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【つの版】日本刀備忘録99:日本軍刀

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西南戦争での抜刀隊の活躍を契機として、明治維新以来廃れていた剣術と日本刀は見直されます。すでに勤務中の軍人や警察官は帯刀を許可されていましたが、明治12年(1879年)警視局に撃剣世話掛が創設され、警察官の必修科目として剣術/撃剣が教授されるようになりました。これより第二次世界大戦までの間、日本刀はしばし復権することとなるのです。

 軍刀については、なんかこのサイトがとても詳しいのでご参照ください。

◆軍◆

◆刀◆


日本軍刀

 前述のように、日本で刀が正式に軍人の装備として採用されたのは明治8年(1875年)のことです。しかし日本刀ではなく西洋諸国にならってサーベル(オランダ語sabel)とされ、儀礼用にはエペ(細身の直剣)が用いられました(海軍士官用には長剣と短剣)。サーベルは中近東から欧州に伝わった騎兵用の刀で、騎兵や歩兵が片手で扱えるよう軽く長く作られ、ガード(護拳)と呼ばれる大きな鍔が柄まで覆っており、両手で構えることが多い日本刀とは似て非なるものです。

 また軍人の全員が帯刀できたわけではなく、下士官兵と総称される上級下士官・騎兵・輜重兵・憲兵などが「帯刀本分者」とされ、官給の兵器として軍刀が支給されました。その上の将校准士官は帯刀は許可されていましたが兵器としては支給されず、軍服と同じ服制の一部として俸給により自前で準備する必要がありました。天皇は大元帥として佩刀し、元帥たる陸海軍大将も佩刀していますが、いずれも儀礼用で、古来の礼服の太刀に相当します。

 西南戦争で日本刀が見直されると、サーベルの刀身を日本刀に差し替える者も現れます。明治19年(1886年)には将校准士官用の制式軍刀が新たに作られました。外装は西洋風のサーベルで護拳を持ち、鞘にはニッケルメッキを施していますが、桜の彫物を施し柄に鮫皮を巻くなど日本の刀装具の面影を見せています。また場合によって刀身を日本刀に差し替えたり、柄を両手握りにしたり、目釘を使用するなど、和洋折衷の姿となりました。平時や礼服には模擬刀身の指揮刀(儀礼長剣)を装着しています。

 日清戦争後の明治32年(1899年)には、下士官兵用の官給軍刀として三十二年式軍刀が制定され、陸軍造兵廠などで工業的に生産されました。外装は将校准士官用とは異なり、柄は片手握りで刀身も西洋式のサーベルです。また騎兵用に長寸(刃渡り83.5cm)の甲型、輜重兵や歩兵用で短寸(刃渡り77.4cm)の乙型の二種類があります。私物ではないため将校准士官のように刀身を日本刀に差し替えることはできません。

宮本包則

 この頃明治天皇に仕えた刀工が宮本包則かねのりです。彼は文政13年(1830年)伯耆国大柿(現鳥取県西伯郡三朝町大柿)に生まれ、郷里が輩出した平安時代の刀工・伯耆安綱を慕って刀工を志し、22歳の時に備前国長船を訪ね、横山佑包に入門を許されます。7年間の修練で備前伝を会得し、師より偏諱を授かって包則と名乗ると(本名は志賀彦)、安政4年(1857年)帰郷して鳥取藩家老・倉吉領主である荒尾氏のお抱え刀工となりました。

 鳥取藩主の池田慶徳は水戸藩からの養子で尊王攘夷思想に共鳴しており、長州藩と緊密な関係を構築していました。そこで包則は文久3年(1863年)34歳で上京し、三条堀川に鍛冶場を構え、勤王の志士からの作刀の注文に積極的に応じました。さらに有栖川宮の知遇を得、慶応2年(1866年)には孝明天皇御剣を鍛錬し、翌年能登守の受領名を授かっています。王政復古後は有栖川宮や鳥取藩兵とともに桑名藩の鎮撫に従軍、京都に凱旋すると伏見稲荷に130日余も参籠して官軍の勝利を祈願し、三条小鍛冶宗近にならい刀を境内で鍛えて奉納しました。また明治天皇の御太刀・御短刀も鍛錬しています。しかし明治維新後は脱刀の風潮と廃刀令によって作刀の機会が激減し、郷里に戻って農具や包丁の鍛造で糊口を凌ぐこととなります。

 明治19年(1886年)伊勢神宮の式年遷宮に際して太刀等の奉納が必要になると、土佐藩出身の刀剣鑑定家にして靖国神社遊就館取締であった今村長賀により包則が推挙されます。数え57歳の包則は同郷の日置兼次とともに造神宮使より鍛造の命を受けて上京し、靖国神社境内の鍛錬場において太刀66振、鉾42枚、鏃3800枚を鍛え上げ、天皇から賞賛されました。

 薩摩藩出身の村田経芳つねよしは、明治13年(1880年)に最初の国産小銃「村田銃」を開発した人物ですが、軍刀の改良にも携わりました。彼は宮本包則・横山佑包ら刀工の助言を得てスウェーデン鋼と和鋼を6対4で混ぜ合わせ、まさしく和洋折衷の新たな刀を制作します。明治24年(1891年)10月、2振りの試作品を用いて豚の頭骨を試し切りしたところ、見事に切断してともに異常がなく、この結果により将校士官兵用の軍刀に採用されました。これを「村田刀」といいます。日清・日露戦争では、実用的で錆に強い村田刀が大いに活躍したと伝えられます。

 日露戦争の翌年の明治39年(1906年)、宮本包則は月山貞一とともに帝室技芸員に選ばれ、宮内省御用刀匠となり、伝統的な作刀技術の保存につとめました。大正4年(1915年)の御大典では大正天皇の大元帥刀を製作、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)や秩父宮など多くの皇族の護刀、平安神宮や明治神宮の御神宝を鍛錬、大正15年(1926年)97歳で大往生しました。

 なお、日本刀の製作に不可欠とされる「玉鋼」はたたら製鉄の一種「けら押し」によって得られますが、玉鋼の名称は明治15年(1882年)に海軍兵器局の文書で初めて現れます。これは島根県のたたら製鉄業者が陸海軍に兵器用鋼材の試験材料として納入したもので、1kg程の小さな塊に砕かれていたことから「玉のような鋼」としてそう呼ばれたもののようです。明治30年(1897年)海軍は本格的に兵器用特殊鋼の材料としてたたら製鉄による鋼を購入開始しますが、玉鋼は頃鋼に次ぐ品質のものとされていたようです。たたら製鉄は軍需産業と結びついて存続したものの、兵器に使用された鉄の8割は輸入品で、日露戦争終結後の不況、第一次世界大戦後の軍縮のあおりを受けて大正12年(1923年)には操業を停止しています。

昭和新刀

 昭和に入ると軍国主義的色彩が強まり、軍刀もその影響を受けています。昭和7年(1932年)には陸軍の三十二年式軍刀の柄を西洋風のサーベル式から日本刀形式に改めます。昭和9年(1934年)には大元帥佩刀と将校准士官用の制式軍刀が更新され、日本式の機能とデザインを取り入れた半太刀拵とされます。昭和13年(1938年)、昭和18年(1943年)にもリニューアルされ、より使いやすく堅牢になりました。

 昭和10年(1935年/皇紀2595年)には下士官兵用官給軍刀もリニューアルされて「九五式軍刀」となります。鞘は艶消し塗装のサーベル式ですが柄は日本刀式に全金属製で、外装・刀身とも頑丈な実戦向きのものです。

 昭和8年(1933年)、日本刀の復活と軍刀の需要に応えるため、東京九段の靖国神社境内に日本刀鍛錬所が開設され、日本刀鍛錬会の刀匠による作刀が行われることになりました。明治維新により刀工の多くが廃業を余儀なくされ、輸入鋼材や西洋式製鉄の伸長により古来の「たたら製鉄」も廃絶していましたが、これにより作刀用という制限付きながらも島根県仁多郡鳥上村(現奥出雲町)で復活を遂げます。靖国で作られた靖国刀は昭和20年(1945年)までの12年間に8100振りほどですが、恩賜の軍刀などにも採用され、途絶えかけていた古来の日本刀の技術を継承することとなります。

 この頃日本は朝鮮を経て満洲やチャイナ、モンゴルなど各地へ進出していましたが、従来の日本刀は北方の極寒に弱く簡単に折れるという欠点がありました。そこで各機関の研究者が改良を重ね、満鉄(南満洲鉄道株式会社)の研究所が開発した鉄道車両バネの素材鋼をもとに「満鉄刀」が製造されます。これは満洲産の鉄鉱石を精錬して得られた良質な鋼を工業機械でパイプ状に加工し、柔らかい芯鉄を入れて丸い棒とし、刀身の長さに切断したのち1本ごとに鍛造した工業製品で、寒冷地で使用しても折れず曲がらずよく切れると評判になりました。昭和12年(1937年)末には量産が開始され、満鉄総裁の松岡洋右はこれを「興亜一心刀」と名付けて1振り40円で販売し、1日100振りを生産目標として5年間に5万振りが製造されたといいます。

 他にも官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満鉄刀と同じく厳寒に対応した「振武刀(耐寒刀)」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発されました。これらは「昭和刀」「昭和新刀」「新日本刀」「新村田刀」などと呼称されます。近代科学の力をもって大量生産されたこれら工業刀は、切れ味や耐久性においては古来の日本刀を凌駕しましたが、美術品・骨董品としての価値はほとんど認められていません。また大東亜戦争末期には物資の不足により粗悪な量産品が出回ったことから、軍刀は古来の製法で作られた「本物の」日本刀に劣るとの誤解が戦後広まりました。とはいえ当時は日本刀として認識されており、歴史的にも無視できない存在です。

◆日◆

◆本◆

【続く】

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