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【つの版】日本刀備忘録68:柳生再興

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 新陰流の流祖・上泉信綱が畿内で活動したのは10年に満たない間でしたが、多くの弟子を育成して人脈を作り、新陰流を世に広めることには成功しました。その弟子の一人・柳生やぎゅう宗厳むねよし(石舟斎)の子の宗矩むねのりは徳川家康に仕え、新陰流は徳川将軍家の庇護を受け、江戸時代に繁栄を極めることとなります。

◆刀◆

◆侍◆


家康入門

 文禄3年(1594年)5月、68歳の柳生石舟斎は黒田長政の紹介により、徳川家康に招かれます。場所は京都北西、愛宕おたぎ郡の鷹峯たかがみねの御小屋といい、鷹狩の好きな家康がそこに滞在していたのでしょう。当時の家康は52歳、関八州250万石を治める大大名で大納言の官位にあり、秀吉の次の天下人を狙える人物でした。

 家康は上泉信綱の弟子である三河の兵法家・奥山公重(休賀斎)に元亀元年(1570年)より7年間新陰流(奥山神影流)を教授されており、早くから新陰流とは縁がありました。また同じく信綱の高弟である疋田景兼(文五郎/豊五郎、小伯/虎伯)は織田信忠、豊臣秀次、黒田長政、細川忠興らに仕えて兵法を指南し、家康の前でも演武を行ったことがあります。こうした縁により石舟斎が呼び出されたのでしょう。喜んだ石舟斎は息子・宗矩を伴って家康に謁見し、彼と立ち合って「無刀取り」の技を見せよと求められます。

 家康は木刀を構えて老いた石舟斎と向かい合いますが、石舟斎は素手のまま家康の懐に飛び込み、難なく木刀を取り上げて尻もちをつかせました。喜んだ家康はその場で入門の誓詞を提出し、200石の俸禄を授けて召し抱えると約束します。しかし石舟斎は老人ゆえと拒み、24歳の息子・宗矩を推挙しました。かくして宗矩は家康に仕えることとなったのです。

 この事で名を挙げた石舟斎は、宗矩の兄・宗章小早川秀俊(秀秋)に、孫(嫡男厳勝の子)の久三郎純厳を甲府城主の浅野長継(幸長)に仕官させることに成功します。また石舟斎は毛利輝元にも兵法を教授しており、文禄4年(1595年)からの数年間に複数の伝書を授与しています。しかし依然として柳生家は困窮しており、同年7月には旅先から妻に宛てて「もし自分が死ねば茶道具を売り払って葬儀の費用とせよ」と遺言状を送っています。この中では遺産について「妻女の取り分の残りは宗矩に与えよ」と指示しており、宗矩はすでに事実上の跡継ぎとみなされていたようです。

 その文禄4年7月には、豊臣秀次が秀吉の命令により切腹させられ、一族郎党が皆殺しにされています。これに石舟斎たちが巻き込まれていないということは、特に直接仕えていたわけではなさそうですが、先々を見据えて次の天下を狙える家康や輝元に接近しておくことは保身の術として必要でした。

 慶長2年(1597年)、秀吉は再び朝鮮を通って明国に攻め入ると宣言し、慶長の役が始まります。小早川秀俊改め秀秋、浅野長継らもこれに参加して朝鮮に渡りますが、家康は渡海していません。明軍は朝鮮を支援して日本軍と戦い、石舟斎の孫・久三郎はこの戦いで戦死しています。慶長3年(1598年)8月に秀吉が没すると、幼い嫡子・秀頼が跡を継ぎ、家康・輝元らは彼を輔佐して日本軍を撤退させ、豊臣政権での主導権を巡って対立します。

 慶長4年(1599年)3月、石舟斎は輝元に対し「皆伝印可」として起誓文を与え、数年にわたる輝元からの支援を謝し、兵法に限らず「表裏別心なし」と自ら誓いました。この翌年、関ヶ原の戦いが起きます。

柳生再興

 慶長5年(1600年)6月、家康は上杉景勝が謀反したとして会津へ出兵します。翌月、石田三成は毛利輝元を反家康派の総大将に擁立し、大坂城に迎え入れ、諸国の大名に対して家康を討伐すべしと呼びかけます。輝元は伏見城を陥落させて京都を手中に収め、伊勢を経て美濃へ進軍します。下野国小山で異変を聞いた家康は、会津征伐に従軍していた柳生宗矩を呼んで書状を授け、大和に戻って国人衆を味方につけるよう命じます。宗矩は急ぎ大和へ向かい、家康につくよう国人衆に働きかけました。

 この時、一緒に小山から派遣されたのは筒井順慶の養子・順斎定次でした。順斎は大和国福住に5000石を領し、家康の妹・市場姫を妻としており、定次は順慶の跡を継いで伊賀12万石、伊勢5万石、山城3万石を領する大名です。定次は留守居として弟の玄蕃允を伊賀上野城に残していましたが、摂津高槻城主の新庄直頼らに伊賀を制圧され、玄蕃允は逃げ出していました。定次は近江国甲賀郡の多羅尾から伊賀に帰国し、豪族を率いて直頼と対峙したので、直頼は定次と和睦しています。甲賀と伊賀を抑えたことで道が開け、順斎と宗矩は大和へ入ることができたのでしょう。忍者と柳生の関係はしばしば取沙汰されますが、実際伊賀のすぐ西に柳生庄が存在しますし、無関係とも思えません。そもそも忍術は兵法のひとつです。

 9月1日に江戸を出立した家康は、東海道を通って13日には岐阜城に入り、駆け付けた宗矩から無事大和への工作を終えたと報告を受けます。とはいえ伊勢と近江は輝元ら西軍に抑えられており、状況次第では再び寝返る可能性が大です。幸い2日後の関ヶ原の戦いでは家康側が大勝利をおさめ、家康は近江・山城を経て大坂城に到達、石田三成らを処刑します。輝元は戦わずして大坂城から撤退し、戦後には周防・長門2か国に領地を削られました。

 柳生宗矩は功績を認められ、豊臣氏に没収されていた柳生庄の本領2000石を再び授かります。慶長6年(1601年)には徳川秀忠の兵法指南役となり、同年9月11日に1000石加増され、合わせて3000石の大身旗本となりました。ただし柳生家は毛利家との関係も保ち、宗厳の高弟である柳生(大野)松右衛門が毛利家に仕え、宗矩も輝元の子・秀就に伝書を与えています。これも乱世を生き延びるための兵法と言えるでしょう。

柳生宗章

 慶長7年(1602年)10月に小早川秀秋が22歳で病没すると、小早川家は無嗣断絶となり改易されます。柳生宗章は牢人となりますが、三好氏の傍流である横田村詮に乞われ、伯耆米子藩17万5000石の藩主・中村一忠に500石で仕えました。一忠はこの時13歳の少年で、村詮は一忠の父・一氏の妹を妻とし、後見人・執政家老として事実上米子藩を取り仕切り、築城や城下町の整備、領内のインフラ整備など一切を任されていました。

 ところが、一忠の側近の安井清一郎、天野宗杷らは村詮を妬み、主君に讒言して慶長8年(1603年)11月に村詮を謀殺させます。怒った横田派の数百名は村詮の弟・主馬助を奉じて米子城の東隣の飯山いいのやま城(内膳屋敷)に立て籠もり、宗章もこれに加勢しました。一忠らはこれを鎮圧せんとしますが火縄銃による激しい抵抗に遭い、隣国・出雲の国主である堀尾氏に支援を要請し、ようやく鎮圧に成功します。柳生宗章はを振るって奮戦し、多くの敵を討ち取りますが、壮絶な戦死を遂げました。永禄9年(1566年)の生まれといいますから享年37歳です。この騒動を記録した『伯耆志』や『中村一氏記』には宗章が「刀を振るった」とはありませんが、槍術も新陰流のうちではありますから、彼は見事に兵法を戦場で用いたのです。

 事件の報告を受けた家康は激怒し、首謀者の安井と天野を即刻切腹させ、一忠の側近2人も事件を阻止できなかったとして切腹させましたが、一忠には謹慎を命じたのみで、堀尾氏に処罰はありませんでした。宗章には子がなかったようで家は続いていません。嫡孫・久三郎に続いて息子の一人に先立たれた石舟斎の心中はいかばかりだったでしょうか。

柳生利厳

 同じ慶長8年(1603年)には、久三郎の弟・兵助/兵庫助こと利厳が熊本藩主・加藤清正に500石で仕官しています。天正7年(1579年)生まれといいますから数え25歳の若者で、石舟斎からは嫡孫として目をかけられていましたが、短慮で頑固一徹な気性ゆえ手元から離すことを危険視されていました。石舟斎は清正からの再三の要請を断り切れず、「たとえ如何様の儀を仕出かし候とも、三度まで死罪の儀は堅く御宥し願いたい」と申し出て受諾され、利厳に『新陰流兵法目録』と和歌2首を授けて送り出します。

 果たして利厳は出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬り、加藤家を致仕して廻国修行の旅に出てしまいます。彼の子孫に伝わる話では、領内で百姓一揆が起きた際、伊藤長門守光兼という者が鎮圧にあたりましたが手間取り、清正は利厳を派遣して交代させました。利厳は総攻撃を主張しますが光兼は反対し、怒った利厳は彼を切り捨てると総攻撃をかけ、一揆を鎮圧します。そして清正に仔細を報告すると、即日退転致仕したというのです。

 石舟斎は落胆しましたが、翌慶長9年(1604年)には旅先の利厳に皆伝の印可状を送り、柳生庄に呼び戻して自筆の目録『没慈味手段口伝書』と大太刀、上泉信綱から授かった印可状と目録の一切を合わせて授与したといいます。また慶長11年(1606年)2月には厳勝と宗矩にも皆伝印可と口伝書を授け、同年4月に80歳で逝去しました。法名は芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士といい、生駒郡の法興山中宮寺に葬られましたが、寛永15年(1638年)に宗矩が柳生の地に建立した神護山芳徳寺に改葬されています。

◆侍◆

◆時◆

【続く】

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