【つの版】日本刀備忘録100:銃刀取締
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。きりがいいので最終回です。
明治維新後に剣術と日本刀は一時廃れ、軍人や警察官が帯びる刀も西洋風のサーベルになりましたが、西南戦争での抜刀隊の活躍を契機として見直されるようになり、将校や士官の中には日本刀を帯びる者も増え始めました。しかし第二次世界大戦での敗戦後、日本刀は最大の危機を迎えます。
◆日◆
◆本◆
刀剣没収
昭和20年(1945年)8月14日にポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に調印した日本は連合国の占領下に置かれました。旧日本領のうち中華民国は台湾と澎湖諸島を、ソビエト連邦は樺太・千島及び朝鮮半島北部を、アメリカ合衆国は朝鮮半島南部と沖縄諸島、小笠原諸島、ミクロネシアを分割しましたが、本土はアメリカ軍が75%、英国軍が25%(中四国地方)を占める連合国軍が制圧し、天皇並びに日本国政府は連合国軍最高司令官の総司令部(GHQ/General Headquarters)の支配下に入ります。
幕末維新期の志士たちが恐れた「異国による日本の占領」がついに実現したわけですが、幸いにも日本は植民地とはならず、アメリカ合衆国の強い影響を受けながらも7年後に主権国家として再独立を果たすこととなります。このGHQによる占領期に、日本は大規模な国政改革(戦後改革)を推進し、現在の自由と民主主義に基づく国家体制へと変化しました。
アメリカからすれば、かつて列強の一角であった日本を植民地として直接統治するのは大変な負担ですから、従順で友好的な国家として生まれ変わらせ、要所に米軍を配備して内外を牽制すればそれで充分です。日本からしても軍備の負担を肩代わりさせられ、経済に注力できます。これにより日本は80年もの間戦争せずに済み、大いに繁栄したことは歴史的事実です。
GHQは、まず日本の軍隊を解体して武装解除させ、戦犯指定した人物を逮捕します。また思想・信仰・集会・言論等の自由を制限していた法令を廃止し、政治犯を釈放し、秘密警察などの圧制的諸制度を撤廃しました。さらに財閥を解体し、農地を地主から取り上げて再分配し、労働組合を奨励し、政教分離と婦人参政権の付与、政治・経済の民主化などを命じます。これらを定着させるため、明治時代に制定された憲法の改正も指示され、日本国憲法が制定されました。改革を成し遂げ、強大な軍事力を誇った日本を平和な民主主義国家に生まれ変わらせるには、徹底した武装解除が必要不可欠です。
GHQは武装解除の一環として、全国に刀剣・銃砲などの武器類の提出を命じ、許可を得ていない者が刀剣や銃砲を所持することを禁止しました。戦前は帯刀は許可制でしたが所持は禁止されていなかったため、国民の所有する刀は500万本もありましたが(世帯数1500万ゆえ平均3世帯に1振り)、これにより全国の警察署を通して300万本もの刀剣類(脇差・槍・薙刀等含む)が没収されます。このうち20万本は東京都北区赤羽にあった進駐軍の兵器補給廠に集められて保管されました。
赤羽は荒川を挟んで埼玉県川口市に面する東京都の北端の街で、武蔵野台地の北東の崖線にあたります。近くの岩淵は鎌倉街道・奥大道が通る渡し場として古くから栄え、太田道灌は赤羽近くの台地の端に稲付城(現静勝寺)を築いて周囲を見張らせました。明治時代には鉄道の駅が赤羽に作られて発展し、日本軍の物資集積所も存在しました。米軍はそれを利用したのです。
赤羽に集められた刀剣類の大部分は廃棄されましたが、関係者の努力により昭和22年(1947年)には美術的価値の高い5600振りが日本に返還されました。これを「赤羽刀」といいます。このうち1132振りは所有者などに返還されましたが、残りは所有者不明のまま国の所有物となり、東京国立博物館の収蔵庫で保管されています。4000振りほどには銘があり、各刀匠の出身地での展示には値すると評価されますが、長期間放置されていたため錆が浮くなど研磨を要する状態になりました。平成11年(1999年)には赤羽刀のうち3209振りが「転売せず一般公開すること」「修繕は各博物館の負担で行うこと」等を条件に全国の公立博物館に無償譲与され、岐阜県関市に480振り、岡山県各地に228振り、佐賀県立博物館に114振りなどが譲渡されています。
その他の没収された刀剣類も大部分は廃棄され、鎌倉時代より阿蘇家に伝来した名刀「蛍丸」もこの時に行方不明になったと伝えられます。
こうした事態を憂えた有志により、昭和23年(1948年)2月24日、財団法人「日本美術刀剣保存協会(日刀保)」が発足します。これは美術工芸品や文化財としての日本刀の製作・研磨、並びに刀装・刀装具の製作などの技術の保存向上、必要な材料の確保、調査研究・鑑賞指導を行うための法人です。昭和43年(1968年)には刀剣博物館を設立し、昭和52年(1977年)には島根県仁多郡横田町(現奥出雲町)に「日刀保たたら」を設立、戦後に途絶えた「たたら製鉄」を復活させて刀剣の原料となる和鋼・玉鋼を生産しています。現代の日本刀の製作・売買においては、この日刀保が実施する鑑定審査の結果が重要視されています。戦後の日本社会において、日本刀はついに武器としての役割を終え、純粋に美術品・文化財となったのです。
銃刀取締
敗戦直後の日本は、海外から引き揚げて来た人々が都市に大量に流入し、物資や食糧が不足していました。農業生産力が低下していたうえ天災も続いており、流通のインフラは空襲で壊滅状態にあり、昭和17年(1942年)に制定された食糧管理制度による配給は破綻、都市部には餓死者が続出します。人々は生き残るために農村部へ買い出しに出かけ、統制外の闇物資を背負って持ち帰り、非合法の闇市を開いて物々交換などを行うことになります。
自然発生したこの闇市に入り込み、仕切り始めたのがヤクザたちです。市場に屋台・露店を出して商売を行う業者を的屋といい、江戸時代には武士や百姓や町人ではない非人身分とされていましたが、一応合法的な存在です。しかし戦後の混乱に乗じて非合法活動に手を染め、在日朝鮮人(第三国人)や進駐軍に対して自警団を組織し、愚連隊やヤクザとなっていったのです。
当時は治安が極めて悪化しており、進駐軍も治安維持の役割を日本の警察に任せていましたが、当時銃器を持てなかった日本の警察は非合法に武装した暴力組織には無力でした。また労働組合の結成がGHQによって合法化されると、企業はヤクザを雇い入れて非合法に労働組合を弾圧し、労働組合側も武装して対抗しました。こうした組織暴力を抑え込むためには、銃器や刀剣などによる民間人の武装を禁止しなければなりません。
昭和33年(1958年)、日本国政府は「銃砲刀剣類等所持取締法(略称は銃刀法)」を公布・施行しました。凶悪犯罪を未然に防止するため、銃砲や刀剣を許可なく所持することを禁止した法律で、同様のものは明治時代にすでに存在しました。銃刀法は現代までに13回の改正を経て規制が強化され、輸入や自作、使用等についても罰則が設けられました(そのため第2次改正後は「銃砲刀剣類所持等取締法」になっています)。
銃砲はさておき刀剣類については、現在のところ「刃渡り15㎝以上の刀・槍・薙刀」「刃渡り5.5㎝以上の刃物」などが所持・携帯を基本的に禁止されています。ハサミや果物ナイフ、折り畳み式ナイフ、切出し小刀の類はある程度は大丈夫ですが、刃渡りに関わらず正当な理由なく刃物などを所持していた場合、軽犯罪法違反で逮捕されます。刃がついていない模造刀でも、正当な理由がない限りは携帯できません。詳しくは条文をご確認ください。
◆刀剣◆
◆乱舞◆
いろいろ脱線しながら2年余に渡って続いた「日本刀備忘録」のコーナーは今回でおしまいです。ありがとうございました。ざっと上っ面を撫でただけですが、多少日本刀について詳しくなったような気がします。このところつのpediaが日本史に偏り過ぎているので、次は世界史に戻りましょう。
【以上です】
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