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【つの版】日本刀備忘録62:塚原卜伝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 刀を武器として扱って戦うにはある程度の技術が必要で、それを指南する役目の武芸者・兵法家が戦国時代には無数に出現しました。特に剣術に秀でた者を「剣豪」といいます。今回は新當流について見てみましょう。

◆塚原◆

◆卜伝◆


塚原卜伝

 新當しんとう流は、正式には「鹿島新當流」といい、戦国時代の剣豪・塚原卜伝ぼくでんが開いた兵法の流派です。彼は延徳元年(1489年)、常陸国鹿島郡(現茨城県鹿嶋市)の鹿島神宮の神官(祝部はふりべ)の家に生まれました。実父は吉川よしかわ覚賢といい、はじめ吉川朝孝ともたかと名乗りましたが、のち塚原土佐守安幹やすもとの養子となり、塚原新右衛門高幹たかもとと改名しました。号の卜伝とは実家の吉川氏の本姓が卜部うらべであったことによります。

 この頃、鹿島郡には鹿島氏という領主が割拠していました。これは桓武平氏国香流の嫡流である大掾だいじょう氏が平安時代後期に鹿島郡の領主となって名乗ったもので、源頼朝が房総一帯の武家に推戴されると味方し、鎌倉幕府の御家人となりました。また軍神として古来崇敬を集めた鹿島神宮の神領を守る者として代々「鹿島社惣追捕使・惣大行事」に任ぜられ、室町幕府からもこの地位を追認されています。とはいえ常陸南部の国人衆の一人に過ぎず、戦国時代には北方の水戸を拠点とする江戸氏、太田の佐竹氏、下総・上総の千葉氏などに介入され、しばしば内紛を起こしていました。塚本氏はこの鹿島氏の分家筋にあたり、吉川氏は鹿島氏の家老でした。

 こうした戦乱の中、若き高幹は実父から鹿島神流(古流)を、養父からは香取神道流を学びました。鹿島神流は鹿島氏四家老の一人・松本備前守政元(政信・尚勝とも、本姓は紀氏)を流祖とする兵法で、彼は鹿島大神に祈願し霊夢中で剣術の奥義を授かったとされます。応仁2年(1468年)の生まれで卜伝より21歳年長といい、高幹の父と同年代で没年は大永4年(1524年)ですから、直接高幹に教えを授けてもいたでしょう。

 香取神道流とは、鹿島神宮の南にある下総国香取郡の香取神宮に伝わる兵法で、流祖は飯篠家直(長威斎)です。彼は下総の守護大名である千葉氏に仕えていましたが、享徳4年(1455年)に内紛で千葉氏宗家が滅亡すると牢人となり、香取神宮の近くの山に籠って修行を重ね、天神(天真)より一巻の書を授かって流派を開いたと伝えられます。松本政元、塚原安幹らは彼の弟子であり、卜伝が生まれる前年の長享2年(1488年)に68歳ないし102歳で没したとされます。68歳没として高幹の祖父か曾祖父の代にあたり、政元や安幹は晩年の弟子ということになるでしょう。

 鹿島神宮は武甕槌たけみかづち神、香取神宮は経津主ふつぬし神を祀る神社です。『日本書紀』では伊弉諾いざなぎ尊が火神軻遇突智かぐつち十握とつか剣で斬り殺した際、その血液が岩に滴って生まれた神々とされ、後に葦原中津国に派遣されて大国主神らを服属させ、まつろわぬ悪神や邪鬼を平定したとされます。彼らは東海道の果てに坐して鎮護国家の軍神となり、倭国/日本国が蝦夷を討伐して陸奥へ進出する際の守護神として崇められ、東国の武家からも諏訪大社や八幡神と並ぶ武門の神として崇敬を集めたのです。両神宮には武芸が奉納され、腕自慢の武者が集まれば互いに武芸を教え合い、自然と道場が成立したことでしょう。念流の始祖・慈恩にも下総相馬氏の出身という伝承がありますね。

諸国遍歴

 これらの兵法をおさめた高幹は、武者修行の旅に出ます。寛永年間に編纂された『卜伝遺訓抄』後書によると「17歳で京都の清水寺で真剣の仕合をして勝利してより五畿七道(日本全国)に遊行し、真剣の仕合19度、戦場37度に臨んで一度も不覚をとらず、木刀などでの打ち合いは総じて数百度に及んだが、切り傷や突き傷を一つも受けなかった。矢傷は6か所受けたが、対面した敵の武器が命中したことはなく、仕合・戦場で計212人を討ち取った」といいます。1489年生まれで数え17歳なら1505年(永正2年)頃です。当時は戦国乱世ですから、武芸者は傭兵として各地の戦場を転々としました。

 永正15年(1518年)、10余年に及んだ武者修行の末、30歳の高幹は鹿島に帰郷します。この頃、彼は松本政元の勧めで鹿島神宮に参詣して奥義を授けたまえと祈願し、千日目に神託を得て「一の太刀の妙理」を悟りました。すなわち一刀で敵を倒す秘術です。この神託に「新當」の字義があったことより、彼は自らの流派を鹿島神流と香取神道流を合わせ「鹿島新當流」と名付けました。剣術のみならず長刀なぎなたや槍も教える総合武術ですが、長刀22手・槍9手に対し剣は67手あり、やはり剣術が主体です。また実父の卜部氏の流派を伝えているとして「卜伝」と号したといいます。

 大永4年(1524年)、鹿島一族にまたも内紛が勃発します。当主の景幹が没した後、弟の義幹が跡を継ぎましたが、家老らは江戸通泰と手を結んで彼を下総に追放し、江戸氏の親戚にあたる人物を新たな当主に擁立しました。義幹は千葉氏傍流の東氏に身を寄せ、その支援を得て当主に返り咲こうと鹿島郡に攻め込み、江戸氏が支援する家老たちと戦うことになったのです。この戦いには35歳の塚原卜伝、57歳の松本政元も反義幹側で参戦し、義幹を討ち取ることに成功しますが、政元は槍で脇腹を突かれて戦死しました。戦後卜伝は再び武者修行の旅に出ることとなります。

 卜伝の武者修行中のエピソードとして、武蔵国河越城で行われた梶原長門という武芸者との仕合があります。彼は下総の出身で薙刀の名手と謳われ、柄7尺(2m余)刃長は1尺5寸(45cm)の薙刀で飛ぶ燕も切り落とす達人でしたが、卜伝はこれを聞いて刃長2尺8寸(84㎝)の大太刀を得物に選びます。長門が薙刀を構えて斬りかかると、卜伝は大太刀を振るって薙刀の柄を切り落とし、使い物にならなくしたところで切り捨てたといいます。

 この頃、河越城は扇谷上杉氏の当主・朝興の居城でした。彼は相模の小田原城に拠点を置く後北条氏と対立し、江戸城・岩槻城を奪われており、武蔵防衛のために戦力を必要としていました。卜伝や長門のような武芸者がいて仕合をしたというのであれば、そうした戦場での傭兵働きや仕官を求めてのことでしょう。卜伝は牢人とはいえど郷里に戻れば領主の跡継ぎですから、江戸氏・佐竹氏に並ぶ鹿島氏の同盟相手を求めた可能性もあります。

 またある時、対戦相手が通常とは異なる「左太刀」の構え(右手が柄尻、左手がその上を持つ)をし、勝利する時は必ず片手で打つと聞くと、その相手に対して「左太刀や片手打ちは兵法に背く卑劣なやり方だから対戦せぬ」と手紙を書き送ります。相手は侮って「それならこっちの勝ちと喧伝する」と返事を送りますが、卜伝は「ならば受けて立つ」と仕合に臨みます。相手は得意の左太刀で構えますが、卜伝はそう来ると事前に知っていますから、冷静に対処して一太刀で倒したといいます。

 また『甲陽軍鑑』によれば、ある時卜伝は渡し船の中で若い武芸者と乗り合わせ、仕合を挑まれました。卜伝は「ここでは他の客に迷惑ゆえ、陸上でお相手いたそう」と告げ、相手を先に岸に降ろすと、そのまま竿で岸を突き、櫂を漕いで離れました。相手が卑怯者と罵倒すると、卜伝は「戦わずして勝つのが最上、これぞ無手勝流じゃ」と答えたといいます。

 かように卜伝は仕合の前に相手の情報を収集し、策略を用いて自分が有利な状況で戦ったとされ、孫子の兵法にもかなっています。剣の心得をまとめた連歌集「卜伝百首」には「武士もののふの/いかに心の/たけくとも/知らぬ事には/不覚あるべし」という一首があります。

 卜伝の旅路がどのようなルートであったか定かではありませんが、東国・畿内・西国を経て九州の大宰府まで足を延ばし、行く先々で仕合を行って名声を高め、兵法の伝授を行ったとされます。『甲陽軍鑑』によれば上下80人あまりの門弟を率い、替え馬3頭と大鷹3羽を伴って威光を示し、華美に振舞ったと伝えられます。やがて実父・吉川覚賢の訃報を受けた卜伝は天文元年(1532年)に帰郷して44歳にして妻を娶り、塚原城の主となって領地を経営し、門弟の育成に力を注ぎました。

 しかし天文13年(1544年)に妻が亡くなると、卜伝は養子の彦四郎幹重に家督を譲って56歳で隠居します。そして弘治3年(1557年)、70歳を前に3回目の諸国遍歴の旅に出発しました。彼や弟子たちの活動により新當流の道場は各地に根付いて発展しており、卜伝は行く先々で歓迎され、大名やその家臣からも教えを請われるほどになっていました。翌永禄元年(1558年)末に将軍・足利義輝が三好長慶と和睦し、近江国朽木から京都へ帰還すると、卜伝はこれを訪ねて歓迎され、刀槍の兵法を指導しました。義輝の家来・細川藤孝もこの時に卜伝より指導を受けたといいます。

 足利義輝は三好氏を厚遇して将軍の地位を安定させ、諸大名とも交流して幕府の権威を再建しますが、三好長慶らが没すると自らの権力を強めようと図り、永禄8年に三好方により襲撃されます(永禄の変)。同時代記録によると義輝は自ら薙刀や刀を振るって奮戦し、敵軍に斬りこんで討ち死にしたといいいます。「足利家に伝わる名刀を畳に突き刺し、取り替えながら敵兵を斬り殺した」という話は、江戸時代後期の『日本外史』によるものです。

 やがて京都を立ち去った卜伝は伊勢国主の北畠具教のもとを訪ね、2年間指導して奥義「一の太刀」を授けました。駿河では今川氏真、甲斐では武田信玄に剣技を披露し、信玄の家臣の山本勘助原虎胤海野輝幸らを指導、下野では唐沢城主の佐野昌綱や弟の房綱(天徳寺宝衍)らを教え、永禄9年(1566年)に帰郷します。その5年後、元亀2年(1571年)に卜伝は83年の生涯を終えました。

卜伝門弟

 卜伝に関する同時代史料は乏しく、上述の『卜伝遺訓抄』『甲陽軍鑑』、『鹿島治乱記』『鹿嶋史』『勢州軍記』『本朝武芸小伝』『関八州古戦録』など江戸時代に編纂された書物に名が見えます。実在はしたらしく、彼の弟子を名乗る武芸者らが戦国後期から江戸時代にかけて活動しています。

 天文22年(1553年)、伊勢の雲林院うじい城(現三重県津市芸濃町雲林院)の城主・雲林院弥四郎光秀に対して発給された、卜伝による新當流の允可状が現存しています。この頃の卜伝は3回目の諸国遍歴より前、鹿島で隠居していた頃と思われますが、雲林院光秀が彼のもとを訪れて教えを受けたのでしょうか。また光秀は永禄9年(1566年)に上泉信綱の高弟・疋田(侏田)文五郎景兼から起請文を送られて新當流の兵法を伝授しており、同年書かれた上泉信綱の『影目録』にも前述のように新當流の名が見えます。当時の伝書には甲冑を着こんだ武者に対する戦い方(介者剣術)が絵図つきで記載されており、戦場での実戦的な流派であったことが見て取れます。

 永禄10年(1567年)から12年にかけて、織田信長は伊勢へ勢力を拡大し、息子たちを神戸氏・長野氏・北畠氏の養嗣子にねじ込んで服属させました。雲林院光秀は信長に対抗して所領を失い、大和国添上郡柳生(現奈良市柳生)に逃れて隠棲、松軒を名乗ります。のち信長に召し出され、信長の子で北伊勢の神戸氏を継いだ信孝の兵法指南役となりました。

 実際に天正6年(1578年)に信孝から松軒に宛てて出された起請文が現存しますし、その前の天正3年(1575年)には大友宗麟の子で信長に接近していた義統からも松軒宛ての起請文が送られています。江戸時代初期に成立した『信長公記』には、本能寺の変が起きた時に安土城の留守居役として「雲林院出羽守」がいたといい、これは松軒のことと思われます。

 松軒の子は同じく雲林院弥四郎を名乗り、諱を光成としました。生年は本能寺の変の前年、天正9年(1581年)といいますが、1553年に父が20歳だとしても48歳の時の子です。松軒の主君である信孝は、本能寺の変の後の勢力争いに敗れて天正11年(1583年)に自害しましたが、光成はおそらく父とともに生き延び、柳生へ逃れたようです。柳生の領主・宗厳は上泉信綱の高弟で新陰流の目録を授かっており、光成は父から新當流を、宗厳の高弟・村田弥三久次から新陰流を習い、40歳で免許皆伝しました。

 光成は大和郡山藩主の松平忠明に仕えますが、のちに豊前小倉藩主・細川忠利に仕え、彼が肥後熊本へ転封されると招かれて肥後へ赴き、客分として柳生流の兵法を教授しました。柳生宗厳の子・宗矩は徳川家康に仕えていましたが、忠利から光成について質問されると、こう推薦しました。「弥四郎(光成)は大変な兵法家です。父親は塚原卜伝の弟子で、覚源院様(足利義輝)や伊勢国司(北畠具教)らと同門であり、天下に5・6人もいない兵法家でした。その全てを弥四郎は相伝しており、槍にかけては当代随一です」。

 ここにようやく塚原卜伝の名が現れ、足利義輝や北畠具教、雲林院光秀らの師匠であったことが語られます。卜伝の没した年より60年以上も経過しており、その事績も伝説化していたでしょうが、少なくとも直弟子の子と面識のある人物の発言ですから、誇張はあるにせよ信頼はおけるでしょう。

 なお安永5年(1776年)に編纂された『二天記』には、宮本武蔵が晩年に「氏井(雲林院)弥四郎」と立ち会ったと記されていますが、年代的にはあり得るもののこれ以前に記録がなく、武蔵流の弟子たちによる創作と思われます。さらに「若い頃の宮本武蔵が晩年の卜伝に勝負を挑み、食事中に斬りかかったところ、卜伝が鍋の蓋で刀を受けた」という伝説もありますが、武蔵は天正12年(1584年)の生まれですから、卜伝はとっくに死んでいます。

 また卜伝は実兄の娘婿であった松岡兵庫助則方の家で没したと伝えられますが、彼は小田原征伐ののち主家の鹿島氏が佐竹氏に攻め滅ぼされた時、関八州に転封された徳川家康に仕え、卜伝の兵法を伝授しました。家康は鹿島氏の再興を許可して子孫に200石を授け、松岡家には知行40石と誓紙・腰刀などを授けて庇護したといいます。卜伝の弟子と称される人物には、ほかに天流剣術の祖・斎藤伝鬼房、居合術の祖・林崎甚助、一羽流の祖・諸岡一羽や、佐竹氏の家臣・真壁氏幹、武蔵国忍城主の成田長泰らがいます。

◆雷◆

◆神◆

【続く】

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