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【つの版】日本刀備忘録59:西海刀工

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 戦国時代には日本全国で武器の需要が高まったため、各地の刀工集団は大忙しとなり、刀や槍が大量生産されて輸出されました。西国では備前、東国では美濃が刀剣生産の一大拠点でしたが、その他の地域でも多くの刀工が活動しました。東海・奥羽・北陸・畿内・山陰・山陽と見てきましたから、残るは西海道(鎮西、九州)です。少々多いため南九州は別記事とします。

九州地方

◆典◆

◆太◆


豊前:宇佐信国派

 豊前国は現在の福岡県東部から大分県北西部にあたり、瀬戸内海/周防灘に面していて、古来畿内との繋がりが深い地域です。また豊前南部には全国の八幡宮の総本社である宇佐神宮があり、伊勢神宮と並び皇室の宗廟として崇敬を受けました。平安時代には九州最大の荘園領主となり、宮司の大神氏や宇佐氏、およびその分家は各地の領主として武家化していきます。平安時代末期には平家と結んで栄え、鎌倉時代にも武家から崇敬されましたが、南北朝時代には南朝に味方して懐良親王らを庇護しています。

 永享12年(1440年)、この宇佐大宮司をつとめていた安心院あじむ氏のもとに、京都の刀工・信国吉家がやってきます。以後8代140年あまり安心院家に仕えて鍛刀に励みましたが、天正10年(1582年)に豊後の大名・大友氏に安心院氏が滅ぼされると筑前へ移住し、江戸時代には黒田家に仕えて存続しました。

豊後:筑紫了戒、平高田鍛冶

 豊後国は現在の大分県の大部分にあたります。平安時代には豊前国ともども宇佐神宮の荘園が広く置かれ、平安時代後期には平家に味方して繁栄しました。平家を倒した源頼朝は、親平家派が多い九州の抑えとして大友氏を派遣し、豊前・豊後守護兼鎮西奉行に任命します。

 大友氏は相模国足柄上郡大友郷を所領とする坂東武士でしたが、これにより九州に大きな所領を獲得し、蒙古襲来時にも活躍しています。南北朝時代には足利尊氏を支持して豊前・豊後・肥前・日向の守護に任じられますが、尊氏没後に南朝勢力が九州で台頭すると大友氏も南朝派と北朝派に分裂し、互いに相争うこととなります。

 豊後には平安時代から定秀・行平ら名刀工がいましたが、南北朝時代には了戒派が出現します。了戒は初代信国の師匠で来国俊の子にあたり、その流派は鎌倉時代後期から数代京都で続きましたが、応安年間(1368-75年)に末流の能定が豊後に移住し、能真・秀能・能次などの刀工を輩出しました。山城の了戒派と区別して、これを筑紫了戒と呼びます。大友氏が分裂したのがちょうどこの頃ですし、戦乱の続いた京都から招聘されたのでしょう。

 室町時代の応永年間(1394-1428年)から戦国時代にかけては、たいら高田たかた鍛冶と呼ばれる刀工集団が活動しました。これは豊後国高田荘、現在の大分市東部の鶴崎付近に居住して平姓を名乗り、代々大友氏に仕えて刀剣を作った人々です。応永年間の盛家、明応年間の家盛、文明年間の長盛、永正年間の治盛、天文年間の定盛ら数十人あり、作品は優美さには欠けるものの、頑丈にして実用的です。これを「高田物」といいますが、その作数は非常に多く、かつ大部分は無銘ゆえ鑑定は難しいといいます。

 周防の大内氏の介入で内紛を煽られ衰退していた大友氏ですが、戦国時代には勢力を回復し、幕府と結んで大内氏を牽制しつつ、日明貿易に参入して富み栄えました。大内氏は下関や博多を抑えているため、これに対抗するには豊予海峡を抜けて日向灘に出、日向・大隅・薩摩を経て東シナ海を渡って寧波へ向かうことになりますが、畿内の堺や摂津に勢力を持つ幕府管領細川氏も瀬戸内海や南海道経由でこれと合流できます。刀剣は当時の輸出品の主力ですから、大友氏は豊後で刀剣を大量生産し、大量輸出して外貨を稼いでいたのです。当然大内氏ら周辺勢力に対抗するための武力ともなりますし、各地の味方勢力に輸出して武装させてもいたことでしょう。

 刀剣の原料となる砂鉄は、豊後と日向の境の祖母山を源流として大分市鶴崎で別府湾に注ぐ大野川(戸次川)で採取されました。流域は地質学でいう中央構造線上にあり、地層に鉄分を多く含んでいます。

 戦国時代後期、大友義鎮(宗麟)は大内氏の内紛に付け込んで勢力を拡大し、筑前博多を支配下に収め、幕府より豊前・筑前の守護職と九州探題の職を授かります。周防・長門は毛利元就に制圧されたものの、宗麟は北部九州を保って対抗し、明国・朝鮮・琉球・南蛮(ポルトガル)との貿易で巨利を蓄えました。しかし毛利氏と結んだ島津氏の侵攻を受けて衰退し、豊臣秀吉に救援を仰ぐこととなります。宗麟は間もなく没し、子の義統は秀吉に仕えて豊後国および豊前宇佐半郡を安堵されますが、朝鮮の役での失敗により改易されます。関ヶ原の戦いでは旧領回復のため西軍についたものの、筑前の黒田官兵衛らに敗れて幽閉され、常陸へ流刑された後に没しました。江戸時代の豊後国は複数の小藩に分割され、平高田鍛冶らは天下泰平を好機として全国へ販路を伸ばしたものの、美術品としては評価されていません。

筑前:金剛兵衛

 筑前国は現在の福岡県の大部分にあたり、大宰府や博多を擁する北部九州の政治・経済的中心地です。鎌倉時代より少弐氏が守護をつとめましたが、南北朝時代から室町時代には筑前の領有を巡る争いが続き、周防の大内氏により制圧されます。博多は大内氏の海外貿易港として繁栄を極めますが、大内氏が内紛で滅ぶと大友氏に制圧され、秋月氏・小早川氏を経て黒田氏の支配下に入りました(筑前福岡藩)。

 筑前国では、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて「左文字派」と呼ばれる流派が活動しました。戦国時代に編纂された刀剣押形集『往昔抄』によると、祖は良西といい、談義所の西蓮国吉、実阿、源慶、安吉と続きました。このうち源慶は俗名を安吉、通称を左衛門三郎といい、これを略した「左」の一文字を銘に切ったため「左文字」と呼びます。筑前は国防の最前線であるため武器の需要は常にありましたが、良西・西蓮らの活動時期は蒙古襲来の前後にあたり、刀剣の需要が高まっていた時代でした。

 左文字派は南北朝時代において南朝に味方したため各地へ分散しますが、筑前ではこれに代わって金剛兵衛派が現れます。初代の盛国は博多の出身とも、大宰府の竃戸山(宝満山)の山伏とも伝えられ、西蓮国吉の縁者であったといいます。子の盛高は南北朝時代の正平年間(1346-70年)の作が現存最古で「金剛兵衛尉源盛高」と銘を切りました。以後の嫡流は代々盛高を称し、分派は盛の字を名に冠し、室町時代末期まで活動しています。

筑後:三池派

 筑後国は現在の福岡県南部にあたり、南北朝時代から室町時代にかけては豊後の大友氏と肥後の菊池氏の間で守護職が争われ、多くの国人領主が割拠していました。戦国時代末期に肥前の龍造寺隆信が一時筑後を制圧しますが島津氏に敗れて戦死し、以後の筑後国は複数の藩に分割されています。

 筑後国の刀工として有名なのが、平安時代後期の承保年間(1074-77年)に活動したとされる三池典太光世(法名は元真)です。三池とは筑後南部の三池郡(現福岡県大牟田市)で、その一門は三池派として室町時代末期まで存続しました。平安末期の豊後の刀工行平は光世の弟子とも伝えられます。古くは鎌倉時代に北条時頼が名刀工を選んだ『最明寺殿評定分』にも名を連ね、応永年間の『秘談抄』にも記載されています。室町時代には傍流が肥前大村や安芸に移住して作刀し、光世を名乗って銘を刻んでいます。

大典太光世

 三池典太光世の代表作が、太刀「大典太」です。これは尊氏以来伝わる足利将軍家累代の重宝で、足利義昭から豊臣秀吉に献上され、秀吉没後の形見分けで前田利家のものとなり、以後は代々加賀前田家に伝来しました。実際の切れ味はさておき「宝剣」として格は高く、枕元に置けば邪気を払い病気を治すといった鬼丸めいた逸話が伝っています。江戸時代後期の刀剣書では童子切、鬼丸、三日月宗近、数珠丸と並んで「天下出群之名剣五振」と記され、いつしか「天下五剣」と呼ばれるようになりました。

肥後:同田貫

 肥後国は現在の熊本県にあたり、北部の菊池郡には、平安時代より菊池氏が割拠して在地領主をとりまとめていました。鎌倉時代には御家人に列して蒙古襲来の時にも活躍し、南北朝時代には南朝について懐良親王を支持し、南北朝合一後は室町幕府より肥後国守護に任じられました。戦国時代には阿蘇氏と合体し勢力を広げますが、大友氏と島津氏に挟まれて滅ぼされます。秀吉の九州平定後は佐々成政が肥後国主となり、ついで加藤清正が入って熊本城を築き、子の忠広の代に改易されて細川氏が入りました。

 蒙古襲来の頃、菊池氏は畿内より来派の刀工・延寿太郎国村を招いて作刀を行わせ、その一門は延寿派と呼ばれ、菊池氏の庇護のもとで栄えました。この延寿派の傍流が、永禄年間から現菊池市稗方の同田貫どうだぬきの地を本拠として活動した同田貫派です。菊池氏が滅亡した後、同田貫派の刀工の一部は稗方から西の現玉名市亀甲に移り、加藤清正は彼らのうち小山国勝・信賀の兄弟に一字を授けて清国・正国と改名させたといいます。

 同田貫派の刀は装飾がなく美術的価値は乏しいものの、実戦向きの無骨な刀で、加藤清正に気に入られて熊本城の常備刀とされました。しかし寛永9年(1632年)に加藤家が改易されると同田貫派も廃れ、姿を消しています。正国の子孫・正勝は江戸時代後期に同田貫派を復活させ、幕末・明治期に有名となり、昭和の時代劇作品にもしばしば登場しています。

鍋割

『寛政重修諸家譜』によると、徳川家康の家来であった遠江出身の永田正吉は同田貫正国の刀を所持していました。元亀3年(1572年)10月、武田信玄が遠江国一言坂(現静岡県磐田市一言)で家康と戦った際、正吉はこの刀を振るって敵兵の鍋めいた兜を叩き割り、主君を守りました。浜松城まで撤退した家康は彼の手柄を讃え、この刀に「鍋割」の名を授けたといいます。肥後の刀がなぜ遠江に伝わっていたのかは定かでありません。

 これと関係がありそうなのが、江戸時代後期の幕臣・平山行蔵が手に入れたという「一言同田貫」です。安永8年(1779年)末、旗本の窪田某がこの刀を平山に見せ、銘を当てたら進呈しようと申し出たところ、平山は一言で「同田貫だ」と言い当てたため、そう呼ばれるようになったというのです。

◆同◆

◆田貫◆

【続く】

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