【つの版】日本刀備忘録98:帯刀禁令
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
戊辰戦争・箱館戦争が終結し、旧幕府勢力の組織的な抵抗は終わり、明治新政府は日本唯一の正統な政府として諸外国からも承認されました。しかし国内外の困難な状況は終わっていません。新政府は諸外国と交渉して不平等条約を撤廃し、国際社会の一員として日本を近代国家、引いては列強の一角へと導かねばなりません。明治維新はなお続きます。詳しくはさておいて、日本刀や剣術のその後の歴史について見ていきましょう。
◆剣◆
◆心◆
散髪脱刀
最後の武家政権である江戸幕府を打倒して樹立された明治新政府は、天皇を頂き公家を中核とする朝廷が基盤ではありましたが、明治維新の立役者として幕府軍と実際に戦った者の多くは、薩摩や長州、土佐などの上級・下級の武士階層出身者でした。それゆえ当初から軍事政権としての色合いが濃厚であり、幕府は消滅しても諸藩や武家はそのまま存続していました。また、戦乱の際に幕府や諸藩、新政府に徴兵されたり志願兵として諸軍に加わった百姓出身者は、武家奉公人扱いとして名字帯刀を許されました。内外の情勢が不穏なこともあり、上下を問わず武装・帯刀は当然の状況です。
しかし明治2年3月(西暦1869年4月)、立法諮問機関として公議所が設立された際、森有礼は佩刀(帯刀)の禁止を提議します。彼は薩摩藩士の家に生まれ、幕末に英国へ留学し、ロシアやアメリカを経て明治元年に帰国した人物で、外交交渉を担う外国官権判事に任じられていました。近代文明諸国を歴訪した彼の眼からは、いまだに帯刀している日本人の姿は野蛮に映り、「早く蛮風を除くべし」としてそう主張したのです。とはいえ王政復古から間もない時期ですから反対意見が多数を占め、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるのはよくない」として否決されます。怒った有礼は辞表を提出しますが、翌年には少弁務使(外交官)に任命されてアメリカへ派遣され、その後も急進的な西洋化論者として活動しました。
同年6月には版籍奉還が勅許され、全国270余の諸藩が朝廷/明治政府に土地と人民(版籍)を返還し、藩主らは世襲の「知藩事」に改めて任じられます。続いて公卿や諸大名は貴族階級である華族、諸藩や旧幕臣、公家や寺院に仕えていた武士たちは士族、足軽や武家奉公人などは卒族と呼ばれ、百姓や町人一般は平民と呼ばれることになりました。卒族は2年後に廃止されて士族か平民に編入され、平民には明治3年12月(1871年2月)に礼服着用時以外の帯刀を禁止する命令が出されています。これは江戸時代にも行われていた禁令を踏襲したもので、刀剣の所持を禁止したものではありません。
明治4年7月(1871年8月)には廃藩置県が行われ、全知藩事は罷免されて東京に在住するよう命じられます。代わって非世襲の県令が中央政府から任命されて派遣されることとなり、平安時代以来1000年に渡って続いた領主による土地の私的支配は終焉しました。財源不足に苦しんでいた政府はこれにより莫大な歳入を獲得しますが、反発を抑えるため旧藩主は家禄の10分の1を俸禄として受け取り、士族にも政府から俸禄が支給されています。旧藩主らは藩財政の逼迫に苦しめられ、自由にできる資金は限られていたため、これにより借金から解放されて裕福になり、大いに喜んだといいます。しかし人口比5%に過ぎない華族・士族(42万戸)への俸禄は政府予算の4割を占めることとなり、財政を大いに圧迫しました。
明治4年8月(西暦1871年9月)、政府はいわゆる散髪脱刀令を公布し、髪型や華族・士族の帯刀については自由である(帯刀せずともよい)としました。幕末に西洋式の軍制が導入されて以来、髷を結わずに散髪(散切り頭)にする風潮が広まりつつあり、それを公認したものです。これは髷や帯刀を禁止する法令ではなく、髷を結い帯刀を続ける者も大勢いましたが、明治6年(1873年)に明治天皇が自ら散髪を行うと、官吏を中心にこれに従う者が増え始めます。帯刀して髷を結い和服を着た武士の姿は、明治時代には文明開化に乗り遅れた時代遅れの象徴となっていくのです。
撃剣興行
幕府は滅び、諸藩は消滅しましたが、これらに仕えた士族はなお存続し、新政府に仕えたり仕えなかったりしていました。官職につき俸禄を得られた者はともかく、浪人となって反政府活動に奔走する者、盗賊に身を落とす者もあり、新政府は彼らへの対応に手を焼きました。また明治6年正月に徴兵令が施行され、士族・平民を問わず西洋式の軍制が普及すると、西洋銃や大砲の扱いが重視され、古来の剣術や槍術、柔術などの武術は時代遅れの無用の長物として廃れていきます。幕末にやたらと増えた町道場の多くも立ち行かなくなり、武芸者は困窮することとなりました。
これを憂えたのが、旧幕臣の榊原鍵吉です。彼は直心影流の男谷信友から免許皆伝を授かり、幕府講武所で剣術を教授し、将軍徳川家茂に従って上洛し、京都で土佐藩浪士3人を斬ったともいう凄腕の剣士でした。講武所が陸軍所と改称して組織再編されると、鍵吉は職を辞して江戸下谷の車坂に道場を開き、上野戦争の時は輪王寺宮の護衛にあたりました。維新後は徳川家達に従って駿府に移ったのち、明治3年に江戸改め東京に戻っています。
彼は政府からの出仕命令を弟に譲り、剣術指導を行っていた者たちを困窮から救済するため、相撲興行を真似て剣術を興行(見世物)とし、その木戸銭を収入源とすることを提案します。東京府知事の大久保一翁もこれに賛同し、明治6年4月に浅草の左衛門河岸で撃剣興行が開催されます。来客は満員御礼を超え、土俵めいた試合場に派手な衣装の選手が東西に分かれて現れ、呼出・行事・見分役がついて勝敗を決しました。また薙刀や剣舞も披露されて大賑わいとなり、番付や錦絵も売り出されたといいます。
神道無念流の斎藤新太郎(二代目弥九郎)、北辰一刀流の千葉周之介(千葉周作の孫)など他の剣術家もこれに刺激され、撃剣会を結成して撃剣興行を開催します。その数は東京府内で37か所にのぼり、名古屋・大阪・久留米など全国各地に広まりました。これによりいくつかの剣術道場は収入を回復したものの、興行の乱立によって質が低下し、相撲とは違い素人には勝敗の判定がわかりにくかったこともあり、ブームは短期間で終焉しました。また時には政府への批判を演説するための人集めに利用され、いくつかの県では撃剣興行が禁止に追い込まれています。
帯刀禁令
明治5年(1872年)、司法省内に警保寮が創設され、近代国家の治安維持を行う警察制度が導入されます。2年後には内務省に移管され、のち警保局と改名して昭和22年(1947年)まで存続し、現在の警察庁の源流となりました。この警察機構の最下位に置かれたのが邏卒(巡邏兵卒)で、明治4年に薩摩藩・長州藩・会津藩・越前藩・旧幕臣出身の士族から3000人が選ばれて東京の治安維持に当たったのを始まりとしますが、3000人のうち薩摩藩出身者は2000人を占め、日本の警察には薩摩閥が形成されました。のち邏卒は英語patrolを意訳した「巡邏査察」を略した巡査と改名されます。
彼らは士族ゆえ帯刀していましたが、治安の改善を受け邏卒/巡査の帯刀は禁止され、警棒や警杖を携行するよう命じられます。明治7年(1874年)8月には一等巡査(現在の警部補相当)のみ帯刀が許されますが、得意満面で帯刀して闊歩する者が多く、2か月後には勤務時のみに制限されました。また使用には現代の警察官拳銃と同じ程度に厳しい制限があり、実戦的な武器というより国家権力や権威の象徴としての意味合いが強かったようです。
明治6年(1873年)2月には敵討禁止令が布告されます。近親者等を殺された者が犯人を自ら殺すことを禁じ、国家が法律に基づいて被害者に代わって加害者を処罰することが規定され、中世以来の慣習であった敵討ちの習俗は法的に禁止されたのです。なお御成敗式目でも敵討ちは禁止されており、実行犯は曾我兄弟の前例に従って斬首されましたが、江戸時代には奉行所に届け出て認定を受けることで特例として認められていました。
明治8年(1875年)、日本軍の将校・士官の装備として軍刀が採用されます。ただし欧米列強に範をとったため、日本刀ではなく西洋風のサーベルであり、正装時には正剣としてエペ(細身の直剣)が採用されました。サーベルは確かに日本刀に似た刀ではあるものの、日本人には扱いが難しく、次第に外装を西洋風のまま刀身を日本刀にする者も現れ始めます。
そして明治9年(1876年)3月、前年末の山縣有朋の建議を受け、いわゆる廃刀令(帯刀禁止令)が発布されます。正確には大礼服着用者、勤務中の軍人、警察官吏以外の者が刀を身に着けることを禁じたもので、平民が礼装や旅装として脇差などを身に着けることも禁止しています。所持・所有そのものは禁止していませんが、帯刀を特権としていた士族は大いに反発します。
秩禄処分
同年8月、秩禄処分が行われます。秩禄とは華族や士族に与えられた家禄と、維新功労者に与えられた賞典禄を指し、特に士族の反乱を抑えるために政府が支給していました。しかし上述のように、人口比5%に過ぎない華族や士族に支払う俸禄は歳出の4割を占めており、これを次第に切り下げていかねば国家財政が破綻します。まずは家禄に依存せぬよう農業や商工業を行うか、官吏として政府や軍、県などに仕える道を選ぶよう布告されますが、もとが薄禄の者は起業資金もなく、無為徒食のまま困窮していきます。
明治6年(1873年)、政府は秩禄を自主的に奉還した者に秩禄4-6年分に相当する起業資金を与えると告知します。ただし半分は現金、半分は秩禄公債で支払われました。7年以内に元金の全額を支払うことを約束し、それまでは毎年8%の利子を支払う売買可能な債券を発行したのです。しかし、これに応じたのは士族全体の3割にとどまりました。また家禄の額に応じて軍事資金として家禄税を課し、家禄全体の1割余りをこれで回収しました。次いで明治8年(1875年)9月には秩禄を米でなく金銭で支払うこととします。
明治9年8月に行われた秩禄処分は、これらの秩禄給与を強制的に廃止し、代償として売買可能かつ期限付きの金禄公債を支給するとしたものです。江戸時代から切り下げられ、新政府からも度重なる切り下げを受けてきた士族への俸禄は、これを最後に打ち切られます。政府は特典として土地を低価格で払い下げたため、士族の一部は公債を売った資金で農地を購入し、地方の中小地主となりました。しかし商業に活路を見出した一部の士族は、慣れない商売に失敗して借金を抱え、没落していきます。士族をカモにした詐欺も横行し、公債を安く買い漁って大金持ちになった商人もいました。
士族反乱
困窮し不平不満を抱いた士族たちは、各地で反乱を起こします。明治政府の内部でも政争により下野する者が現れ、その一人・江藤新平を擁立して勃発したのが明治7年(1874年)の佐賀の乱でした。政府は軍隊を派遣してこれをすみやかに鎮圧しますが、明治9年(1876年)10月には熊本県で神風連の乱、福岡県で秋月の乱、山口県で萩の乱が次々と勃発します。東京でもこれに呼応して旧会津藩士による反乱未遂事件(思案橋事件)が起き、米価下落による農民一揆も起きるなど、世情は不穏となっていきました。
翌明治10年(1877年)正月、下野していた西郷隆盛を首領とする旧薩摩藩の士族らが鹿児島県で挙兵し、九州各地を舞台とする最大規模の士族反乱、西南戦争が勃発します。熊本県・宮崎県・大分県にまたがる大反乱は8ヶ月も続き、福岡県でも呼応の動きが現れ、国家を大いに揺るがせました。
ことに激戦地となったのは、菊池川流域から熊本平野へ抜ける道の途中にある田原坂です。加藤清正が防衛のために整備した狭隘な道は守る側に有利で、近づこうとすれば砲撃を受けます。また政府の陸軍は主に徴兵された平民からなり、数では反乱軍に勝っていましたが、士族は幼少から軍事訓練を受けた戦闘のプロであるため少数ながら戦闘力で勝り、刀を振るっての決死の斬り込み攻撃で官軍を苦しめました。
後方支援を行っていた薩摩出身の警部らは、警視隊から剣術に秀でた者を選抜して投入することを上申します。参軍(現場指揮官)の山縣有朋は長州出身で徴兵令の主唱者ではありましたが、不本意ながらこれを許可し、自ら「抜刀隊」と命名しました。かくて3月11日に110余名が選抜され、14日早朝に決死の突撃が敢行されます。主攻3隊と遊撃1隊で編成された抜刀隊は敵軍を蹴散らして3つの堡塁を占拠しますが、被害も大きく支援も続かず、反撃を受けて撤退します。しかし同じ薩摩の士族ゆえ互角に戦えるとわかった官軍は、第二次・第三次の抜刀隊を組織し、多大な被害を出しながらも戦果をあげ、3月20日の総攻撃で田原坂攻略に成功しました。
なお当時新聞記者であった犬養毅は、3月14日の田原坂の戦いで旧会津藩士の巡査が刀を振るって奮戦し、「戊辰の復讐」と叫んでいたと記しています。これは伝聞によるものですが、抜刀隊には実際に旧会津藩士の田村五郎警部が加わっていました。ただし彼の率いる部隊は遊軍で、実際に戦闘したのは旧薩摩藩士たちです。
彼らの活躍もあって西南戦争は終結し、西郷隆盛は自害しますが、翌明治11年(1878年)には内務卿(首相)の大久保利通が東京で暗殺されました。首謀者の島田一郎は旧加賀藩の士族で、廃藩置県後は軍人となって中尉にまで昇進しますが帰郷し、不平士族らを率いて反乱を起こそうと画策します。そして西南戦争後は要人暗殺に切り替え、馬車で移動中の大久保に6人がかりで斬りかかったのです。御者と従者を連れただけで丸腰だった大久保は抵抗もできずに滅多切りにされ、無惨な最期を遂げました。
抜刀隊の活躍や大久保利通の暗殺は、明治維新後に廃れていた剣術や日本刀の価値が見直される契機となります。明治12年(1879年)西南戦争で警視隊を率いていた川路利良大警視は『撃剣再興論』を著し、警察において剣術を奨励する意向を明らかにしました。同年には警視局に撃剣世話掛が設けられ、剣術/撃剣を巡査の必修科目とし、榊原鍵吉が指導者の採用審査に当たりました。最初の指導者は小野派一刀流の梶川義正、鏡新明智流の上田美忠と逸見宗助で、以後も多くの剣客が採用されます。明治16年(1883年)には柔術世話掛も創設され、警察官は武術の達人であることが求められるようになりました。また同年には下級巡査にも帯刀が認められています。
武芸を究め国家人民のため悪党を捕縛制圧することは武士の本業ですし、国家公認で堂々と帯刀でき給与も得られるのですから、士族や平民の中からは誇りをもって警察や軍隊に志願する者が増え始めます。それでも反政府活動をしたい者は犯罪者として取り締まられるか、自由民権運動の活動家として言論をもって民衆を煽動するようになり、武力で組織的に蜂起する士族反乱は次第に収まっていくこととなります。
明治15年(1882年)には東京帝国大学教授の外山正一により「抜刀隊の詩」が発表され、フランス人の軍事顧問シャルル・ルルーにより曲がつけられて軍歌となり、明治18年(1885年)鹿鳴館で演奏されています。これは帝国陸軍の行進曲として制定されました。
◆抜◆
◆刀◆
【続く】
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