【つの版】日本刀備忘録67:柳生宗厳
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
新陰流の流祖・上泉信綱が畿内で活動したのは10年に満たない間でしたが、多くの弟子を育成して人脈を作り、新陰流を世に広めることには成功しました。その弟子の一人・柳生宗厳の子の宗矩は徳川家康に仕え、新陰流は徳川将軍家の庇護を受け、江戸時代に繁栄を極めることとなります。
◆戦◆
◆国◆
大和戦国
柳生氏は大和国添上郡楊生郷(現奈良県奈良市柳生)を本貫とする武家で、菅原道真の後裔と称しました(赤松氏の同族で村上源氏とも)。江戸時代の柳生家譜『玉栄拾遺』によると、宗厳の8代前の先祖を永珍(宗珍とも)といい、元弘の変の時に笠置山に籠った後醍醐天皇を助けたため、鎌倉幕府から所領を没収されました。鎌倉幕府が滅亡すると、永珍の弟で笠置寺衆徒の中坊源専が恩賞として柳生庄を返還され(または賜り)、柳生氏を称したといいます。しかし南北朝期から室町時代にかけての動向は不明で、小領主に過ぎません。
柳生家厳は明応6年(1497年)に生まれ、大永7年(1527年)31歳の時に嫡男の宗厳を儲けました(享禄2年/1529年とも)。この頃天下は大いに乱れ、管領・細川高国は細川晴元らに京都を追われ、将軍・足利義晴を担いで近江に逃れます。晴元は泉州堺に義晴の異母兄弟・義維を擁立し、これを「堺公方」と呼びました。京都には将軍がいなくなり、南北に事実上2人の将軍、2人の管領、2つの幕府が並び立つことになったのです。
大和国は古くから興福寺が事実上の国主として君臨しており、南朝が割拠したこともあって室町幕府も守護職を設置できませんでしたが、応仁の乱の後に畠山義就とその子孫(畠山総州家/河内守護)が大和国内の有力国人衆(大和衆)をまとめて家臣団とし、勢力を広げました。しかし義就の曾孫・義堯の時、重臣の木沢長政は細川晴元に接近し、義堯はこれと敵対して河内国飯盛山城に籠る長政を攻めます。
享禄5年(1532年)、長政は晴元の要請で蜂起した一向一揆と手を結んで義堯を自刃に追いやり、義堯の弟・在氏に家督を継がせて傀儡とし、河内守護代に任じられて畠山家中の実権を握ります。一向一揆はさらに堺を包囲して義維を阿波へ逃亡させ、義維を見捨てた晴元は近江国朽木に亡命していた義晴と和睦し、京都へ帰還させます。そして一向一揆や法華一揆を鎮圧し、義晴に自らを管領に任命させて畿内を安定させました。
長政は畠山総州家と対立する畠山尾州家も傀儡を据えて掌握し、晴元を後ろ盾として河内と大和の両国に勢力を拡大しますが、畠山家中の他の家臣や晴元の家臣・三好範長(長慶)はこれに反発し、晴元も長政と対立し始めました。焦った長政は晴元を追放して義晴を傀儡にせんと京都へ進軍しますが先んじて逃げられ、将軍に背いた逆賊とされてしまいます。
柳生家厳は長政の家来として戦いますが、天文11年(1542年)長政が河内で戦死すると後ろ盾を失い、反長政派の有力国人・筒井順昭に柳生城を攻められます。家厳は籠城して抵抗したものの落城し、順昭に降って家を保ちました。しかし順昭は反晴元派の細川氏綱に味方し、義晴も氏綱と結んで晴元と対立します。三好長慶は晴元を支持して戦いますが、最終的に晴元を裏切って氏綱を擁立、朽木に逃れた義晴の子・義輝と永禄元年(1558年)に和睦して将軍として迎え、幕府の実権を掌握しました(三好政権)。
この間の天文19年(1550年)、順昭は疫病により28歳の若さで没し、2歳の息子・順慶が筒井氏の家督を継いでいます。大叔父の福住宗職が後見人となりますが、順慶と叔父・順政は河内守護の畠山高政、守護代の安見宗房と結んで宗職と対立し、永禄元年に宗職を出家に追い込んだ順政が後見人となりました。しかし宗房は高政と対立して紀伊へ追放したため、翌年混乱に乗じて三好長慶が家来の松永久秀を河内・大和へ派遣します。久秀は筒井氏の居城・筒井城を落とし、興福寺を屈服させて大和を平定、大和北部の信貴山城と多聞山城を居城としました。この頃還暦を迎えた家厳は久秀に寝返り、当時30歳の宗厳も久秀に仕えます。
三好長慶は居城を河内国飯盛山城に置き、五畿内(山城・大和・河内・摂津・和泉)および播磨・丹波・若狭・近江・伊賀・淡路・阿波・讃岐・伊予にまで勢力圏を広げ、相伴衆・管領代行(将軍補佐役の代理)として事実上の「天下人(畿内政権の主宰者)」となります。しかし畠山高政・六角義賢や伊勢貞孝らの反乱、親族や氏綱・晴元の相次ぐ死で政権基盤が揺るぎ、永禄7年(1564年)7月に43歳で病没しました。甥の重存(義重・義継)が跡を継ぎますが14歳でしかなく、後見人の三好三人衆は翌年義輝を弑殺するなど専横甚だしく、久秀は彼らと対立することとなります。
柳生宗厳
柳生宗厳は通称を新次郎(新介、新左衛門とも)といいます。天文13年(1544年)に柳生城が落城したため、父ともども筒井氏に仕えました。乱世の武家ゆえ若年より兵法・剣術を好み、『玉栄拾遺』によれば戸田一刀斎(鐘捲自斎)より冨田流(中条流)を、『柳生新陰流縁起』では神取新十郎に新當流を学んだといいます。順慶の時には吐山での合戦で戦功をあげて感状を賜り、久秀の大和侵攻に際しては順慶より筒井領の白土(現奈良県大和郡山市白土町)を授かり引き止められますが、久秀が順慶を破ると上述のように父ともども離反して久秀につきます。
その後は久秀のもとで数々の戦功をあげて信頼を積み重ね、側近に取り立てられて秋篠に領地を賜り、軍事・政治の機密情報を共有し、三好家への使者や取次としても活動しています。上泉信綱が柳生を訪れたのはこのような時期でした。宗厳を介して久秀や、三好長慶、足利義輝らへの取次を頼もうとしたのでしょう。果たして永禄7年、信綱は義輝に謁見していますが、同年に長慶、翌年に義輝が死に、信綱は戦乱を避けて柳生へ戻りました。
義澄―義維―義栄
義晴―義輝
覚慶(義秋/義昭)
義輝殺害後、三好三人衆は三好家の本拠地である阿波に逃れていた義維の子・義栄を擁立して将軍に立てようと画策しますが、久秀は興福寺にいた義輝の弟・覚慶を監視下に置きます。覚慶は義輝の家来であった細川藤孝らの手引きで脱走し、近江国甲賀郡を経て野洲郡矢島に至り、翌年には還俗して義秋と称します。彼は諸国の大名に支持を呼びかけますが、三好三人衆の襲撃や調略により矢島を離れ、若狭を経て越前の朝倉氏に身を寄せます。
この頃、松永久秀は大和で孤立し、劣勢にありました。筒井順慶は三好三人衆と手を結んで久秀と戦い、筒井城と所領を取り戻します。三好義継は三好三人衆と対立して久秀に身を寄せますが、三人衆と順慶は東大寺に布陣して圧力をかけ、久秀はこれを襲って撃退したものの、戦火で東大寺は焼けてしまい、悪評を被る羽目になります。翌永禄11年(1568年)には義栄が摂津で朝廷より征夷大将軍宣下を受けますが、義秋は同年義昭と改名し、尾張を平定し美濃を制した織田信長に協力を要請しました。
この頃に信長は松永久秀と連絡を取り合い、義昭上洛についての計画を進めていますが、柳生宗厳は久秀の家臣・結城忠正とともに両者の連絡を取り次いでおり、信長や義継とも書状のやり取りを行った記録が残っています。その甲斐あって同年9月に信長は義昭を奉じて上洛を開始し、近江の六角氏を撃破して京都に入り、10月には義昭を将軍につけます。三好三人衆は敗れて没落し、信長は三好長慶に続く天下人となりました(織田政権)。柳生にいた上泉信綱はこれを好機として再び上京したわけです。70歳を超えていた柳生家厳はこの頃に隠居し、40歳前後の宗厳が家督を継ぎます。
久秀背反
松永久秀は義昭上洛に貢献した功績により幕府直臣とされ、大和一国の支配権を承認されます。筒井順慶はまたも筒井城を追われて落ち延び、信長は佐久間信盛・細川藤孝ら率いる軍勢を大和に派遣して久秀を支援しました。また久秀は阿波に逃れた三好三人衆らと和睦して順慶を孤立させますが、大和安定のために山城南部や河内の幕府領・幕臣領へ勝手に進出し、義昭と対立し始めます。そこで義昭は順慶と手を結び、養女を嫁がせて味方に引き入れたため、久秀は激怒して幕府から離反するに及びました。
元亀2年(1571年)8月、久秀は息子の久通、筆頭家老の竹内秀勝、三好義継らとともに順慶が籠る辰市城を攻めますが、順慶側の援軍に背後を突かれて大敗を喫し、秀勝をはじめ久秀側の重臣・武将の多くが死傷しました。柳生宗厳の嫡男で20歳の厳勝も銃弾で負傷し、以後は戦場に出られぬ身になったといいます。久秀は勢力を立て直し、武田信玄・朝倉義景・本願寺ら反信長勢力と手を組んで巻き返しを図りますが、元亀4年/天正元年(1573年)に信玄が没し、義昭は信長に追放され、三好義継も佐久間信盛に敗れて死ぬなど劣勢となり、やむなく久秀は信長に降伏しました。
信長は久秀を佐久間信盛の与力としますが、大和守護には重臣の塙直政を任じ、順慶は直政の与力として復権、信長の娘か妹を妻に迎えます。天正4年(1576年)直政が石山本願寺攻めで戦死すると、信長は順慶を大和一国の支配者とし、明智光秀の与力としました。しかし順慶は久秀の宿敵であるうえ、多聞山城を破却するなど久秀の勢力を削ろうとしたため、怒った久秀はついに信長に反旗を翻します。
天正5年(1577年)8月、68歳の久秀は息子の久通とともに本願寺攻めの陣を離脱し、信貴山城に立て籠もりました。信長は驚いて説得の使者を遣わしますが門前払いされ、久秀が人質に出していた久通の子らを処刑し、嫡男の信忠に筒井順慶らの軍を率いさせて信貴山城を包囲させます。久秀は石山本願寺や上杉謙信、毛利輝元や足利義昭ら反信長勢力と通じていましたが、本願寺に援軍を頼みに派遣した森好久が裏切り、旧主である順慶のもとへ帰参します。喜んだ順慶は彼を信貴山城に戻らせ、城内に放火させます。進退窮まった久秀は久通とともに自刃し、順慶は大和を統一しました。
所領没収
柳生宗厳は久秀のもとを離れて領地を保ったものの、筒井順慶に従うわけにもいかず、前関白の近衛前久に誓紙を奉って奉公を希望しています。彼は足利義輝・義昭らの外戚で上杉謙信や本願寺とも関係が深く、各地を流浪した特異な経歴の持ち主で、この頃には信長とも良い関係を築いていました。中立的な立場である彼に信長への執り成しを願い、庇護者として所領の安堵を図ったものでしょう。彼は天正6年(1578年)には准三宮の待遇を受け、天正8年(1580年)には勅使として石山本願寺に派遣され、信長との講和を成立させています。天正10年(1582年)には太政大臣となり、甲州征伐にも参陣しましたが、同年に本能寺の変で信長が横死します。
筒井順慶は明智光秀の与力で友好関係にあったため、光秀から仲間に加わるよう要請されます。しかし細川藤孝(幽斎)ともども積極的には動かず、備中から駆け戻った羽柴秀吉により光秀は打ち破られます。順慶は秀吉のもとへ馳せ参じますが「遅い」と叱責され、ストレスゆえか胃病を患い天正12年(1584年)病没します。子の定次が跡を継ぎますが翌年伊賀に転封され、代わって秀吉の弟秀長が大和・紀伊・和泉・伊賀など100万石(実高73.4万石)の大大名に封じられました。また同年秀吉は近衛前久の猶子となって藤原秀吉となり、関白宣下を受けています(翌年に「豊臣」と改姓)。
秀長は大和の治安回復のため盗賊追捕令を発布し、検地を実施して所領の把握につとめました。この時、柳生宗厳は「隠田の科(一部の農地を隠して報告しなかった脱税の罪)」を被り、柳生庄2000石を没収されてしまいます。この事件が祟ったのか、宗厳の父・家厳はこの頃88歳で没しています(柳生庄没収をこの9年後とする説もありますが、秀長はその3年前に没しています)。なお同年11月、宗厳は近江国愛知郡に100石の知行を賜っていますが、この頃の近江国は秀吉・秀長の甥にあたる秀次が南部の5郡を所領として賜っており(愛知郡は含まれませんが)、宗厳は秀次に仕えることになったのではないかともいいます。
困窮した宗厳は、若年より習い覚えた兵法・剣術を生活の助けとし、門弟に新陰流の印可状や目録を発行する代わりに礼金を受け取って糊口をしのぐことになりました。嫡男の新次郎厳勝は30歳過ぎでしたが若い時の負傷ゆえ隠居同然で、次男の久斎、三男の徳斎は幼少時に出家しており、四男の五郎右衛門宗章は永禄9年(1566年)生まれ、五男の新左衛門宗矩は元亀2年(1571年)生まれで、柳生庄を失った時にはまだ10代です。また厳勝には久三郎・兵助・権右衛門ら3人の男子と3人の女子がおり、彼らの養育費も稼がねばなりません。宗厳は立身出世のきっかけになればと子孫に兵法を伝え、宗矩は天正18年(1590年)の小田原征伐に20歳で参陣しますが、牢人ゆえに陣借り(自費での戦力提供)しかできず、仕官もかないませんでした。
文禄2年(1593年)、宗厳は64歳で剃髪して石舟斎と名乗ります。同年には己の兵法に関する思想を109首の和歌にまとめた『兵法百首』を著しますが、「兵法の舵をとりても世の海を渡りかねたる石の舟かな」「兵法は浮かばぬ石の舟なれど好きの道には捨てられもせず」「世を渡るわざのなきゆえ兵法を隠れ家とのみたのむ身ぞ憂き」云々と自嘲しています。石の舟が水に浮かばぬように、自分も兵法も渡世の役には立たないというのです。
とはいえ、彼にとって兵法・剣術は単なる戦闘の技術ではありませんでした。「世を保ち国のまもりとなる人の、心に兵法遣わぬはなし」との歌も詠んだように、兵法をおさめることで精神を修養し、平時に国を治める助けになるというのです。上流階級に兵法を売り込んで箔をつけようという目論見もないではありませんが、同様の思想は塚原卜伝や上泉信綱らも抱いてはおり、戦わずして勝つことが最上と孫子の兵法にもあります。そして石舟斎は間もなく徳川家康と出会い、柳生家の運命は大きく開けることとなります。
◆家◆
◆康◆
【続く】
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