【つの版】日本刀備忘録61:兵法源流
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
刀を武器として扱って戦うにはある程度の技術が必要で、それを指南する役目の武芸者・兵法家が戦国時代には無数に出現しました。特に剣術に秀でた者を「剣豪」といいます。彼らについて見ていきましょう。
◆刀◆
◆剣◆
兵法源流
素手や武器を用いた戦闘技術を総称して「武芸」または「武術」と呼びます。「兵法」は軍隊(兵)を指揮する知識や技術も含みますが、兵とは「武器」の意味でもあり、兵法・兵術は武器の扱い方を意味する言葉でもありました。「武道」は明治時代以後の言葉ですが、武士がおさめるべき技術は古来「弓馬の道」と呼ばれ、馬に乗って弓を射る騎射の技術をいいます。
室町時代中期以降、幕府奉公衆の小笠原氏が武家の礼法(故実)や弓術・馬術を指導することとなり(小笠原流)、戦国時代から江戸時代にかけて栄えました。同じように武芸・兵法を指導・教授する者(武芸者・兵法家)が現れたのも、南北朝時代から室町時代にかけてのことと推測されています。
チャイナでは戦国時代に詩・書・礼・楽・易・春秋が儒者や士大夫がおさめるべき「六芸」とされましたが、漢代以後『周礼』に基づいて礼・学・射(弓術)・御(馭、車や馬を制御する術)・書・数(数学)が六芸とされました。荊軻など剣術の達人は古くからいましたが、士大夫のおさめるべき技術とはされていません。南宋の華岳が著した兵法書『翠微北征録』より「十八般兵器(武芸十八般)」が並べ立てられるようになり、内容は時代や文献によって異なりますが、刀・剣・槍・矛などが含まれています。
武芸・兵法のうち、刀剣を用いて戦う技術を「剣術」といいます。刀剣は合戦ではメインウェポンとは言えず、まず弓矢や投石などで遠隔攻撃(射撃戦)を行い、接近して薙刀や槍など長柄武器で打ち合い(大太刀や長巻は長柄武器の一種)、肉薄してようやく刀剣を抜いて斬りあうこととなります。甲冑で覆われた武者には斬撃は届きにくく、顔や鎧の隙間を突き刺して殺すことになりますが、足軽や強盗など軽武装の者が相手なら手足に斬り付けるだけで重傷を負わせられます。日常の護身用であれば、弓矢や長柄武器を持ち歩くよりは刀剣を身に帯びた方が軽くて動きやすく、かつ安上がりです。当時の治安はマッポーもいいところですから、社会のあらゆる階層の者が常に刀剣を身に着けて護身し、その扱い方を知ることは必要とされました。
古くは鹿島神宮の神官が関東に広めた関東七流(鹿島神流)、鞍馬山の鬼一法眼が源義経に授けた京八流(判官流)があったとされ、鎌倉時代後期に成立した『平治物語』には、義経が鞍馬山僧正谷の天狗より兵法を学び尋常ならざる身軽さであったと記されています。『太平記』にも観応2年(1351年)に「鞍馬の奥僧正谷にて愛宕・高雄の天狗共が九郎判官義経に授けし所の兵法」をおさめたと豪語する武士・秋山光政が登場します。彼は「黄石公が子房(張良)に授けた兵法(六韜)は天下のためで、匹夫の勇(個人の扱う武術)ではないので学んでおらん」と言い放ちますが、とすると天狗の授けた兵法は匹夫の勇だったわけです。しかしこの場面で光政は馬上で棒を振るって戦っており、剣術に特化していたわけではありません。
永禄9年(1566年)に上泉信綱が弟子の柳生宗厳に授けた新陰流兵法の伝書『影目録』には「兵法の起源は梵(インド)・漢(チャイナ)・和(日本)の三国にわたってあり、梵にては七仏師・文殊上将から摩利支尊天が伝え、漢では黄帝から始まり、和では伊弉諾尊・伊弉冊尊に始まる。…今日までに上古の流あり、中古に念流、新當流、陰流あり」と記されています。新陰流はこの三流派に学んだ信綱が陰流をもとに開いたもので、この三流派を特に「兵法三大源流」と呼びます。箔付けのための誇張や誤認も多いため伝承については眉唾物ですが、どのような流派か見ていきましょう。
慈恩念流
念流の祖とされるのは禅僧の慈恩です。文明14年(1482年)頃に編纂された『塵荊抄』中の「武経兵書之事」によると「相陽(相模南部、鎌倉)の寿福寺に神僧がおり、歴応年間(1338-41年)に慈恩と出会って兵法を教え始め、康永2年(1343年)にすべてを伝え終えて姿を消した。神僧は摩利支天の化身であった」といいます。慈恩はそれから60年間活動して兵法を弟子たちに伝え、応永10年(1403年)に没したとされています。伝説的な人物で、実在は定かでありませんが、こうした伝説が室町時代にはあったようです。
江戸時代に再興された念流の伝承によると、彼は奥州の武家・相馬氏の一族で、父の相馬左衛門尉忠重は新田義貞に仕えて軍功をあげますが、文和4年(1355年)に友人に謀殺されました。忠重には5歳になる男児がいましたが、彼の身にも危険が迫ったため、乳母は彼を連れて武州今宿(現神奈川県横浜市旭区今宿)に逃れました。7歳の時に相州藤沢(現神奈川県藤沢市)の遊行上人に弟子入りして念阿弥と名付けられますが、父の仇討ちを目指して剣術の修行に励み、10歳で上京して鞍馬山に籠りました。
鞍馬山での修行中、念阿弥は天狗めいた「異怪の人」に出遭って妙術を学びました。16歳になると相州鎌倉の寿福寺に赴いて神僧の栄祐から剣術を学び、応安元年(1368年)には筑前大宰府の安楽寺で剣の奥義を感得します。18歳となっていた念阿弥は還俗して相馬四郎義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾よく父の仇討ちを果たすと、再び出家して禅門に入り慈恩と名乗りました。以後は諸国を経巡って剣術を教え、40年後の応永15年(1408年)に信州伊那郡波合村(現長野県下伊那郡阿智村浪合)麻利支天山に長福寺を建立、念大和尚と称したといいます。ただ『塵荊抄』に記す活動年代とは異なり、仇討ちとか鞍馬山での修行とかも箔付けの後付けくさい話です。
相馬忠重は『太平記』に「下総の住人・相馬四郎左衛門忠重」として登場し、建武3年(1336年)6月に足利勢が比叡山の後醍醐天皇を攻めた際、松尾坂を守って強弓を用い、足利勢を寄せ付けなかったとあります。後醍醐天皇は下総相馬氏を宗家とし、陸奥相馬氏は北朝・足利方についていますから、忠重・慈恩は下総相馬氏と思われます。奥州相馬から武州や相州に逃れるのは不自然ですが、下総国相馬郡からなら近いでしょう。
伝承の続きによると、慈恩の弟の慈三(赤松三首座)は兄と最期まで生活を共にし、明徳5年(1394年)に念流の正伝を授けられました。次に小笠原甲明・氏綱・氏景・氏重が継承し、7世の友松清三藤原氏宗に伝わります。彼は偽庵と称する眼医者でしたが、天正2年(1574年)に西国から上州多胡郡馬庭村(現群馬県高崎市吉井町馬庭)を訪れ、この地の武士・樋口定次を門弟としました。彼は木曽義仲四天王の一人・樋口兼光の末裔と称し、上杉氏に仕えて剣術を学んでいましたが、先祖兼重が慈恩の弟子の一人であったと聞かされ、念流に入門したのです。長い修行の末、慶長3年(1598年)に免許皆伝とされた定次は馬庭念流を開きますが、弟の頼次に指導者の座を譲り、師匠偽庵のいる彦根へ旅立ったと伝えられます。
慈恩には坂東に8名、京都に6名、計14名の高弟(十四哲)がいたとされ、赤松三首座・樋口兼重のほか二階堂右馬助(二階堂流)、堤法賛(宝山流)、中条判官(中条流)、甲斐豊前守(富田流)、沼田法印(丹石流)、猿御前(陰流)らが列挙されてます。とはいえ各流派の系譜どころか慈恩の実在さえ定かではなく、実在したとしても兵法の諸流派に箔をつけて統合するための共通の始祖として、後世に名前が用いられた可能性はあります。
中条平法
慈恩の弟子とされる人物の一人が中条兵庫頭長秀です。中条氏は武蔵七党のうち横山党の一族で、源義朝や頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となり、三河国加茂郡高橋荘の地頭として挙母(現愛知県豊田市)に城を築きました。同じ三河に所領を持つ足利氏と友好関係にあり、長秀の父・景長は足利尊氏に従って鎌倉幕府を滅ぼしています。
長秀は文和3年(1354年)父の跡を継いで挙母城主となり、室町幕府の伊賀守護職、恩賞方、寺社造営奉行、評定衆などを歴任しました。また歌人頓阿の高弟でもあり、延文4年(1359年)完成の『新千載和歌集』、貞治3年(1364年)完成の『新拾遺和歌集』、至徳元年(1384年)完成の『新後拾遺和歌集』にも彼の和歌が収録されています。晩年には出家して沙弥元威と称し、至徳元年以降に没したようです。慈恩は同時代の記録に見えず実在が定かでありませんが、中条長秀は確実に実在の人物です。
歌人とはいえ武士ですから武芸はおさめていたでしょうが、後世の伝承によれば、彼は慈恩の弟子となって兵法をおさめ、家伝と独自の工夫を加えて「中条流平法」という流派を開いたとされます(兵法ではなく平法)。子の秀孝、孫の詮秀、曾孫の満秀・満平も代々この平法をおさめましたが、永享7年(1432年)に将軍・足利義教の怒りを被り、先祖伝来の所領をすべて没収されてしまいます。のちに所領は返還されますが、中条氏はこれ以来勢力を弱め、戦国時代には今川氏・織田氏・松平氏に敗れて消滅しました。
中条満平の子・左馬助信之は法名を実伝源秀といい、甲斐豊前守広景なる者に流儀を伝えました(越前守護代・甲斐常治の一族か)。『山崎軍功記』によると、甲斐豊前守の弟子には子の甲斐八郎左衛門、越前の戦国大名の朝倉孝景(1428-81年)、大橋勘解由左衛門高能がいたといいます。
高能からは山崎右京亮昌巖へと伝わり、右京亮が戦死すると、弟子の冨田九郎左衛門長家が継ぎました。長家は出身不明の牢人で、50歳で右京亮に入門して9年で印可を授かり、越前朝倉家に仕えて平法を教授し、永正6年(1509年)に没したといいます。ただ右京亮は文明3年(1471年)に戦死していますから、長家がこの年に印可を授かったとしても59歳から38年生きれば97歳もの超高齢で、30歳ぐらい差っ引いた方が座りがよさそうです。とすれば1442年頃の生まれとなり、67歳ほどで没したことになります。
彼は右京亮の子の景公・景隆、自らの子である治部左衛門景家らに中条流を伝えましたが、冨田家からはこれ以後多くの達人が出たため「冨田流」とも呼ばれました。ただし彼ら自身は「中条流」を名乗っています。
なお長家の弟子の一人に印牧弥次郎吉家がおり、彼が所持していた師の図像に禅僧の月舟寿桂が書いた賛がありますが、そこには長家の兵法が「相陽寿福寺の神僧より慈恩へ伝わった」と記されています。しかし『塵荊抄』には慈恩の弟子に中条氏がおらず、本来は別系と推測されます。また慈恩の兵法を学んだのは長秀ではなく曾孫の満平(中条判官)か、その孫弟子にあたる甲斐豊前守ではないかともいいます。であれば慈恩の年代もそれほど古くはないのかも知れません。
冨田勢源
冨田景家の次男を五郎左衛門隆家といい、兄・九郎左衛門郷家の早世により家督を継ぎました。生年は大永3年(1523年)頃と推測され、長家の没後に生まれたこととなります。祖父・父と同じく越前朝倉氏に仕えましたが、30歳頃に眼疾を患い、家督を弟の景政に譲って隠居し、剃髪して勢源と称しました(文献により戸田清元・清眼などとも)。しかし平法の腕前は衰えず、ことに短い刀を用いる小太刀の術に優れていたといいます。
永禄3年(1560年)、越前の戦国大名・朝倉義景は美濃の一色義龍(斎藤道三の子)と同盟を結び、叔父の成就坊を人質として送り込みました。冨田勢源は彼に従って美濃へ赴きましたが、義龍の兵法指南役であった新當流の梅津某という者に仕合を挑まれます。勢源は隠居の身で盲目ゆえと断ったものの、主君を侮られてもならず立ち合うこととなりました。梅津は長さ3尺5寸(1.65m)の長い木剣を持参しますが、勢源は1尺2-3寸(1m)ほどの薪を手にして向かい合い、一瞬のうちに梅津の頭を打って倒したといいます。
義龍は翌年に病没し、子の龍興は間もなく尾張から侵攻した織田信長に敗れて美濃を奪われます。彼は流浪の末に朝倉義景に身を寄せますが、天正元年(1573年)に信長の侵攻を受けて龍興・義景はともに死に、越前朝倉氏は滅亡しました。推定50歳の冨田勢源がこの時どうしていたかは伝わらず、その後も定かでありませんが、弟の景政は信長の家臣・前田利家に仕えて能登国七尾城の守将をつとめ、豊臣秀次の剣術指南役ともなり、文禄2年(1593年)に70歳で没しています。景政の婿養子の重政、その子の重康も代々前田家に仕えて重用され、越後守の官位から「名人越後」と呼ばれました。
冨田勢源および景政の弟子とされる者は数多く、鐘捲流の祖・鐘捲自斎、東軍流の祖・川崎鑰之助、織部流茶人の土屋宗俊らが挙げられます。小田原征伐後に前田利家に仕えた北条氏邦も冨田勢源に師事して免許皆伝を授かったといいますが、前田家に来てから出会ったのなら当時の勢源は70歳前後の老人です。また鐘捲自斎の門弟・伊藤一刀斎は、江戸時代に繁栄した剣術の流派「一刀流」の始祖とみなされています。それらはまた別に触れるとして、次回は新當流について見てみましょう。
◆Hyouge◆
◆Mono◆
【続く】
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