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【つの版】日本刀備忘録65:猿飛陰流

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本兵法三大源流のひとつである陰流(影流)は、戦国時代の初期に愛洲移香斎久忠という人物によって開かれたと伝えられます。しかし、彼がどのような人物であったかは多くの謎に包まれています。残された伝説や周囲の状況から、彼や子孫、陰流の足跡をたどってみましょう。

◆島◆

◆津◆


日向戦国

 長享元年(1487年)に移香斎が訪れたという鵜戸神宮は、日向国南部の那珂郡、現在の宮崎県日南市にあり、東は日向灘に面しています。社名は海神の娘・豊玉姫が天孫瓊瓊杵尊の御子・火折尊(山幸彦)の御子を産む際、この地にの羽根で屋根を葺いた産屋(戸)を建てたことによるといい、平安時代には修験道の霊地となって「西の高野」と呼ばれるほど繁栄しました。

 繁栄の要因のひとつは、鵜戸神宮の南にある油津あぶらつです。遣唐使の時代から日本とチャイナを結ぶ航路の中継地として栄え、平安時代には日向南部と大隅・薩摩を領する摂関家の荘園・島津荘の外港のひとつとなり、南北朝時代から戦国時代にかけては倭寇の拠点ともなりました。鎌倉時代より島津氏が島津荘下司職・惣地頭・薩摩守護に任じられ、執権北条氏は日向・大隅守護職に北条分家を任じて交易の利益を吸い上げています。

 鎌倉幕府滅亡後、島津氏は足利尊氏に従って薩摩・大隅・日向三国の守護に任じられますが、守護職を分割相続したため内紛が勃発し、次第に弱体化します。これに乗じて日向宮崎郡(宮崎市など)の国人・伊東氏が室町幕府と結んで勢力を伸ばし、文明16年(1484年)には島津氏の内紛に介入して、伊東祐堯・祐国らが飫肥おび城を攻撃しました。しかし2人は島津氏に敗れて相次いで病没・戦没し、祐国の子・尹祐が17歳で跡を継ぎました。伊東氏はしばらく勢力拡大を控え、鵜戸神宮や油津港は島津氏の勢力圏におさまっています。かような戦乱の最前線ですから、兵法家や武芸者が仕官の口を求めて鵜戸や油津に到来することも珍しくなかったでしょう。

住吉平定

 伝承によれば、愛洲久忠が鵜戸神宮の岩屋に籠って瞑想していた時、目の前に蜘蛛が現れました。久忠は追い払おうとしますが、蜘蛛はひらひらと身を躱し、久忠はそのの動きを見て兵法の秘術を悟りました。すると蜘蛛は翁(または)に姿を変え、「我は鵜戸明神なり。ここから南に住む住吉と戦い、その秘術を授けよ」と命じて姿を消しました。そこで久忠が岩屋を出て南へ向かうと、果たして住吉という者がいたので、久忠は彼と仕合して打ち負かし、鵜戸明神から授かった秘術を授けて門人としたといいます。

 この「住吉」とは、海の神である住吉三神を祀った住吉神社に関係があると思われます。この神々は記紀神話によれば伊弉諾尊が黄泉国から帰還した際、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(現宮崎市の阿波岐原町か)」で禊を行った時に生じたとされますが、鵜戸神宮から南にある住吉神社を探すと油津港の南の大堂津という漁村に存在します。

 ここは細田川の河口部にある天然の良港で、河川を通じて内陸部とも繋がっており、油津ともども倭寇の拠点にふさわしい地です。久忠が鵜戸神宮の意向に従って大堂津などにいた海賊たちと戦い、あるいは交渉して味方に引き入れ、兵法の鍛錬を行ったと解することもできるでしょう。これを島津氏対伊東氏の対立と結びつけ、島津氏が鎌倉時代から秘伝としていた「薩摩影流」を久忠に授けたのだとする説もありますが、薩摩影流が鎌倉時代から存在していたのかは定かでないため保留としておきましょう。

 当時の島津氏当主は忠昌といい、薩摩・大隅・日向三国の守護職を兼ねる守護大名でしたが、桜島の噴火や領国での内紛、伊東氏らの侵攻が相次いで権力はあまり強くありませんでした。それでも琉球・朝鮮・明国との交易を行って富を蓄え、朱子学や水墨画を導入するなど文化交流も盛んに行っています。鵜戸神宮や油津周辺の海賊たちも自立傾向は強かったでしょうが、守護の権威を利用するためもあり、島津氏に従属してはいたと思われます。

 永正5年(1508年)、島津忠昌は46歳で狂気により自刃します。子の忠治と忠隆は文弱なうえともに20代で早世し、3男の忠兼(勝久)は大永6年(1526年)分家の当主・貴久を養嗣子とし、翌年家督を譲って隠居しました。この時貴久は14歳でしかなく、実権は実父の忠良(日新斎)が掌握します。これに対して勝久の子・実久らは家督奪還を図って挙兵し、島津氏は25年におよぶ内乱時代に突入することとなります。

猿飛陰流

 晩年の移香斎の動向は定かでありませんが、日向守を称して鵜戸神宮の神官となり、天文7年(1538年)に87歳で没したといいます。彼の子は小七郎宗通(元香斎)といい、永正15年(1519年)の生まれといいますから移香斎が67歳の時の子で、孫か養子かも知れません。彼は17歳の時に結婚して嫡男の常通を儲け、20歳の時に父が没していますが、『平澤家伝記』によれば弘治元年(1555年)には常陸に移住し、永禄7年(1564年)に45歳で常陸の佐竹義重に仕えたといいます。その間はどこで何をしていたかわかりません。諸国を武者修行のために経巡り、京都を経て関東に至ったのでしょうか。

 佐竹義重は常陸北部を領国とする戦国大名として家督を継いだばかりで、まだ18歳の若者でした。翌永禄8年(1565年)には後見人として実権を握っていた父・義昭が35歳の若さで急死し、反佐竹勢力の反抗が始まります。義重は父の代から同盟関係にあった上杉輝虎(謙信)との連携を強化し、常陸南西部の小田氏治をともに攻めて屈服させ、下野国那須郡や陸奥国白河郡にまで遠征して勢力を伸ばしました。また会津の蘆名氏、相模の後北条氏と対立し、関東各地の諸将と同盟して対抗するほどの勢力となっていきます。

 宗通はこの義重に仕えて兵法を指南するとともに、子の常通(永禄7年当時は29歳)とともに各地の戦場で戦いますが、8年後の天正元年(1573年)常通は37歳で病没しました。同年、53歳の宗通は孫の在通(15歳)を連れて常陸国久慈郡真弓山王大権現(現茨城県常陸太田市真弓町の真弓神社)に参籠し、前勝坊という異人が老猿に剣術を授ける夢を見ます。これにより開悟した宗通は、父が起こした陰流に「猿飛」の二字を冠して「猿飛陰流」と改めたといいます。晩年は常陸国那珂郡平澤村(現茨城県桜川市平澤)に所領を賜って平澤氏を名乗り、天正18年(1590年)に71歳で没しました。

 愛洲改め平澤在通は引き続き義重に仕え、慶長7年(1602年)に佐竹家が常陸から出羽へ転封される(久保田藩/秋田藩)と、これに従って出羽へ移りました。その後も猿飛陰流は佐竹家中に広められましたが、7代目の通有をもって断絶し、御指南役流儀は新陰流にとってかわられたといいます。

 その新陰流の開祖・上泉信綱は、愛洲小七郎宗通より陰流を学んだと伝えられます。『平澤家伝記』には彼が宗通の弟子であったという記述はないものの、信綱の直弟子・疋田豊五郎が発行した伝書には愛洲移香→小七郎宗通→上泉信綱→疋田豊五郎という流れが記されています。永禄9年(1566年)に信綱自身が記した『影目録』にも「上古に流有り。中古に念流、新當流、また陰流有り。其の外は計るにたえず。予は諸流の奥源を極め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」とありますから、新陰流とは陰流を発展させたものです。次回からは上泉信綱と新陰流について見ていきましょう。

◆the Legend◆

◆of KAGE◆

【続く】

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