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【つの版】日本刀備忘録64:倭寇影流

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本兵法三大源流のひとつである陰流(影流)は、戦国時代の初期に愛洲移香斎久忠という人物によって開かれたと伝えられます。しかし、彼がどのような人物であったかは多くの謎に包まれています。おそらく伊勢の出身であり、各地を武者修行した末に日向の鵜戸神宮で兵法の奥義に開眼したという伝説があり、陰流の目録が倭寇によって明国に伝えられていることから、修験者や倭寇/海賊だったのではという説があります。

◆海◆

◆賊◆


愛洲水軍

 後北条氏の記録によると、戦国時代に愛洲兵部少輔という者が熊野から招かれ、相模国浦賀城に配属されて水軍を率いたといいます。記録は乏しいのですが、当時の周囲の状況から彼が招かれた理由を探ってみましょう。

 浦賀は三浦半島の東部、現神奈川県横須賀市にある港町で、浦賀水道を隔てて房総半島に向かって入江が開けた水運の要衝です。もとは三浦氏庶流の横須賀氏が所領としており、永正13年(1516年)伊勢宗瑞(北条早雲)により三浦氏が滅ぼされると、水軍を率いて宗瑞およびその子孫の後北条氏に仕えました。宗瑞は鎌倉の北に玉縄城を築いて相模東部の防衛拠点とし、浦賀城・佐原城・三崎城(三浦半島突端)にも水陸の兵を配備しています。彼らは「玉縄衆」と総称されました。

 しかし大永6年(1523年)、房総半島から里見氏が水軍を率いて鎌倉に襲来し、玉縄城主に撃退される事件が起きます。その後もしばしば里見氏による襲撃が相次ぎ、弘治2(1556)年10月には里見水軍が北条水軍を打ち破って三崎城など三浦半島各地を一時占領するに至りました。そこで北条氏康は水軍の再編を行い、愛洲兵部少輔、高尾修理、小山三郎右衛門らを「浦賀定海賊衆」の将とし、舟方(水軍)に諸役を免除して防衛に当たらせました。

『小田原衆所領役帳』によると永禄3年(1560年)7月、芝浦の代官と百姓に対して「浦賀において愛洲・山本・近藤の三氏に毎月舟方の番銭(水軍維持費=防衛費用)を納めよ」と命じています。また佐原では愛洲兵部少輔が80貫文の知行(領地)を持ち、御蔵出(小田原城の金蔵からの支出)をあわせて年に212貫文余の収入があったといいます。銭1文=100円、1貫文=10万円として2120万円で、それなりの高待遇ですね。

 7年後の永禄10年(1567年)7月、里見氏がまたも三崎に攻め込んできたため、北条氏は緊急に伝馬を仕立てて各地から鍛冶・番匠を浦賀に召集し、造船を行わせます。愛洲兵部少輔は梶原景宗らとともに出陣し、菊名浦で里見水軍を迎撃して戦功をあげました。やがて劣勢となった里見氏は天正5年(1577年)に後北条氏と和睦し、浦賀城などは用済みになったとして破却されています。愛洲兵部少輔のその後はわかりませんが、永禄9年(1566年)には愛洲久忠の子が常陸に来て佐竹氏に仕えていますから、愛洲氏と関東の繋がりはそれ以前からあったようです。

 同じく熊野・志摩を拠点とした水軍としては、九鬼水軍が有名です。九鬼(九木)は中世における志摩国英虞郡の南部、現在の三重県尾鷲町にある地名で、九鬼氏はこの地の土豪でしたが、南北朝時代に東の波切城(現三重県志摩市大王町)を制圧して拠点を移し、230年にわたり栄えました。当初は伊勢国司の北畠家に仕えましたが、これを滅ぼした織田信長に仕え、伊勢長島一揆の鎮圧に功績を挙げ、志摩一国を預かる国主とされます。石山本願寺攻めでは毛利水軍を打ち破り、秀吉にも仕えて小田原攻めや朝鮮出兵にも駆り出され、徳川家康にも仕えて3万石の大名となっています。愛洲氏のうち地元にとどまった連中は九鬼水軍に組み込まれたかも知れません。

倭寇影流

 南北朝時代から戦国時代にかけて、東アジア・東南アジアにおいて活動した海賊集団が倭寇です。発端は南朝側の「悪党」たちが朝鮮半島やチャイナ沿岸に襲来し、掠奪や密貿易を行ったことによりますが、足利義満は明国と正式に国交を開いて倭寇を取り締まり、貿易によって莫大な富を獲得しました。しかし室町幕府の権威と権力が衰えて取り締まりは緩み、細川氏や大内氏ら有力守護大名による貿易に加え、倭寇が再び跳梁跋扈し始めます。

倭寇

 彼らは朝鮮・チャイナ・琉球ばかりか東南アジアのマラッカ王国にまで出没し、刀剣で武装して集団で行動し、掠奪や密貿易を行いました。戦国時代の倭寇は「後期倭寇」と呼ばれ、『明史』には「真倭(日本人)は10人のうち3人ほどで、残りはこれに従う者(真倭でない者)たちである」とあり、チャイナや朝鮮の出身者、あるいはその混血も多かったようです。実際倭寇の頭目である王直徐海は明国徽州(安徽省)の出身で、浙江省の舟山諸島や日本の五島列島・平戸島などに拠点を置き、国際的に活動していました。

 明国は倭寇の猖獗に頭を悩ませ、朱紈・胡宗憲兪大猷戚継光らに対処を命じました。彼らは徐海・王直らを策略を用いて滅ぼし、頭目を失った倭寇を撃破していきますが、倭寇は鳥銃(火縄銃)や長刀(長巻や大太刀)で武装しており、明軍を翻弄して悩ませます。こうした時、戚継光は倭寇から嘉靖40年辛酉(1561年)に戦利品として『影流目録』を入手し、倭寇の所持する刀も回収して戦術を研究し、様々な対策法を編み出しました。

 戚継光の著した兵書『紀効新書』は嘉靖39年(1560年)に出版されていますが、のちに手が加えられ、彼が没した翌年の万暦16年(1588年)に新たに出版された方には、くだんの『影流目録』の図が『辛酉刀法』として採録されています。彼によれば「倭の刀は軽快で、前後左右に飛び回り、剣で斬ろうと近づこうにも刀の方が長くて近づけず、槍で突けば柄を切断されてしまう」といい、これを防ぐために「狼筅」という武器を採用しました。

 これは枝葉をつけたままの青竹に穂先をつけた長い槍で、近づいて斬ろうとしても枝が邪魔をし、しなって斬り落とされにくく、切断されても棒や竹槍として使え、材料の入手や作成が容易といった利点があります。ただし通常の槍より重く長く、扱うには腕力が必要です。

 戚継光はこれを装備した兵を二列縦隊の後列に配備し、前列には盾と投槍、腰刀(3尺ほどの刀)を装備させました。まず前列の兵が倭寇の集団に槍を投擲し、崩れたところを盾と刀で斬りこませます。後列の兵は狼筅を構えて突き進み、刀や槍の攻撃を阻み、上から振り下ろして叩き伏せ、前列による攻撃を支援するのです。2つの部隊がつがいのオシドリ(鴛鴦)の如くに連携して戦うことから「鴛鴦陣」といい、後方にさらに長槍や火箭(ロケット花火)、鳥銃などを装備した部隊を配する場合もあります。また正面に盾持ち、後方に射撃兵、左右に狼筅や長槍を持つ兵を配したのを「三才陣」と呼び、3つの部隊が天地人の三才の如くに連携して戦います。

 戚継光はこうした戦術や武器を取り入れて配下の兵を鍛錬し、倭寇の襲来がおさまった後は北方のモンゴル軍に対しても駆り出され、これらを活用して撃退しました。対倭寇戦では兵に倭刀(日本刀)で戦わせたわけではないようですが(熟練度では相手に一日の長がありますし)、対モンゴル戦では狼筅に加えて両手持ちの大太刀(双手長刀)を歩兵に装備させ、敵の馬の脚を切り払わせる戦法を採用し、戦果を挙げています。万暦帝の宰相・張居正は戚継光を気に入り重用しましたが、張居正が万暦10年(1582年)に病没すると功績を妬まれて失脚し、失意のうちに世を去ったといいます。

 近年まで陰流(影流)に関する史料は、この『紀効新書』(およびその孫引きの『武備志』など)に記載された目録の断簡しかありませんでした。このため陰流は「倭寇の剣術」と認識されるようになり、愛洲氏が北条氏や佐竹氏に仕え日向とも縁があることから、昭和初期には新陰流宗家・柳生厳長により「愛洲移香は若くして渡海に長じ、水軍の将として遠く九州、関東、あるいは明国までその足跡を伸ばし」云々と記述されました。これは推測に過ぎませんでしたが、権威ある人物の言説だったため様々な書籍に引用されて巷間に広まっています。あり得なくもありませんが、証拠はありません。

天狗猿飛

 近年になって、国立東京博物館(東博)に16世紀に書写された愛洲陰之流の目録が所蔵されていることが判明し、専門家らによる調査が進められるようになりました。これにより『紀效新書』に記載された目録の写しが東博版の目録とほぼ同じであること、その続きがあること、新陰流や中条流、念流の技の名と通じる部分があることなどがわかってきました。

 東博版の愛洲陰流目録には構えの姿が独特な絵で描写され、禿頭髭面の剣士が二刀流の天狗と立ち会っている図などが記され、その傍らに文字で説明書きがされています。これは新陰流の秘伝書『天狗書』と一致します。また技の名は11種あり「猿飛・猿廻・山陰・月影・浮舟・浦波・獅子奮迅・山霞・陰剣・清眼・五月雨」と呼ばれますが、中条流目録では「燕飛燕廻・鍔攻・夕雲・さしあい中手・浮舟浦波・むかばき・獅子奮迅山陰」とあります。新陰流の上泉信綱が記した『影目録』では3つを省いた「燕飛・猿廻・山陰・月影・浦波・浮舟・獅子奮迅・山霞」の8種です。

 紀效新書版と東博版の文章を比較すると、いくつか違いもありますが、「猿飛」には大意として「敵がこちらより弱ければ用いる太刀(技)で、虎乱・清眼・陰剣などの構えをとり、心を動揺させず偏らず、強く斬りかかって相手の背後へ去るべし」とあります。「倭は前後左右に飛び回って攻撃する」と戚継光も書いていますから、猿のように飛び掛かり攻撃する技でしょうか。また「猿飛」の解説文に記された「虎乱・清眼・陰剣」の3つは念阿弥慈恩の得た極意で、中世の軍記物語にも「獅子奮迅」などの剣技が登場することがあります。愛洲氏自体が熊野・伊勢・志摩など近畿地方の出身とすれば、念流・中条流と同じく京流の兵法だったのでしょう。京流の兵法は鞍馬・愛宕の天狗が源義経に伝えた云々と『太平記』にもありましたね。

 続く「猿廻」は「猿回」とも書き、「敵が切り出す時、わが太刀を敵の太刀に切りつけて外す」とありますから、相手がこちらへ切りかかってきた時の防御・迎撃法のようです。中条流目録で「燕飛」「燕廻」とあるのは、猿(えん)を燕(えん)と書き換えたのでしょう。佐々木小次郎が編み出したという「燕返し」はこれのこととも、中条流の「虎切り(虎乱?)」からとも言います。

 ともあれ影流目録が明国に伝わった頃には、愛洲久忠は20年以上も前に死んでいます。彼が伊勢か志摩に生まれて京流の剣術を習い、武者修行をし、時に海賊も行い、35-6歳で日向鵜戸神宮に来て神官になり、倭寇たちに陰流を教えたとすれば、おおよその辻褄は合います。この頃の日向はどういう状況だったのでしょうか。久忠と陰流について、もう少し見ていきましょう。

◆海◆

◆賊◆

【続く】

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