【つの版】日本刀備忘録60:日薩刀工
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
戦国時代には日本全国で武器の需要が高まったため、各地の刀工集団は大忙しとなり、刀や槍が大量生産されて輸出されました。西国では備前、東国では美濃が刀剣生産の一大拠点でしたが、その他の地域でも多くの刀工が活動しました。日本各地を経巡って豊前・豊後・筑前・筑後・肥後と見てきましたから、残るは南九州です。

◆島◆
◆津◆
日向:堀川国広
日向国は現在の宮崎県に相当し、中南部には平安時代より薩摩・大隅にまたがる広大な摂関家の荘園「島津荘」が置かれ、馬や舶来品の供給地として繁栄しました。鎌倉時代に惟宗氏が島津荘の下司職(荘園代官)・地頭職に任命されて島津氏となり、日向・薩摩・大隅三国を支配下におさめました。一方で伊東氏も日向守護に任じられ、島津氏と争いながら勢力を広げます。戦国時代末期には島津氏が伊東氏・大友氏を破り日向を支配するものの、豊臣秀吉に敗れて南部以外は没収され、伊東氏ら諸家に配分されました。
日向出身の刀工として有名なのが堀川国広です。本名を田中金太郎/角左衛門といい、享禄4年(1531年)日向国諸県郡綾(現宮崎県東諸県郡綾町)の古屋に生まれ、父の国昌とともに戦国大名伊東義祐に仕えました。曾祖父の実昌(実正)、祖父の実忠も代々伊東氏に仕える刀工でした。
天正5年(1577年)、島津氏が伊東氏から日向を奪うと、国広は主君義祐らとともに豊後の大友宗麟に身を寄せ、山伏となって九州各地を経巡りつつ鍛刀を行い、主家の復興を目指しました。しかし大友氏は島津氏に敗れ、肩身の狭い義祐は豊後から伊予を経て播磨に赴き、子の祐兵は秀吉に仕えました。伊東マンショは義祐の孫で、国広に庇護されて豊後に入ったのちキリスト教に入信し、天正10年(1582年)には欧州へ派遣されています。
国広は「日州古屋住」の銘を刀に刻みながらも各地を流浪し、天正18年(1590年)には下野国の足利学校におり、長尾顕長とともに小田原城に籠って秀吉の軍勢と戦っています。戦後は京都に移ったのち、日向に帰還した祐兵のもとへ馳せ参じます。慶長年間には京都一条堀川に移住して相州伝を学び、技術の研鑽と後進(堀川派)の育成につとめ、正親町天皇の佩刀を作った功績により信濃守の称号を受領し、慶長19年(1614年)に84歳で大往生しました。波乱万丈ではあったものの幸福な人生と言えるでしょう。国広の刀は江戸時代を経て多くが現代まで伝わっています。
山伏国広
天正12年(1584年)2月、山伏として活動していた国広が伊東氏の分家・飯田祐安の求めに応じて鍛刀したのが「山伏国広」です。表裏には「武運長久」の文字と不動明王像がそれぞれ彫られ、茎には表に「日州古屋之住国広山伏之時作之」「天正十二年二月彼岸」、裏に「太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安」と切られています。
山姥切国広
天正18年(1590年)2月、長尾顕長の依頼で作成したのが「山姥切国広」です。これは南北朝時代に備前長船の刀工・長義が打った刀(本作長義)を写したものとされます。長義の刀は後北条氏から長尾顕長に下賜されましたが、太刀であったのを磨り上げて打刀にしたため銘が消えており、国広に依頼して写しを作らせ、その旨を本作長義にも銘に刻ませています。しかし「山姥を切った」という伝説はどちらの銘にもありません。
本作長義の方は尾張徳川家に伝来し、国広の写しの方は長らく所在不明でしたが、大正時代に再発見されました。この時に所有者であった三居家の伝承によると、小田原北条家の浪人・石原甚五左衛門がこれを手に入れ、妊娠中の妻を連れて信濃国へ向かいました。しかし道中で妻が産気づいたため、石原は谷間の民家を訪ね、そこに住んでいた老婆に妻を託して小諸まで薬を買いに行きます。ところが民家に戻ってみると、老婆は生まれたばかりの赤子を貪り食っていたため、激怒した石原は彼女に斬り付けます。
老婆は窓を蹴破って逃げますが、石原は血痕を辿って山腹の岩窟まで追いかけ、松葉を焚いて老婆を燻り出します。老婆は怒り狂って岩窟から飛び出し、石原を噛み殺そうとしますが、石原はこの刀を振るって斬り殺し、「山姥切」と名付けたといいます。のち石原は井伊家に仕え、関ヶ原の戦いに参陣しますが、同僚の渥美平八郎が刀を折って困っていたため譲り渡し、以後幕末まで同家に伝わりました。明治維新後、この刀は質に入れられて彦根の醤油屋に流れ、旧彦根藩士の三居家が買い取ったのだといいます。
しかし「信州戸隠山の鬼を斬った」という話は『太平記』に記す源氏の宝刀「鬼切」の由来そのままで、箔付けのための伝説と思われます。本作長義の方に山姥を斬った伝説はなく、「山姥切長義」とは呼ばれていません。
加藤国広
国広の晩年、加藤清正の依頼で作ったのが「加藤国広」です。慶長14年(1609年)、清正の娘・八十姫が家康の子・頼信(頼宣)と婚姻した時に引き渡され、頼宣の子孫である紀州徳川家に代々伝わりました。のち紀州藩主の吉宗が徳川宗家を継いで将軍となると、加藤国広を次男の宗武に授け、以後は宗武の子孫である田安徳川家に昭和の初めまで伝来しました。
薩摩:波平派
薩摩では平安時代後期から明治時代まで波平派という刀工集団が活動していました。初代は橋口正国といい、大和国の刀工でしたが、良い鉄を求めて諸国を放浪し、薩摩国谿山郡の波平(現鹿児島市東谷山)に移住したといいます。波平派で最古の作は正国の子・行安のもので、堀川天皇の寛治年間(1087-94年)に活動したと伝えられます。
伝説によると、正国が薩摩に赴く際に船が暴風に遭い、海神に無事を祈願して刀を海に投げ込んだところ、波が平らかになりました。そこで正国は「波平らかに、行くは安し」として波平行安と改名したといいます。
笹貫
鎌倉時代、波平行安によって作られたとされるのが「笹貫」です。伝説によると、彼は妻に「決して鍛冶場を覗くな」と命じて鍛刀に励みましたが、数日後に鎚音がやみ、心配した妻は鍛冶場を覗いてしまいます。仕上げの作業に集中していた行安はこれに気づいて激怒し、作った刀を裏の竹藪に投げ捨ててしまいました。その後、夜な夜な怪しい光が竹藪から放たれるようになり、訝しんだ村人が恐る恐る覗いてみると、刀が茎を下にして地面に刺さり、舞い落ちた笹の葉が切っ先に無数に突き刺さっていました。そこでこれを「笹貫」といい、島津家の分家筋である樺山家に献上されたといいます。ただ笹貫とは波平派の刀工が居住していた地名であり、それにちなんで名づけられたもので、竹藪云々は後世の伝承と推測されています。
鬼神大王
薩摩を遠く離れた能登半島の輪島には、波平行安の刀が登場する民話が伝わっています。昔々、輪島の外浦に年老いた鍛冶師がおり、年頃の美しい娘と二人で暮らしていました。鍛冶師は「婿にするなら立派な鍛冶でなければならぬ」といい、求婚者たちに刀を鍛えさせて出来栄えを見ていましたが、どれも気に入らず追い返していました。
やがて一人の若者が娘に求婚し、「私だけで一晩に千本の刀を打ってみせます」と豪語します。鍛冶師はとても無理だろうとやらせてみますが、若者は水で身を清めると「決して鍛冶場の中を覗かぬように」と言い置き、凄まじい勢いで槌音を響かせながら大量の刀を打ち始めます。驚いた鍛冶師が約束を破って鍛冶場の中を覗くと、鬼が口から火を噴いて鉄を熱し、素手でそれを飴のように伸ばして刀を作っていました。
鍛冶師は一計を案じ、飼っていた鶏の足を温めて朝が来たと勘違いさせ、鳴き声をあげさせます。鬼は「もう朝か」と悔しがり、998本の刀を掴んで逃げ去りましたが、残った1本には「鬼神大王波平行安」の銘が刻んであったといいます。またこの故事にちなんで、この土地は「劔地」と呼ばれるようになったと伝えられます(能登国鳳至郡剱地)。この話にはいくつかのバリエーションがありますが、何故薩摩の刀工の銘が能登に伝わっていたかは定かでありません。
◆潮◆
◆虎◆
さて、日本全国を経巡って各地の刀工集団を見てきました。しかして刀を武器として扱って戦うにはある程度の技術が必要で、それを指南する役目の武芸家・兵術家が戦国時代には無数に出現しました。特に剣術に秀でた者を「剣豪」といいます。次回からは彼ら剣豪について見ていきましょう。
【続く】
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