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【つの版】日本刀備忘録70:新陰諸流

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 大和国柳生庄の国人領主であった柳生宗厳(石舟斎)は、有為転変の末に新陰流の兵法家として身を立て、子や孫を大名家に仕えさせることに成功しました。このうち末子の宗矩は徳川家康に仕え、秀忠・家光の兵法指南役となり、ついには大名に昇り詰めるに至ります。しかし新陰流は柳生家のみの兵法ではなく、他にも多くの分派があり、そのうちいくつかは現代まで伝わっています。柳生以外の新陰流系の兵法を見ていきましょう。

◆刀◆

◆剣◆


信綱後裔

 まず、上泉信綱の子孫について見てみましょう。信綱には嫡男の秀胤、次男の有綱、三男の行綱がいましたが、秀胤は後北条氏に仕えて活躍したものの永禄7年(1564年)父に先立って戦死し、有綱は小林氏、行綱は石森氏を名乗っています。秀胤の子・泰綱が家督を継ぎますが、小田原征伐で後北条氏が滅ぶと上杉景勝に仕え、慶長5年(1600年)最上義光との合戦で戦死しています。泰綱の嫡男の秀綱が跡を継ぎますが、大坂冬の陣で豊臣軍と戦って重傷を負い、慶長20年(1615年)2月に京都で没しています。秀綱には跡を継ぐ男子がなく、長女が婿養子をとって家を存続させました。子孫は米沢藩士として続き、海軍中将の上泉徳弥はその末裔です。

 信綱の三男行綱の子を孫四郎または権右衛門といい、秀信・秀秋・義胤などと名乗りました。彼は父から新陰流を学ばせてもらえず、信綱の主君筋にあたる長野氏の兵法家・長野無楽斎から無楽流居合術(夢想流)を学びました。無楽斎は居合術の始祖・林崎甚助およびその高弟である田宮重正から教えを受けたといい、秀信はこれをおさめて尾張徳川家に仕えています。従って信綱直系の子孫は絶えるか別流派の門人となっていますが、兵法は血統で受け継がれるものでもなく、柳生家の新陰流をはじめとして信綱の技術と思想を継ぐ流派は多く残りました。

疋田景兼

 疋田豊五郎景兼(虎伯)は上泉信綱の姉の子にあたり、信綱の高弟の一人として彼の諸国遊歴に同行しました。若き柳生宗厳(石舟斎)とも立ち合って勝利したといいます。ただ前述のように柳生庄で信綱と別れ、新當流や念流も学びつつ諸国を武者修行した末、織田信忠や豊臣秀次、黒田長政らに兵法を指南しました。

 石舟斎が家康に謁見する前、彼も家康の前で演武を披露しましたが、匹夫の勇に過ぎぬと気に入られなかったという伝説があります。これは柳生家の作り話と思われますが、その後は細川家に仕え、文禄4年(1595年)に禄を返上し剃髪、栖雲斎と号して再び6年間の廻国修行を行っています。この間に柳生石舟斎の嫡男・厳勝に口伝を残したといい、柳生十兵衛三厳も疋田の兵法について著書『月之抄』の中で言及しています。

 やがて小倉に転封された細川家に再び仕え、肥前唐津藩に一時仕えた後、慶長10年(1605年)以降に没したと伝えられます。天文6年(1537年)頃の生まれで信綱より30歳ほど若かったといいますから70歳近くで、当時なら寿命でしょう。跡継ぎがなかったため家は絶えましたが、兵法は山田勝興、上野景用、猪多重能、坂井半助、香取新左衛門、中江新八らに伝えられ、勝興は熊本藩で「疋田陰流」、重能は岡山藩で「新陰疋田流」を指南しました。後者は槍や薙刀の流派で、諸国の大名家に伝えられました。

丸目長恵

 疋田景兼、神後宗治、奥山公重らと並び称される新陰流の四天王の一人が丸目まるめ蔵人佐くらんどのすけ長恵ながよしです。彼は肥後国八代郡(現熊本県八代市)の武家の生まれで、この地の大名である相良氏に仕えていました。もとは山本氏でしたが、弘治元年(1555年)に大畑(現熊本県人吉市大畑)で島津兵を相手に初陣で武功をあげ、父とともに丸目氏を授かったといいます。翌年より肥後天草郡で2年間兵法を学び、永禄元年(1558年)に19歳で上洛、上泉信綱に師事しました。将軍足利義輝や帝の前で師匠の演武の相手(打太刀)をつとめるという栄誉にもあずかり、帰郷すると相良家中の兵法指南役として重んじられます。

 永禄9年(1566年)に再び上洛した際、信綱は不在だったため、愛宕山などに「兵法天下一」の高札を掲げて諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑みましたが、誰も名乗り出ませんでした。この件を知った信綱は翌年前述の「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の印可状を授けたといいます。ところが帰国後の永禄12年(1569年)、薩摩北部の大口城(現鹿児島県伊佐氏大口)に籠る菱刈氏へ相良氏が援軍を派遣した際、島津家久は周囲に伏兵を潜ませておいて荷駄隊を率いて城の近くを通り、敵兵を誘き寄せて撃破しました(釣り野伏)。この策に丸目長恵も引っ掛かり、大敗を喫して撤退に追い込まれます。武芸としての兵法が、武将としての兵法に負けてしまったのです。

 敗戦の責任を問われた彼は武将として出世する道を捨てて牢人となり、武芸にのみ専心し、九州各地を武者修行して新陰流を広め、西国での教授を師匠より委ねられます。数年後に信綱が没すると、彼は新陰流に自らの工夫を加えて「タイ捨流」と名付け、肥後や肥前に広めました。「タイ」と仮名で書くのは、体・待・対・太といった字を用いればそれらに囚われるため、それらの雑念を「捨てる」ことから「タイ捨」と名付けるのです。

 タイ捨流は通常の剣術に体術を取り入れた実戦的な兵法で、右半開の構えに始まり左半開に終わる、袈裟切りに終始する、様々な地形を想定して体を操作する、跳躍して相手を攪乱する、素手での格闘技術や隠し武器(暗器)の使用、目潰しの許可などを特徴とします。また主家である相馬氏の家紋・九曜紋にちなんだ「円の太刀」などもあるといいます。

 丸目長恵よりタイ捨流を習った武将には、大友宗麟の家来・蒲池かまち鑑広あきひろがいます。彼は宗麟の父・義鑑より偏諱を賜った重臣で、筑後国上妻郡山下城(現福岡県八女市)の主として8万石の所領を持ち、島津氏や肥前の龍造寺氏と戦いました。しかし天正7年(1579年)に宗麟の援軍を得られず龍造寺氏に降り、翌年没しています。

 やがて相良氏は島津氏の勢いに敗れて屈服しますが、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に際して秀吉方につき、独立を回復します。相良氏は長恵を剣術指南役として再び招き、117石を与えて遇しました。文禄5年(1596年)には立花親成(宗茂)に免許皆伝を授けています。

 慶長10年(1605年)に来日し元和8年(1622年)に殉教したイエズス会士のカミッロ・コンスタンツォによると、彼はパウロ・マルモ(丸目)という洗礼名を持つ敬虔なキリシタンであり、医者・文筆家・詩人にして剣術の師範であったといいます。天草や肥前、豊後にはキリシタンが多くいたのですから、彼もその影響を受けてキリスト教に入信していたことは不思議ではありません。長恵は晩年には徹斎と号し、切原野(現熊本県球磨郡錦町)の開墾を行いながら隠居生活を行い、寛永6年(1629年)89歳で没しました。

 この頃タイ捨流は島津家中にも広まっていましたが、島津家久の家来の東郷重位しげかたは天正15年に主君に従って上洛した際、天寧寺の僧・善吉より天真正自顕流という剣術を授かります。これは香取神道流から派生した兵法で、重位はこれとタイ捨流を組み合わせて新たな流派を開き、家中に広めていきました。慶長9年(1604年)にはタイ捨流の剣術師範を破って島津家の剣術師範に取り立てられ、臨済宗の僧侶・南浦文之より「示現流」の名を授かっています。以後島津家中には示現流が広まり、幕末に及ぶこととなります。

◆島◆

◆津◆

 新陰流には他にも複数の分派がありますが、つのは詳しくないのでこれぐらいにし、次回からは剣豪・宮本武蔵について見ていきましょう。

【続く】

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