術ですが、稽古の際は木刀を用い、命中させずに寸止めや仮当てを行いました。しかし命中すれば死傷することもあり、危険と隣り合わせです。そこで新陰流の祖である上泉信綱は、剣術を教えるための道具「袋竹刀」を発明します。これは縦に割った竹を革袋に入れたもので、命中しても痛みはあるものの滅多に死傷せず、安全に稽古を行うことができます。さらに簡易で軽い稽古用の防具(竹具足)も作られ始めました。
上泉信綱の弟子の一人に奥山休賀斎こと奥平公重がおり、奥山新陰流の祖となりました。休賀斎の弟子の小笠原長治(源信斎)は真新陰流、長治の弟子の神谷直光(伝心斎)は直心流、直光の弟子の高橋弾正左衛門重治(直翁斎)は直心正統流を称します。うち直光・重治は木刀による他流試合を重んじましたが、稽古では袋竹刀を用い、防具をつけさせて怪我を防ぎました。
武州岩槻藩の江戸詰め家臣に山田平左衛門光徳(1639-1716年)がおり、木刀による試合で負傷し剣術修行を断念していましたが、直心正統流の道場で袋竹刀と防具を用いた稽古をしているのを見て感銘し、高橋重治に入門しました。やがて免許皆伝を授かった光徳はさらに諸流を修め、剣術指南・物頭として下野国烏山藩に仕え、知行150石を賜ります。
宝永7年(1710年)、72歳の光徳は一風斎と号して江戸に赴き、自ら鹿島神伝七代を称して「直心影流」を立て、芝西久保の江戸見坂(現東京都港区虎ノ門)に道場を開きました。光徳が没すると三男の長沼国郷(1688-1767年)が跡を継ぎ、宝暦年間(1751-64年)には竹刀と防具の改良をさらに進め、竹刀の長さを3尺4寸(1m余)とし、面と小手をつけて実際に打ち合う実戦稽古を始めました。これにより直心影流は数千の門人を抱えて繁栄し、江戸ばかりか日本全国へ広まり、多数の分派が生じることとなります。
長沼国郷の弟子・鈴木弥藤次藤賢は下野国烏山出身の幕臣でしたが、享保14年(1729年)徳川綱吉の養女であった竹姫(浄岸院)が島津家に嫁入りするのに付き従って薩摩へ赴き、以後は薩摩藩士となります。彼と子孫は直心影流の剣術および関口流の柔術を薩摩藩に伝え、薩摩では「真影流」とも呼ばれました。のち深見有安が江戸に上って直心影流師範より皆伝を授かり、鈴木氏とは別に道場を開いて深見流を名乗りました。
国郷の子・徳郷は安永6年(1777年)36歳で没しますが、国郷の弟子綱郷が養子となって跡を継ぎ、上州沼田藩の剣術師範に取り立てられ、以後代々その職務を受け継ぎます。綱郷の高弟・藤川弥司郎右衛門近義が下谷長者町に開いた町道場は門弟3000人を抱え、赤石郡兵衛、井上八郎、酒井良佑らの剣客を輩出しました。ついで赤石の門からは団野源之進、石川瀬平二が出、団野の道場からは男谷精一郎信友が出ることとなります。
中西道場
宝暦年間には、江戸下谷練塀小路(現東京都千代田区神田練塀町)にある小野派一刀流の中西道場でも竹刀と防具を用いた稽古が導入されています。これは中西道場二代目の中西子武によるもので、入門者が急増して繁盛しましたが、竹刀稽古にかまけて形稽古をおろそかにする者が続出します。
門下生の寺田宗有は時に17歳でしたが、竹刀稽古を「剣法の真意に背く」として不満を募らせ、道場を去って平常無敵流に入門します。12年間修行して奥義皆伝を授かり、さらに居合・槍・柔術・砲術を学んで全て皆伝を得ますが、彼が仕えた高崎藩では一刀流以外の流派が剣術師範になることが認められず、50歳を過ぎてから再び中西道場に入門しました。彼は竹刀稽古は行わず、木刀での形稽古のみ行いましたが、もとより達人ゆえ4年で免許皆伝を授かり、のち禅を学んで天真一刀流を開いています。
田沼意次が失脚して松平定信が老中首座になると武芸が奨励され、剣術ブームが起きました。武士以外の庶民は帯刀を基本的に禁じられていますが、木刀や竹刀ならいいということで竹刀稽古の道場に殺到します。この流行に乗じて寛政2年(1790年)には武芸書『撃剣叢談』が出版され、18世紀末に生まれた多数の新たな剣術流派が紹介されています。
寛政9年(1797年)、この中西道場に白井亨という数え15歳の少年が入門します。彼は父方が江戸の町人でしたが、母方の実家が信州中野の郷士で、その跡を継いでいました。寺田宗有らの指導のもと激しい稽古を積んだのち、23歳で武者修行に出ると各地の道場で他流試合を行い、岡山藩では道場を与えられるなど厚遇を受けます。のち江戸に戻って還暦を過ぎていた寺田宗有の門弟となり、天真一刀流を継ぎましたが、自ら天真伝兵法白井流の開祖となっています。
千葉周作
白井亨より10歳ほど年下に千葉周作成政がいます。彼は陸奥国気仙郡本郷(現宮城県気仙沼市本郷)の出身で幼名を於兎松と言い、父は忠左衛門成胤と言いました。数え6歳の時、父は彼を連れて出奔し、栗原郡荒谷村(現宮城県大崎市古川荒谷)に住み着きます。この地に千葉吉之丞という剣士がおり、北辰夢想流なる剣術を教えており、幼い周作は彼に10年剣を学びます。北辰とは北極星で、千葉氏の守護神・妙見菩薩のことです。
のち父とともに下総国松戸(現千葉県松戸市)に移住し、中西道場門下生の浅利義信に入門します。義信は白井亨の5歳年長で、若狭国小浜藩江戸屋敷で剣術指南をつとめるほどの達人であり、周作の才能を認めて江戸の中西道場にも通わせ、養女の婿として浅利又一郎と名乗らせました。しかし形稽古(組太刀)の改変を巡って対立し、周作は妻を伴って義信と離縁すると、北辰夢想流と小野一刀流を合わせて「北辰一刀流」を創始し、独立します。義信はのち中西家から養子をとりました(浅利義明)。
北辰一刀流は竹刀稽古と形太刀稽古(木刀)の両方を行い、神秘性を排除した極めて実践的な技術を教え、十段以上に分かれていた段位を三つに減らしました。これにより免許皆伝まで10年かかる修行が5年で済み、段位昇格の際の謝礼金も抑えられ、なおかつ実力は確かなため多数の門弟が集まりました。千葉周作は武蔵・上野・信濃などを経巡って他流試合を行い弟子を増やしますが、上野では馬庭念流に阻まれて騒動となり、撤退して江戸に戻ります。そして文政5年(1822年)、日本橋品川町に「玄武館」という道場を開きます(のち神田於玉ヶ池に移転)。時に30歳でした。
玄武館の隣には儒者・東条一堂の「瑶地塾」が、斜め向かいには天神真楊流柔術開祖・磯正足の道場があり、門弟は儒学や柔術をともに学ぶことができました。移転先の於玉ヶ池には兵学者・儒学者の佐久間象山が「象山書院」と名付けた塾を構え、玄武館と門弟の数を競っています。
天保10年(1839年)、千葉周作は徳川斉昭の招きを受けて水戸藩の剣術師範となり、馬廻役として100石の扶持を受けました。次男の栄次郎、三男の道三郎も水戸藩に仕え、門弟の海保帆平や塚田孔平らも召し抱えられます。また免許皆伝を得た門弟たちは、各地に支部となる道場を構えて指導に当たっています。やがて玄武館には30余藩から6000人もの門弟が集まって交流し、水戸藩の尊王攘夷の志士、坂本龍馬・山岡鉄舟・清河八郎・服部武雄・藤堂平助・伊東甲子太郎ら多くの人材が輩出されました。彼らは玄武館を介して全国に人脈を持っていたのです。
大石種次
天保3年(1832年)末、筑後国柳河藩(立花氏10万9000石)から大石種次という武士が江戸にやってきます。彼は通称を進といい、家は祖父種芳の代から神影流(愛洲陰流)剣術と大島流槍術の藩における師範でした。父種行は三池藩の師範も兼ねましたが、家禄は30石のままで交際費がかさみ、貧しい生活を強いられたといいます。
種次は幼い時から祖父と父に武芸を叩き込まれ、成長すると身の丈7尺(2m余)の体格に恵まれましたが、家計を補うため田畑を耕していて剣術の稽古を怠り、正月の御前試合で惨敗を喫します。発奮した彼は猛烈な稽古を重ね、18歳で免許皆伝を受けて大石神影流を開きました。
文政5年(1822年)、種次は武者修行の旅に出、豊前中津藩の長沼無双右衛門の道場を訪ねました。無双右衛門はまず門弟たちと立ち合わせて実力をはかり、8日目にようやく種次と試合を行いますが、用心して柔らかく撓る生竹で竹刀をこしらえ、種次に渡して使わせます。しかし種次は左片手突きで相手の鉄面を突き破り、眼球が面の外まで飛び出す重傷を負わせました。道場を辞去した種次は豊後から久留米へ武者修行の旅を続け、久留米では40人と立ち合って無敗であったといいます。
文政8年(1825年)6月、父種行が没し、種次は跡を継ぎます。同年に長沼無双右衛門が門人18名を連れて門下に加わり、名声を聴いて九州各地から入門者が集まりました。種次は他国の門人には槍術を教えず、剣術だけを指南したといいます。そして天保3年末、藩から聞次役を命じられ江戸に赴き、江戸府内の名門道場に次々と挑みました(文政末から天保年間とも)。
時に種次は30代半ば、体力も技術も充分でした。彼は身の丈7尺の巨漢のうえ竹刀の長さは体格に合わせて5尺3寸(160㎝)もあり、当時の江戸の剣術道場で用いられた竹刀より2尺も長く、鍋の蓋のような大きな鍔をつけていました。当時の成人男性の平均身長は5尺余りですから、このリーチで顔に左片手突きを繰り出されると誰もが突き伏せられてしまいました。これは彼がおさめた槍術を応用したものでしたが、千葉周作は同じく大きな鍔を竹刀につけて立ち合い、かろうじて引き分けに持ち込んだと伝えられます。また『一刀流極意』によると、千葉周作の兄弟子である白井亨は長さ3尺6寸、刀長2尺に満たぬ竹刀を片手に持って立ち合い、見事二本を取って勝利したといいます。しかし種次の大暴れにより江戸の剣術道場では長竹刀が流行し(現在の四つ割り竹刀の原型は種次が作ったとされます)、彼が改良した各種防具も定着していきました。
男谷信友
さて、この大石種次と勝負を繰り広げたのが、直心影流の男谷精一郎信友です。彼の曾祖父銀一は越後国刈羽郡の貧農の子で盲人でしたが奥医師の石坂家より医術を学び、高利貸しを行って莫大な富を築き上げました。彼はこのカネで検校の位と旗本男谷家の株を購入し、子孫は旗本や御家人、水戸藩士となることができたのです。
信友は団野源之進より剣術を学び、文政6年(1824年)皆伝を授かって麻布狸穴(現東京都港区)に道場を構えました。また平山行蔵から兵法を習い、宝蔵院流槍術や吉田流射術にも熟達し、文武両道の達人にして小柄で小太りの柔和な人物であったといいます。道場では竹刀による他流試合を奨励しており、挑まれた試合は断らず、三本勝負のうち一本は相手に取らせ、残る二本では必ず勝ったといいます。種次は3か月かけて江戸府中の剣術道場を巡ったのち、ついに男谷道場にやってきました。
信友は種次の挑戦を受け、3尺8寸の竹刀を手にして立ち合います。種次は得意の左片手突きで信友の顔を突きますが、信友は頭を左右に振ってこれを躱し、まず一本を先取します。そこで種次は頭ではなく、左右に動かし得ない喉の下を狙って突き、信友から一本を取りました。続く試合でも種次の突きは手に負えず、信友は恐れ入って彼に人脈を紹介したといいます。
柳川に凱旋した種次は加増を受けて60石を賜り、天保10年(1839年)に再び江戸に赴いて多くの弟子を受け入れました。同年9月には老中・水野忠邦邸に招かれて諸剣士と技を競い、翌年帰国して70石に加増されます。嘉永元年(1848年)に子の種昌に家督を譲って隠居し、文久3年(1863年)11月に67歳で没しました。種昌は容貌も剣技も父に酷似しており、同じく5尺3寸の長竹刀を携えて江戸に現れ、千葉周作の子・栄二郎に勝利しています。のち土佐藩に招かれ、藩士らに大石神影流を伝えました。後藤象二郎や吉田東洋はその門下生となっています。
種次が江戸に再来する前年の天保9年(1838年)には、島田虎之介直親が男谷道場に入門しています。彼は豊前中津藩士の家に生まれ、藩剣術師範の堀十郎左衛門より外也一刀流を学びましたが、15歳で藩中無敵となり、16歳で九州一円を武者修行して名をあげました。天保2年(1831年)18歳で江戸へ出発しますが、下関や近江に長居して7年を過ごしています。男谷信友に入門すると1年余りで師範免許を受け、奥羽へ武者修行に赴いたのち、天保14年(1843年)浅草新堀に道場を開きました。信友の親類の勝海舟もこの道場に通いましたが、虎之介は嘉永5年(1852年)39歳で病没しています。
◆剣◆
◆心◆
【続く】
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