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【つの版】日本刀備忘録66:上泉信綱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 新陰流の開祖・上泉信綱は、陰流の開祖・愛洲移香斎忠久の子、小七郎宗通(元香斎)より陰流を学んだと伝えられます。永禄9年(1566年)に信綱自身が記した『影目録』にも「上古に流有り。中古に念流、新當流、また陰流有り。其の外は計るにたえず。予は諸流の奥源を極め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」とありますから、新陰流とは陰流を発展させたものです。今回からは上泉信綱と新陰流について見ていきましょう。

◆シン◆

◆陰◆


上泉信綱

 上泉かみいずみ氏は「こういづみ」ともいい、上野国勢多郡桂萱郷の上泉村(現群馬県前橋市上泉町)を本貫とする武家です。もとはこの地域の有力豪族であった大胡おおご氏の傍流で藤原秀郷の末裔とも、清和源氏足利氏の分家である一色氏の傍流が名跡を継いだとも伝えられます。信綱の父の名は諸説あり、通説では大胡武蔵守秀継、上泉家伝来の系譜では上泉武蔵守義綱、江戸時代後期の『撃剣叢談』では憲綱とします。

 彼本人の名についても諸説あり、永禄元年(1558年)の『長野信濃守在原業政家臣録』に勢多郡上泉の住人・上泉伊勢守時則が見え、永禄8年から10年(1565-67年)までに門弟に与えた目録や允可状には「上泉伊勢守藤原信綱」と記しています。一方『言継卿記』には永禄12年(1569年)正月より「大胡武蔵守」として現れ、元亀元年(1570年)5月より「上泉武蔵守信綱」として現れます。さらに初名は秀長、ついで秀綱と名乗り、永禄8年頃に伊勢守信綱と改め、のち武蔵守と名乗ったのだともいいます。生没年も定かでなく、通説では永正5年(1508年)頃の生まれで天正5年(1577年)に69歳で没したとしますが、議論の余地があるといいます。

 かように謎の多い人物ですが、同時代史料に記録がある以上は少なくとも実在の人物であり、大胡氏の一族として上泉城と領地を治め、上野西部を支配する長野氏に仕えていたようです。長野氏は上野国群馬郡長野郷を本貫とする武家で、関東管領兼上野守護の上杉氏、守護代の長尾氏を主君とし、周辺の国人衆をとりまとめて盟主となり(上州一揆)、永正9年(1512年)頃からは箕輪城(現群馬県高崎市箕郷町)を居城としていました。また分家は厩橋(前橋)に城を築き、大胡・上泉を含む上野中部を領有しています。

 後北条氏の台頭により関東の上杉氏・長尾氏の勢力が衰退すると、長野氏はこれを奉じて勢力を強め、上野の大部分を事実上支配下におさめる戦国大名となりました。箕輪城主・長野業正なりまさの時には上杉氏・長尾氏の後継者争いにも介入し、天文10年(1541年)武田氏の侵攻を受けて上野に逃れた真田幸綱を庇護しています。上泉信綱(当時は秀長/秀綱)はこの長野業正に仕え、武将として活躍する一方で兵法の修行に励んだようです。

 永正5年生まれとすると、愛洲宗通が常陸に移住した弘治元年(1555年)には48歳ですから、これ以前から兵法を学んでいたでしょう。移香斎が没した天文7年(1538年)には30歳で学びに行ける年齢ですが、関東から日向へ晩年の移香斎を訪ねたという記録も、移香斎が関東に行った記録も特にありません。宗通は彼より11歳年下ですが、師匠が年下でもいいでしょう。

 関東の出身ならば、当時流行していた鹿島新當流や香取神道流をまず学んだと思われます。香取神道流の祖・飯篠長威斎は信綱が生まれる20年前に没していますが、その弟子の松本備前守政元は大永4年(1524年)に戦死するまで健在ですし、政元の弟子の塚原卜伝は信綱より20歳ほど年長で、各地を経巡りながら武家や大名に鹿島新當流を伝授しています。後世の直心影流の伝書では「本備前守」に師事したとありますが、これは本備前守の誤記と思われます(天保14年/1843年の『武術流祖録』では松本備前守政元を師と記します)。もっとも永正5年生まれなら松本備前守が戦死した年には16歳で、卜伝に師事した可能性の方が高いでしょう。

 陰流は小七郎宗通から伝授されたとして、念流は誰から授かったのでしょうか。『武術流祖録』によると天文元年(1532年)頃、京都小笠原氏の兵法を受け継いだ小笠原宮内大輔氏隆という人がおり、信綱(当時は秀長/秀綱)にこれを授けたといいます。300年以上後の記録ですから信憑性は微妙ですが、あり得なくもありません。天文元年なら24歳の若武者です。塚原卜伝も17歳から剣術修行の旅に出ていたのですし、家督を相続する前に知見を広めるため諸国を歴遊し、京都を訪れていたとしても不思議ではないでしょう。あるいはこの頃に陰流も伝授されたのでしょうか。

関東興亡

 関東管領の上杉憲政は長野業正らの主君にあたりますが、この頃には武蔵と上野を領する程度の大名でしかなく、その権力基盤も脆弱でした。武田晴信(信玄)らが諏訪氏・村上氏らと組んで信濃東部の小県郡(上田市等)に進出すると、憲政はこれを抑えるため小県郡の南の佐久郡に進出し、諏訪氏と和睦して所領を分割します。また相模から北条氏康が武蔵に進出してくると、仇敵の扇谷上杉氏・古河公方らと同盟して対抗し、今川義元を動かして氏康と戦わせつつ、自らは後北条軍が籠る武蔵国河越城を包囲します。

 しかし天文15年(1546年)北条氏康は今川義元と和睦して武蔵に向かい、憲政率いる大軍を打ち破ります。翌年には武田晴信が佐久郡で上杉勢を撃破し、憲政(この頃に改名して憲当)の家臣たちは次々と彼を見限って氏康に調略されていきます。天文21年(1552年)には箕輪長野氏ら西上野の諸将も氏康や信玄につき、馬廻衆(近衛兵)にすら見限られた憲当は上野北部で抵抗したのち、永禄元年(1558年)までには越後に逃れました。

『撃剣叢談』によれば天文24年(1555年)大胡城が北条氏康により落城し、上泉秀綱は箕輪城に逃れて長野業正に仕えました。彼は武田・北条の軍勢を相手に奮戦して「長野十六本槍」「上野一本槍」と称えられたといいます。またこの頃に信玄が箕輪城を何度か攻めたのを打ち破ったといいますが、実際に信玄が西上野に攻め込んでくるのは何年も後の話です。

 憲当を支援していたのは、越後守護代の長尾景虎です。彼は信濃を巡って武田信玄と、上野を巡って北条氏康と対立しており、しばしば上洛して天皇や将軍から越後守護や管領相当の扱いを受けていました。憲当は景虎を自らの養子とし、上杉家の家督と関東管領の地位を譲ると約束します。永禄3年(1560年)5月、景虎は憲当を奉じて三国峠から上野へ侵攻、沼田城をはじめ上野各地の城を落とし、厩橋(前橋)を拠点として越年します。長野業正ら北関東の諸将はこぞって景虎につき、10万と称する大軍となりました。

 翌永禄4年(1561年)2月、憲当・景虎率いる上杉軍は武蔵へ、3月には相模へ侵攻します。憲当は鎌倉の鶴岡八幡宮において正式に景虎へ上杉家の家督と関東管領職を譲渡し、自らの諱を授けて上杉政虎と名乗らせました。ついで後北条氏の本拠地・小田原城を包囲しますが守りは固く、上杉軍は兵糧不足で疫病が蔓延し、憲当(出家して光徹)・政虎や長野業正らも体調を崩します。さらにこの隙をついて武田信玄が北信濃へ出兵し、北関東や越後でも諸将の不在により反乱が勃発します。やむなく政虎は厩橋へ撤退し、業正は6月に病没、子の業盛(氏盛)が跡を継ぎます。

 政虎は同年8月に川中島の戦いで武田信玄と激戦を繰り広げますが、互いに疲弊して決着がつかず、政虎は越後へ、信玄は甲斐へ引き上げます。しかし信玄は11月に再び兵を動かし、上野西部へと侵攻を開始します。また氏康も失地をすぐに回復し、武蔵中部の比企郡松山城まで兵を進めました。政虎は再び関東へ出兵し松山城へ向かいますが敗れ、厩橋にとどまって信玄・氏康を牽制します(同年末に足利義輝の偏諱を授かり輝虎と改名)。

 翌永禄5年(1562年)から永禄10年(1567年)にかけて、輝虎は北関東・信濃・越後・越中を転戦しますが、信玄・氏康連合軍の前に劣勢となり、関東の諸将の支持を失っていきます。箕輪城の長野業盛は最後まで武田軍に抵抗しますが、落城して自刃に追い込まれ、西上野は信玄の手に落ちました。

無刀捕術

『甲陽軍鑑』『関八州古戦録』『箕輪軍記』『本朝武芸小伝』等によれば、上泉秀綱は永禄6年(1563年)箕輪落城後に上泉伊勢守信綱と名乗り、新陰流を広めるため兵法家として諸国流浪の旅に出ました。『甲陽軍鑑』によれば、信玄より自分に仕えるよう求められたのを断り、代わりに信玄(晴信)より偏諱を賜り綱と称したのだといいます。ただし同時代史料では箕輪落城を永禄9年(1566年)とし、信綱は永禄8年から目録や允可状を弟子たちに与えているため、落城以前に長野氏のもとを辞したのかも知れません。時に信綱は55歳か58歳、当時は老人と言っていいでしょう。

 信綱は単独で旅に出たのではなく、直弟子で甥(姉の子)の疋田ひきた豊五郎ぶんごろう景兼かげとも、神後伊豆守(鈴木意伯)らを率いていました。東山道と東海道のどちらを進んだか定かでありませんが、彼らは尾張を経て伊勢に入り、伊勢神宮に参詣しました。伊勢国司の北畠具教(永禄6年春に隠居)は塚原卜伝に2年間師事して「一の太刀」の奥義を伝授されており、信綱は彼を訪ねて新陰流を伝授します。

 ついで彼の紹介で大和国へ赴き、奈良興福寺の子院・宝蔵院の院主である胤栄に兵法を伝授しました。さらに胤栄の紹介で大和国柳生の国人・柳生宗厳を訪ねると、宗厳は信綱との仕合を求めます。信綱はまず弟子たちに立ち会わせますが、宗厳は手も足も出ずに負け続けます。最後に信綱と立ち合うと、撃ちかかろうとしたところを懐に潜り込まれ、素手で制圧されてしまいます。信綱は「これが『無刀取り』である」と告げ、己の未熟を悟った宗厳は即座に信綱に弟子入りします。そして柳生庄に一行を招いて丁重に扱い、同じく大和出身の松田織部助清栄らとともに兵法を一心に学びました。

 伝説によると、信綱が尾張国の妙興寺で参禅していた時、刀を持った乱心者が子供をさらって人質にとり、納屋に立て籠もる事件が起きました。信綱は僧侶に墨染の衣を借りると、髪を剃り落として僧形となり、刀を持たず握り飯を2つ手にして納屋に近づきます。そして「空腹であろう。握り飯を投げるから受け取れ」と呼びかけ、やや離れたところから1つずつ握り飯を放り投げます。乱心者は相手が丸腰の老僧であることから油断し、刀を手放して2つの握り飯を両手で受け止めたので、信綱は即座に駆け寄って取り押さえたといいます。これも立派な兵法と言えるでしょう。また舞台を近江国の坂本とする説、斬りかかって来た乱心者の刀を掌で挟んで引き倒した(真剣白刃取り)とする説もあります。刀を持った敵を素手で制圧する技は中条流などにもあり、新陰流に特有というわけでもありません。

 また当時は木刀で寸止め・仮当てして稽古が行われていましたが、誤って相手を撃てば大怪我や死につながるため、信綱は「袋竹刀」を考案し、安全に稽古が行えるようにしました。これは竹をいくつかの縦割りにしたものを革筒に入れたもので、表面の皺が蟇蛙ひきがえるの肌のようなので蟇肌竹刀ともいい、単に竹刀とも呼びます。よくしなるので「しない」と呼びますが、袋を被せない竹刀は江戸時代後期に発案されたものです。

 永禄7年(1564年)、名声を高めた信綱はついに上洛し、将軍・足利義輝に謁見して剣術を披露しました。この時に信綱の相手をつとめたのが弟子の丸目まるめ蔵人佐くらんどのすけ長恵ながよしです。義輝もまた塚原卜伝から兵法を学んだ人物でしたが、翌永禄8年(1565年)5月に三好三人衆の軍勢に襲撃され討ち死にしました(永禄の変)。信綱は混乱する京都を離れて柳生に戻り、弟子たちに免状や允可状を授けています。大和は三好氏の家臣・松永久秀の領国で、柳生宗厳らもその家来ですから、信綱は間接的に久秀の庇護を受け、パトロンとしていたことになります。なお疋田景兼はこの頃伊勢の雲林院弥四郎より鹿島新當流を学んでいます。

 永禄11年(1568年)織田信長が足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛すると、久秀はこれを輔佐して大和一国を安堵されます。翌年信綱は再び上洛し、権大納言の山科言継と親交を結びました。上述の『言継卿記』の著者である彼は人脈作りに長け、織田信秀・信長や今川義元とも交流を持っていました。信綱はそのツテを利用して公卿たちに兵法を教授し、元亀元年(1570年)正月には従四位下に叙せられています。翌年7月には船橋国賢卿の前で無刀などの稽古を披露し(『国賢卿記』による)、言継に暇乞いをして下野国結城氏(下総の結城晴朝か)宛ての紹介状を授かり、京都を離れました。

 関東へ向かった信綱は信濃国の千野ちの氏(諏訪氏の分家)に兵法を教授しますが、後の動静は不明となります。上泉氏の菩提寺・恵雲山西林寺の過去帳では天正5年(1577年)1月16日を忌日としており、69歳で没したことになりますが、言継が編纂した叙位記録簿『歴名土代』には天正元年(1573年)卒とあり、帰郷からほどなくして没したとも推測されます。

 彼が畿内で活動したのは10年に満たない間でしたが、多くの弟子たちを育成して人脈を作り、新陰流を世に広めることには成功しました。そして弟子の一人・柳生宗厳の子の宗矩は徳川家康に仕え、新陰流は徳川将軍家の庇護を受けて、江戸時代に繁栄を極めることとなります。

◆柳◆

◆生◆

【続く】

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