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【つの版】日本刀備忘録69:柳生宗矩

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 大和国柳生庄の国人領主であった柳生宗厳(石舟斎)は、有為転変の末に新陰流の兵法家として身を立て、子や孫を大名家に仕えさせることに成功しました。このうち末子の宗矩は徳川家康に仕え、秀忠・家光の兵法指南役となり、ついには大名に昇り詰めるに至ります。

◆剣◆

◆心◆


柳生宗矩

 慶長11年(1606年)4月に父・石舟斎が没した時、柳生宗矩は36歳でしたが、まだ跡継ぎがいませんでした。正室のおりんは遠州久野藩主であった松下之綱の娘といい、この翌年には嫡男の七郎(十兵衛三厳)を、6年後(8年後とも)には次男の主膳(宗冬)を儲けています。また慶長18年(1613年)には側室との間に庶子の左門(友矩)が生まれました。

 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、宗矩は将軍・秀忠の旗本として従軍し、案内役をつとめました。5月7日に豊臣方の武将・大野治房率いる一部隊が秀忠の本陣を脅かすと、宗矩は自ら刀を抜いて迎撃し、7名の武者を斬って主君を守ったといいます。記録に残る中で宗矩が人を斬ったのはこれが最初で最後とされます。

 翌元和2年(1616年)9月、江戸である事件が起きます。秀忠の娘で豊臣秀頼の正室であった千姫は、大坂落城寸前に津和野藩主の坂崎直盛(宇喜多直家の甥)により救出されましたが、直盛はこの功績で千姫を嫁にもらえるものと思い込み、秀忠から嫌われていました。やがて千姫は桑名藩主の嫡男・本多忠刻に嫁ぐことになりましたが、これに反発した直盛は千姫を輿入れの最中に強奪しようと無謀な計画を立てたというのです(この事件については諸説ありますが、彼が短気で偏執的な性格だったとは記録にあります)。

 謀反同然のこの計画を知った秀忠は、立花宗茂と柳生宗矩を遣わして直盛の邸宅を包囲させ、直盛が自害すれば子に家督相続を許すと説得させます。直盛は宗矩の説得に感じ入って自害したとも、家臣に討たれたとも伝えますが、結局坂崎家は改易・断絶となり、宗矩は褒美として坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を授かりました。しかし結果的に坂崎家を陥れたことを宗矩は気に病み、直盛の嫡子・平四郎と2人の家臣を引き取って大和に住まわせています。また坂崎家の家紋であった「二蓋傘」を引き継ぎ、柳生家の副紋としたとも伝えられます(本紋は「地楡に雀」)。

柳生三厳

 元和5年(1619年)、宗矩の嫡男で13歳の十兵衛(三厳)が、秀忠の世継ぎで同年代である竹千代(家光)の小姓となりました。元和7年(1621年)には51歳の宗矩が家光の兵法指南役を命じられ、十兵衛にも新陰流を伝授することになります。2人は家光からの信任篤く、元和9年(1623年)に秀忠が家光に将軍位を譲って大御所となると、ますます重んじられました。

 ところが寛永3年(1626年)、十兵衛は何らかの理由で家光の勘気(怒り)を被り、蟄居を命じられて小田原に一時お預けの身となります。十兵衛はこれを機会に家光のもとを去り、故郷の柳生庄に戻って口伝や目録を研究し、祖父・石舟斎の門人を訪ねるなどして兵法の研鑽に励みました。宗矩は十兵衛の代わりとして、寛永4年(1627年)に十兵衛の弟・友矩を、寛永5年(1628年)に友矩の異母弟・宗冬を家光の小姓とします。

 その甲斐あって翌寛永6年(1629年)には従五位下・但馬守に任じられ、秀忠没後の寛永9年(1632年)10月には3000石を加増されて6000石となり、12月には惣目付(大目付)に任じられて大名・高家・朝廷を監視する役目を授かりました。寛永13年(1636年)8月にはさらに4000石を加増されて1万石に達し、66歳にして大名に列せられます(柳生藩)。小藩とはいえ、一介の剣士から大名にまで立身したのは日本史上彼だけです。

 次男の友矩も出世を重ね、寛永11年(1634年)には徒士頭となり、ついで従五位下・刑部少輔に叙任され、山城国相楽郡に2000石の所領を授かりました。寛永14年(1637年)5月には柳生十兵衛三厳が11年ぶりに江戸に帰り、改めて父・宗矩より相伝を授かります。翌年友矩が病気のため致仕すると、三厳は再び家光に出仕して御書院番に任じられました。友矩は柳生庄で静養したのち寛永16年(1639年)27歳で没し、遺領は宗矩に授けられています。

 宗矩の従兄弟にあたる兵庫助利厳は、石舟斎没後に熊野を訪れ、兵法家の阿多棒庵より新當流槍術と穴沢流薙刀術を学び、皆伝印可を受けました。元和元年に尾張清洲藩御付家老・成瀬隼人正正成の推挙により徳川家康の子・義直に仕え、兵法師範として500石を授かりました。以後彼の子孫は尾張柳生家として尾張徳川家に代々仕え、宗矩を祖とする江戸柳生家とは異なる道を歩むこととなります。

 正保3年(1646年)3月、76歳の柳生宗矩は江戸藩邸で病の床に就きます。将軍家光は親しく見舞いに訪れましたが、3月26日に没しました。家光はその死を惜しんで従四位下を贈位し、三厳が跡を継ぎました。ただ遺言により所領のうち4000石は弟の宗冬が継ぎ、200石は菩提寺である芳徳寺の寺領とされ、異母弟の列堂義仙が住持となります。このため三厳の所領は8000石余となり、高禄ながら大名ではなく旗本に戻りました。4年後に三厳が没すると宗冬が4000石を返上して跡を継ぎ、18年後に加増を受けて1万石に回復、大名の末席に復帰することとなります。

 なお柳生十兵衛三厳には後世に様々な伝説が生じ、家光のもとを致仕した後に「諸国を経巡って武者修行に励み、山賊を退治した」などと言われていますが、特に証拠はありません。また宗矩や家光の指令を受けて公儀隠密として活動していたとか、若い頃に片目が潰れて隻眼であったとか伝わりますが、これも特に証拠はありません。彼の肖像画とされるものには両目が描かれており、当時の史料や記録にも隻眼との記述はないのです。しかし宗矩よりは創作上で動かしやすいためもあってか、小説作品などでは「柳生家最強の剣豪で将軍に歯向かったアウトロー」としてもてはやされています。

活殺自在

 晩年の宗矩は禅僧の沢庵宗彭と交流を持ち、剣と禅を思想的に結びつけて(剣禅一如)再解釈・再定義を行い、寛永9年(1632年)に『兵法家伝書』として纏めています。これは父・石舟斎が上泉信綱より受け継ぎ発展させた兵法とその思想をさらに深化させたもので、沢庵の『不動智神妙録』、宮本武蔵の『五輪書』と並んで後世の武道に大きな影響を与えました。また嫡男の三厳も宗矩・沢庵より教えを受け、寛永19年(1642年)には『月之抄』という新陰流の術理を纏めた書物を著しています。つのはあまり詳しくありませんが、ざっくり調べたところを記しておきます。

『兵法家伝書』は進履橋しんりきょう」「殺人刀せつにんとう」「活人剣かつにんけんの三部構成です。「進履橋」とは古代チャイナの軍師・張良が、橋から履(靴)を落とした黄石公という老人の履を拾って恭しく差し出した(進)ところ、兵法の奥義書(六韜)を授かったという故事にちなみます。これは上泉信綱から柳生石舟斎を経て宗矩に伝えられた新陰流の技法の目録で、流儀を極めた者にのみ相伝の印として授けることが許されましたが、続く二部は柳生家の秘伝とされます。

「殺人刀」「活人剣」の語は、上泉信綱が永禄9年(1566年)に丸目蔵人佐に授けた印可のうちにすでに見え、宋代に編纂された臨済宗の禅の公案集である碧巌録』『無門関等に見える用語です。すなわちこうあります。

殺人刀、活人剣は、乃ち上古の風規にして、また今時の枢要なり。もし殺を論ぜば一毫を傷つけず。もし活を論ぜば、喪身失命せん。

『碧巌録』第12則

殺人刀、活人剣は、乃ち上古の風規にして、是れ今時の枢要なり。しばらくいえ、如今那箇かこれ殺人刀、活人剣。試みに挙す、看よ。

『碧巌録』第15則

眼は流星、機は掣電。殺人刀、活人剣

『無門関』第11則・頌

 ここでいう刀剣とは物理的な武器ではなく、禅の師匠が修行者を指導する時の活殺自在の手さばきをいい、殺人刀とは否定すること、活人剣とは肯定することを意味します。禅問答での論法ゆえ、否定しても相手の妄想を切り捨てて本質を傷つけることはなく、肯定すれば良さを伸ばすことはできますが、迂闊に肯定すれば妄想を助長し身命を喪失しかねない危険があります。それを見抜くには流星のような眼、稲妻のような働きが必要なのです。

 かように禅の用語が剣術・兵法に取り入れられたことは古くからあるわけですが、『兵法家伝書』では次のように解釈・再定義しています。

 一人の悪に依りて、萬人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして萬人をいかす、是等誠に、人をころす刀は人をいかすつるぎなるべきにや。…人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ亂れたる世には、故なき者多く死する也。亂れたる世を治めむ爲に、殺人刀を用ゐて、已に治まる時は、殺人刀即ち活人劔ならずや。こゝを以て名付くる所也。

兵法家伝書

 ここでいう「殺人刀」とは、文字通りに人を殺す刀(剣術・兵法)です。兵法家・剣術家は刀剣を振るって人を殺す技術を教える専門家ですから、宗矩もそれを否定はしません。しかし、何のために人を殺すかという理由を与えることはしています。戦乱の世では故(理由)なくして多くの者が死んでいきますが、元和偃武を経て天下泰平となった徳川家光の世において、みだりに刀を振るって人を殺せばご法度(法律)破りで、治安を乱すとなります。かような悪を野放しにすれば、ご法度はないがしろにされ、人々は身を守り利益を得るために再び武装し、万人が苦しむ戦乱の世が再来することとなります。ゆえに治安を乱す悪人一人を斬り殺せば、乱世の再来を防ぎ万人を苦しみから救うことができるというのです。

 このことは孫子の兵法にも「兵(武器)は不祥の器(不吉な道具)であって天道に憎まれるものであるが、やむを得ずに用いるのは天道にかなう」とあり、『兵法家伝書』にも「殺人刀」の部の冒頭にこの部分が引用されて掲げられています。数百年にわたり武器を帯び、武芸を学び、殺人を職業として来た武士のアイデンティティを肯定しつつ、それを用いるには治安を維持するためというしかるべき理由がなければならず、みだりに用いるべきではない、というわけです。兵法をもって徳川家に仕えつつ、それを治国平天下(国家安泰)のために用いるとなれば、このような方便が必要となります。

 従って宗矩は殺人刀を否定しておらず、うまく用いればより多くの人を活かすことができると肯定しています。武家であり政治家である彼からすれば当然の結論でしょう。これは「心法(思想)」ではありますが、一方で兵法(実戦武術)の面ではさらに別の意味があります。

「活人剣」の部はおおむね「殺人刀」と同じですが、「無刀の巻」が付け加えられており、上泉信綱や柳生石舟斎が披露した「無刀取り」について述べられています。これも「武器をもって戦わなければよい」といった夢見がちな理想主義ではなく、あくまで「武器を持った相手と戦うにはどうすればよいか」という極めて実戦的な武術として記されています。たとえこちらが武器を持っていたとしても、不意の攻撃で取り落とすことなどもあるわけですから、常に「無刀」の心持ちで対処することが肝要とされます。

 また新陰流には「無形の位」という奥義があります。こちらが構えを取らずに自然体でおり、相手に先に仕掛けさせて後の先を取って制圧する技術で、相手が先に動くことから「活人剣」と呼びます。これに対し自分から構えを取って斬りこむことを「殺人刀」と呼ぶわけです。さらに「転(まろばし)」という技術もあり、これは小手などへ小さく鋭く打ち込むことで転倒させて制圧する技法で、相手に致命傷を与えずに「浅く勝つ」ことから、結果的に「活人剣」と呼ばれることもあります。人により時代により、「殺人刀・活人剣」の語には様々な意味が与えられてきたのです。

◆活◆

◆心◆

【続く】

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