【マンダラ夢分析】病院の待合室にて、シャツを鼻まで引っ張り上げて、マスク代わりにしようとするもうまくいかない夢 ーインドラの網をチューニングするとマンダラになる
およそ生きている限り、私たち凡夫が覚える大抵の不安、恐れ、迷いというものは、(1)自分と結合しておきたいと望むもの(分離したくないもの)と、引き離されて分離してしまうこと、(2)自分と分離しておきたいもの(結合したくないもの)と、無理に接近させられ結合されてしまうこと、この二つのことに集約しうる。
大切なものを失う、奪われる・・。(結合→分離)
嫌なもの、恐ろしいものが自分のテリトリーに近づいてくる、入り込んでくる・・。(分離→結合)
こういう不調和を恐れるように人の心はできている。

それは至極真っ当、当然といえば当然のことである。
人間を含む生命は、自分の内部のシステムと外部の環境とを不断に区別し続ける動きを通じて、その姿形を常に解体され続けると同時に再生産し続ける。自/他、内/外の区別をはっきりと維持し続けることは生きるということと同義であるといえよう。そして分離することや、結合することは、この自/他、内/外を区別する動きのあり方に他ならない。
自分 =/= 自分以外(他)
内部 =/= 外部
システム =/= 環境
自分以外の外部が自分に接近し、内部に侵入し、過度な結合が生じる事態を回避しようとする。
かけがえのない自分の一体性の一部が切り取られ分離されるような事態もまた回避しようとする。
自 / 他
この区別をはっきりと分けること、分ける動き「/」をはっきりと動かし続けることが生命体を維持する上では大切なことになるのだろう。
とはいえ「分ける」といっても、この自/他の「/」の分けるは、単に分けるのではなく、分けつつつなぎ・つなぎながらも分ける、といった動き方をする。

考えてみれば、生命というのは、生きている限り(生きていなくても)自分の外部の環境から完全に離れること、分離しきることはできない、ということである。ものを食べたり、熱や老廃物を外部環境へと排出したり、「自分」の「内部」は常に外部環境との間のやり取りを続けている。外部から内部へ、常に何かが入ってきており、また内部から外部へ、常に何かが出ていっている。
自/他、内/外は、分かれながらも分かれておらず、繋がっているが分かれている、という分離と結合のどちらか一方だけには回収できない両義性のもとにある。
自他の関係、内部と外部の関係は、「分ける」動きであると同時に「つなぐ」動きでもある。
完全な分離ということはないし、完全な結合ということも、ない。

分けつつつなぐ、つなぎつつ分ける。
分離しながら結合し、結合しながら分離する。
上で書いた「=/=」という記号は、この分けつつつなぐ様子を表現しているつもりである。
分離/結合
分けつつつなぐ・つなぎつつ分ける
ところで、この「分離」と「結合」という言葉を、主語的なものとして考えると、なにやら決して相入れない矛盾する二つのモノが無理に一つにくっつけられているようで(つまり分離していてほしいところが結合されてしまっている)嫌な感じがする。
しかし、分離と結合を、主語的なモノとしてではなく、述語的なコトとして考えてみると、見え方が変わってくる。
主語的なモノであるとは、分離なるもの、結合なるものが、確定して静止した状態として考えられるというコトである。
一方、述語的なコトであるとは永久に未確定の、静止することのない、動き続けることである。述語的な相としての分離とは、分離していないところ(結合しているところ)を分離しようとする動きが動きつつある相である。また、述語的な相としての結合とは、結合していないところ(分離しているところ)を結合しようとする動きが動きつつある相である。
結合→分離、分離→結合、どちらの方向であれ、この動きが動いている只中では、まだなにも完全に分離し切ってはいないし、また完全に区別なく結合し切っているわけでもない。
分ける動き「/」は“分け終わる”ということがない。
つなぐ動き「=」も“つなぎ終わる”ということがない。

私たち「生命」体は、このような述語的に言語化すると良さそうな「分けつつつなぐ、つなぎつつ分ける」動きがいくつもいくつも膨大に重ね合わさって共鳴することでその姿を浮かび上がらせている。
* * *
分別心が迷う
さてここで途端に困ったことになるのが人間の心である。
人間の心、特に、目覚めている時の意識(眠っている時に夢を見るような意識を「深層意識」と呼ぶのに対して、起きている方を「表層意識」と呼んでもいい)は分別する言葉、あらゆるものごとをAか非Aか、二つに分けて、どちらか一方だけを選ぼうとする作法によってセットアップされている。そこではどうしても、述語的な「分けつつある(完全に分かれているでもなく完全に分かれていないわけでもない)」動きの途上のあいまいさは表現を奪われて、分け終わったあとのものたち、「分けられたもの」たちが、整列して、固まって止まって並んだようになる。「私たち、はじめからここにいましたし、これからもずっといますよ」という具合である。
*
私たちは、瞬間瞬間に遭遇する目の前の事態について(それらもまた図と地を分別したところに浮かび上がってくる)、
良いか / 悪いか
好きか / 嫌いか
上か / 下か
近づいてくるのか / 遠ざかっていくのか
有るのか / 無いのか
といった分別を引っ張り出しては、目の前の自体が良いものか、悪いものか、といった判断を下している。
目の前の、ある何か / 非-目の前のある何か
|| ||
良い / 悪い
または、
目の前の、ある何か / 非-目の前のある何か
|| ||
悪い / 良い
こういう具合に、二項対立を二つ重ね合わせて、目の前の登場するあれこれを瞬時にひとつひとつ「意味付け」しながら生きている。
このように
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
という「四角形」のパターン、はっきり分かれた四つの主語的なものたちからなる四項関係をドンと固めて置く時、私たちの心は「分離」の様相を前面に浮かび上がらせ際立たせる。良いものは良い、悪いものは悪い。良いと悪いが混じり合ったり、区別ができなくなったりすることは、ありえない、と・・。
◇
ところが、ここで非常に困ったことが起きる場合がある。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
このΔ主語的な四項関係もまた、あくまでも「分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける」動きの共鳴から、ゆらゆらと浮かび上がっている影のようなものなのである。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
これは、
/
|| ||
/
という、「/」する動き、「||」する動きによって、作られている。
なんといっても言葉の意味作用、ある言葉がある何かを「意味する」ということからして「異なるが同じ、同じだが異なる」を引き起こす「分けつつつなぐ」動きに他ならないのである。
/
|| ||
/
と描いたが、よりこだわって表現すれば、
=/=
|| ||
/ /
|| ||
=/=
という具合になろうか。
ここでは「良いもの」が、「悪いもの」と、つながったり離れたりする。
その繋がったり離れたり、鋭く対立する二者の距離が近づいたり離れたり伸縮する動きが、良いものと悪いものとをはっきりと分離して置き場所を定めておきたい表層意識に映り続ける。
このような事態に、表層の意識、分別する心は耐え難い感じを覚える。
そうしてどうにかして悪いものを良いものから徹底的に分離しようとするが、そうすればするほど、逆に常にその「悪いもの」のことを考え続け、意識し続けないといけないことになる。実に辛い。
* *
こういう辛くなりがちな表層意識に対して、眠りの時間の深層意識は、「分かれているものたちは分けようとするから分かれているように感じられるのだよね」ということを教えようとする。
=/=
|| ||
/ /
|| ||
=/=
の動きをなじませてくるのである。

もちろん、こんなことを教えられても、表層意識は聞く耳を持っていない。「文句あるのか、私が悪いとでもいうのか!」と正/誤、善/悪の分別で、反発することしきりである。だから深層意識は深層意識のコトバ、やり方でもって、表層意識から見れば「暗に」、表層意識が分かれ切ってあるようにみているものたちが、分かれるでもなく分かれないでもないところで揺らいでいる動きの消息を知らせようとする。
その「知らせ」を受け止める表層意識の経験のひとつが「夢をみること」である。
分離したいものと結合してしまい、
結合したいものと分離してしまい、
右往左往する夢
*
今回は私自身の夢を分析してみよう。
分離したいものとは結合してしまい、結合したいものとは分離してしまい、
右往左往する夢である。分離と結合の伸縮ということがよく現れている。
わたしは街のお医者さんの待合室に来ている。
季節的に風邪が流行っているようで、患者が大勢集まっている。
待合室の空気は澱んでおり、いかにもウイルス入りの飛沫が浮遊しているような感じであるが、かなり濃厚な消毒薬の匂いも漂っている。
空間の印象としては白い壁、白い天井、白っぽい床に明るい光が溢れる感じではある。
患者の中には、非常に具合が悪そうに、ソファから滑り落ちて床にだらりと寝そべっている人も居る。
こういう人は救急になるのではないか?とわたしは思うが、待合室の他の患者たちも受付の病院スタッフも、気にする様子はなく、床にずり落ちている人をそのまま放っておいている。
わたしも周囲に倣って、特に何もしないことにする。
ところで、わたしは病気ではないが、何か家族の薬の処方箋を受け取る必要があるらしく、この病院に来ている。
わたしは待合室で待とうと、空いている席を探すが、なかなか見つからない。わたしは床で伸びているひとや、床にうずくまっている人を大股で跨ぎ越しながら待合室内を移動する。
踏んづけやしないかとヒヤヒヤする。
そしてようやく、空いている席を見つけて、着席する。
*
わたしの隣の席には見知らぬ人がいて、上半身はソファの「座面」に背中をつけて仰向けに寝ていて、下半身は床に投げ出している。苦しそうである。
不意に、この人物が激しく咳き込む。
わたしは、「これでは、待ってる間に流行病をもらってしまう」と困惑する。
とはいえここは病院である。
他の患者が咳をするなどよくあることで、こちらはマスクをつけるなどすればよい。
しかし、わたしはマスクをしていない。
手持ちの予備マスクなども持っていない。
わたしは、着ているシャツを鼻まで持ち上げてみたり、ネックウォーマーを引っ張りあげたりと試みるが、どうもうまく行かない。
呼吸するたび、待合室の澱んだ空気が肺に流れこむ。
なんとかこの、空気を遮断しようと試みるも、無駄であるようだっだ。
診察室にもなかなか呼んでもらえず、わたしはいつまでも待っている。
そしてマスクの代わりになりそうな服を顔に引っ張り上げては、ジタバタしている。
おわり
リアルな夢であるが、自/他の境界面が浸潤されて溶けていくこと(分離→結合)と、それに抵抗しようとすること(結合→分離)のせめぎあいという抽象度の高い二項対立の問題を見てとることができる。
病院の床と患者
まず病院の待合室という四角形の空間がある。
これをマンダラということにしておこう。
現世的には「病院の待合室」という物に分別されているが、全体的に光が溢れている感じはわるい印象ではない。隣の人の咳き込みに慄き「感染」を恐れているこの私の「身体」が重くひっかかってはいるが、これさえどうにかなれば、空間自体は悪くない。

この四角形の中で、分離と結合の伸縮が展開されるはずである。
分離から結合へ、結合から分離へと、伸縮する動き、述語的様相を呈しているものはいくつかある。
まず、空間中に「ウイルス入りの飛沫が」充満しているような感じがする、これは待合室に居る個々の人々の「内」が「外」へと分離する動きである。そしてその「浮遊している飛沫」が、私の「外」から私の「内」へと結合してくる動きも感じられる。あちらから分離しこちらと結合する。典型的な伸縮の述語的様相である。
次に、待合室の患者たちが「椅子からずり落ちて床に寝ている」というところ。私の経験的にはこれまでにかかったことがあるほぼ全ての病院で、患者は待合室の椅子に座って待機している。小さな子供が長椅子に寝かされていたりとか、非常に具合の悪そうな人が長椅子に寝ているという光景は稀にあるが、病院の床に転がったままになっているひとは見たことがない。もちろん実際に床に倒れ込むような人は居るが、そういう人がいた場合、速やかに医療機関の方々が車椅子やストレッチャーをもってきて、適切に保護されている。と言うわけで、患者が「椅子からずり落ちて床に寝ている」というのは、経験的には「分離」されているはずの「床」と「患者」のあいだが「結合」へと縮んでいる、ということになる。
そして夢見者わたしとこの病院の関係も微妙に伸縮している。私自身は患者ではないのである。患者たちに混じって一緒になって待合室にいるが、つまり客観的にみれば、患者のひとりのようにも見えるが、しかし私は「処方箋をもらう」というミッションのためにここに来ているのであって、「患者」本人ではない。ここでも「私」と「病院」の関係は、結合しているようで分離し、しかしはっきりと分離しているわけではなく結合している。分離しながら結合し、結合しながら分離している、という付かず離れずの微妙な振動状態にある。
そして夢見者「私」は、この「待合室」空間で分離と結合の伸縮の述語的様相を繰り返す。
まず、「私」と「私の席」のあいだが付かず離れずに伸縮する。私は最初、席を見つけることができないが、しかし満席で座れないわけではなく、探せば席似つくことができる。
またその席を探す過程で、「私」は「床にうずくまっている患者」を、あやうく踏みそうになる。足で踏みつけるというのは過度な結合状態である。「私」と「床にうずくまっている患者」の間は、もともとは分離しているが、私が席を探そうと動き回るせいであわや過度な結合へ、というところまでその距離が縮む。ただ、実際に踏むことはない。付かず離れずである。
つぎに、夢見者「私」は「マスク」を持っていない、持ってきていない、忘れている。コロナ禍を経て、実際の私は病院に行く時はいつもマスクを持っていくようにしている。つまり通常、私とマスクは結合している。しかし、この夢の中ではこの時に限って、マスクと分離してしまっている。いかにもなにかが蔓延している感じの場所で、じつに迂闊である。これもがっちりと結合して固まって止まったようになっている二項関係を分離に転じることでゆるくほぐすという述語的様相の、ひとつの表現である。
そして、シャツを引っ張り上げてマスクの代わりにするところである。夢見者「私」は、シャツやネックウォーマーを首から鼻まで引っ張り上げて(伸縮の「伸」、伸展!)みたり、しかし引っ張り上げすぎると(過度に伸ばすと)生地の隙間が開いてマスクの体をなさなくなるので、引っ張る力を弱めてシャツが縮むに任せる(伸縮の「縮」)。私は、シャツを、鼻のところまで伸ばしたり縮めたりする動きを繰り返す。
**
ここで、下記の図を念頭に、もう少し細かく見てみよう。

1)冒頭、空間中に「ウイルス入りの飛沫が」充満しているような感じがする。ここでは夢見者「私」と「他者たち(患者たち)」との間が、空間中に充満する瘴気によって不可分に連続するようになっている。この空間のなかで自/他という経験的感覚的に極めて基本的な分別の対立二極さえもが、区別できないほど過度に結合している。この様相を上の図の1)で表現する。

2)3)次に、患者たちが、ソファーがあるのに床に寝転がっていたり、ソファーから半分ずり落ちたようなな格好で佇んでいたりする。病院の床というと、それこそコロナ禍でしきりに教えられた通り、いろいろな病原性の飛沫が飛び散ってくっていている気配がある。
現世では、通常であれば実際の病院においては、床に寝そべっているような人はあまりいないし、もしそういう人がいたら、病院のスタッフが飛んできて何か対応を取るだろう(重病の可能性がある)。要は待合室の床と患者は、経験的には分離されているべきなのである。
Δ待合室の床 ←/→ 患者Δ
ところが、この夢では、患者が、待合室の床に、べったりとくっついている、結合している。
待合室の床→ββ←患者
経験的感覚的には分離している二者のあいだが、結合されている。これを上の図の2)や3)の中心の二つ過度に結合したββで表現する。
さて、ここで丁寧に神話を語る場合であれば(あるいは夢によっては)、β二項の過度の結合とくれば、続けてβ二項の過度な分離の様相も出てくるはずである。遠くに旅立つとか、長い旅をするとか、空に舞い上がるとか、高層ビルの上層階に上がったり、地下室に降りて行ったり、という述語的様相で表現されることもある。しかし、今回の夢では、β二項の過度な分離の様相は特に出てこない。出てこないことも(意識の表層に浮かび上がってこないことも)あるのである。
他者の処方箋を貰いに来ているだけ
踏みそうで踏まない
席が無いと思ったら有る
次に、図の4)、付かず離れず、分離するでもなく分離しないでもない(結合するでもなく結合しないでもない)様相が展開する。
まず夢見者「私」は、床=患者の上を、踏みそうになりながらも、うまいぐあいに患者さんたちを踏まないように、跨ぎ越しながら移動して、自分の席を探す。わたしは床の患たちを踏まないように避けながら動けている。「踏みつける」という様相で過度に結合することなく、しかし通路上に何も支障がない程度にはっきりと分離されているわけでもなく、踏みそうで踏まない、結合しそうでしない、結合しかけながらも分離した様相を保つことができる。
分離と結合という、経験的にははっきりと対立する二つのことが、ここでは曖昧になっている。
β=/=β
分離するでもなく=/=結合するでもなく
これも上図の4)で表現する。
この「分離するでもなく・結合するでもなく」の様相は、夢見者「私」とこの「待合室」の関係についても言える。私はこの待合室に患者として来ているわけではなく(患者として来ている方が、よりストレートな結合だと分別されている)、患者の代理人として、いってしまえば自分とは直接は関係のないことで、結合している。これは結合しながらも分離しているという様相である。
わたしとわたしの席
ここで、夢見者「私」は自分の席を探している。ぱっと見ただけでは空いている席がない、みつからない。「私」と「私の席」は「結合」すべきであるが、「分離」している。とはいえ、この分離は永続的に固定したものではなく、しばらく動き回って席が見つかるということで、分離から結合に転じる。
わたしはわたしの席に座ることができる(結合)。
わたし ←/分離/→ 座って待つ用の席
↓
わたし =(結合)=座って待つ用の席
分離から結合へ、述語的様相が転換し分離したあり方と結合したあり方が重なり合う。
β=/=β
分離するでもなく=/=結合するでもなく
隣の患者の咳
さて、ようやく席についた私だが、その席で、今度は「結合したくない」と思うものと無理に結合しそうになる。隣の患者がひどい咳を始めたのである。彼の飛沫をわたしの体内に吸い込みでもしたら何かに感染しそうである。これは分離しておきたいものとの望まぬ結合である。
私の席 / 隣の患者の咳
|| ||
結合したいもの / 結合したくないもの
この両方が結合してくる。席とは結合したいが咳とは分離したい。分離に向かうことと結合に向かうことが、どちらか不可得、どちらも選べないことになっている。
マスクがない
とはいえ、夢見者私は冷静なもので、飛び退いて逃げるほどのこともなく、マスクをつけたらいい、と考える。
わたし+マスク
私とマスクの「結合」を、私は所望する。私がマスクと結合できれば、私は分離しておきたい飛沫とは分離することに成功するのである。こちらと結合し、あちらと分離する、というバランスのとれた形である。
*
分離と結合のあいだで振動し続けて、分かれるでもなく別れないでもないをする
しかしまさか、「私」はマスクを持っていない。
マスクと結合したいのに結合できない。
結合したいのに分離したままになる。
結合したいと望むものと分離されたままになる。

仕方なく、わたしは、服を引っ張り上げて、マスクの代わりにしようとする。服はマスクではないがマスクの代用になりそうではある。
マスクである =/0 マスクでない
鼻まで引っ張り上げられたシャツは、両極がひとつに結合して、マスクではないがマスクである、ということになる。
しかし、この洋服を引っ張って代用した即席マスクは、マスクとしては十分に働かない。伸びが足りないと鼻と口を全部覆うことができず、逆に伸ばしすぎると布が網目状に広がってしまって、その格子構造を通り抜けて隣席患者の咳がわたしの肺の中に入ってくる。
伸ばしすぎはダメだし、伸ばし方が足りないのもダメ。
なかなか適度な伸ばし具合、伸びすぎず縮みすぎず、というところが定まらず、わたしは右往左往する。その状態で、なかなか診察室の医師のもとには呼ばれないまま、つまりわたしがこの場合、ほんとうに「結合」したいと望んでいる相手とは、ほんのドア一枚隔てたすぐ近くにまで結合しながら、しかしいつまでも分離されたまま、「私」はずっと、シャツを伸ばしたり縮めたりし続けながら、夢が終わる。
この夢は上の図でいうと4)のモードに集中しているようである。

身体の拡張として「マスク」
マスクというのはおもしろいもので、通路を閉じると同時に開く。
完全密閉して、体内と体外を完全に分離するようでは息ができなくなるし、かといって、楽に呼吸ができるくらいに目が粗いと体内と体外を素通り結合させてしまう。それではマスクをつけなくても同じである。
マスクは、「わたし」と分離すべきものを分離したままにとどめ、「わたし」と結合すべきものは通過させる。このようなマスクのあり方はまさに「わけつつつなぐ動き」としての生命の身体の動き方そのもの、身体の概念的な拡張である。
マスクも身体も、分離しつつ結合する、結合しつつ分離する、という述語的様相によって内/外を区別し、身体の輪郭を再生産し続ける。
この完全に分離するでもなく、完全に結合するでもない、という分離するか結合するか、どちらか不可得な曖昧さが「マスク」というものにはある(実は人間の身体にもある)。
この開/閉どちらか不可得な曖昧さが、例えばコロナ禍でのマスクを着けるか着けないかという論争(?)を大変に過酷なものにしたのである。
そのマスクが「わたし」のもとにない。
分離すべきもの、病原体、わたしを脅かし、破壊するものたちが、入り込んで結合してくる感じに戦慄する。
とはいえ、急いでその場を立って走って逃げ出すということでもなく、なんとかなるのではないか、という感じでシャツで口を塞いでみたり「通路を閉じると同時に開く」動きを自分で演じてみようと、シャツを伸ばしたり縮めたりしてみる。
そして、その状態で夢はおわる。フェードアウトしていく。
* *
この夢では、「マスク」をつけたりはずしたり、呼吸を通じて他者と呼気を交換し合うという、日常の世界で日々身近に経験することが感じることができる経験の記憶をイメージを、いわばブリコラージュして、
私たちの心の深層は、眠っている間に過度な分離や過度な結合に固着して疲弊した表層の分別心をほぐし、分別心の構造体を作り上げる二項対立関係の対立関係の対立関係を付かず離れずに静かに振動する柔軟な状態に戻そうとする。このとき調和した対立関係の対立関係の対立関係が、2×2×2=8項関係をなす。八項関係のマンダラは付かず離れずの、過度な分離に固着したり、過度な結合に固着したりすることのない、柔らかい分別心の様相を象徴している。



分離と結合の伸縮という述語的な様相を、主語的な「象徴」たちの動きに託して意識の表層に浮かび上がらせる
* *
自/他、二者関係が分離しつつも結合している。分かれているべきだが分かれていない。分かれているが分かれていない、分かれていないが分かれている。自他の境界が振動し、ゆらぎ、固くなったり軟らかくなったり、溶けかかったり、かっちりと結晶したり、現れたり消えたりと、分離に向かう様相と分離の解除(結合)に向かう様相との間をゆらゆらとゆらぐ。
抽象的に言えばそういうことであるが、これを我が身で引き受けるとなると、まさに自己に入り込んでくる他なる病原体をなんとかして減らそうとがく、といった切実な経験として現れることもある。
生/死の分別や、清/濁の分別がそうであるように、生きている人には、生命には、切実は分別、どちらでもいい、とは言えない分別がある。そしてこれらの分別は、一度区切り終わったならばあとは放っておけば生は生で、清は清で自立自存するというものではない。生/死や清/濁は、分かれていないところを分ける動きにして、わけつつもつなぐ動き「/」を止めてしまうことがない時に、生は死ではない限りのこととして、清は濁ではない限りのことととして、ゆらゆらと浮かび上がってくる。
この「/」分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける動きは、分別と無分別、分離していることと分離していないこと(結合していること)との関係もまた、分かれているでもなく分かれていないでもない様相で動きつつあることを教えてくれる。
*
分別はしなければならない。
よく分別するがいい。
同時に、その分別されたものに執着しようもないことを知る。
分別されたものに執着しない。
つないだままわけ、わけながらもつなぐ動きと共に動く。
*
夢は、こういう「心」の動き方の消息を、意識の表層に伝えてくるのである。その際に「分離」と「結合」の伸縮を託すのにちょうど都合の良い経験的で感覚的な記憶をひっぱりだしてくるのである。
* *
夢においていったい何が行われているのか?
夢はしばしば荒唐無稽で、訳がわからないものである。捉えどころもなく、分析するといっても、いったい何をどうしたら良いのか、といった感じがする。そこで役に立つのが「マンダラ」である。



マンダラは、正方形が組み合わさって、四項・四極を際立たせ、あるいはその四項それぞれの中間に配される中間項四つの関係を重ね合わせた八項関係として描かれたパターンである。
夢と同じく人類の心の深層から浮かび上がってくる思考の現れである「神話」においても、神々や超自然的な主人公たちは互いの距離を縮めたり伸ばしたり、結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする。マンダラ状のパターンを引き伸ばしつつ区切り出す動きを分節システムである言語によってシミュレートしようとすると、夢でも神話でも、対立する二者の間の距離の伸び縮みという述語の様相を軸にして線形の語りが言語化される。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の「分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける」伸縮運動の振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。
そのパターンはしばしばマンダラ状の姿をしている。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。
正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージなる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。
例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。
視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語化されることもある。
項は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相である。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
<<分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、結合しようと動くが、うまく結合できない>>
あるいは
<<結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、分離しようと動くが、うまく分離できない>>
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する。
伸縮する述語
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、結合を分離したり分離を結合したり、二者の間の距離を伸縮させる運動、動き、動き方のパターン、「述語」によって記述される出来事である。
以前、この「述語」的様相に注目して、ユングによる「パウリの夢」の分析を読んでみた。一連の記事は下記にまとめて掲載している。

* *
Δ-β述語伸縮モデル
ここで述語がマンダラを描く、ということについて書いていこう。
夢と同じく、人間の心の深層の動きの消息を、意識の表層に引っ張り出してきたものだと考えられる「神話」の場合、その語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことが目指される。

神話の語りはじめにはまだΔはない。
端的にない。存在しない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
神話の語りは、まず図1で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験敵に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。


このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを「夢」のビジョンにもみることができる。
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Δ1 / Δ2
|| ||
Δ3 / Δ4
こういう関係が、私たちが経験的に自分たちの生きる世界を意味分節する時の最小単位になるのであるが、このΔ1〜Δ4に何が入るかは、任意に自在に変えて良い。
私たちが自身の生きる世界を安定的に意味あるものとして受け止めるうえで大切なのは、まず、
Δ1 / Δ2
|| ||
Δ3 / Δ4
この構造が、バラバラにならずに、また潰れずに、付かず離れずに均衡している、ということなのである。
そしてこの四項関係を分けつつつなぐのが、四つの両義的媒介項、βたちの伸縮運動、過度な分離と過度な結合の様相の間を転じつつ、何かの弾みで、過度に分離しすぎず、過度に結合しすぎない、睨み合いのような形で対峙して均衡することになった四つのβたちなのである。
β
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Δ1 =/= Δ2
|| ||
βー / / ーβ
|| ||
Δ3 =/= Δ4
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β
この夢には、上記のような経験的感覚的現世の意味分節システムが心の深層から浮かび上がる瞬間がよくみえている。
つづく
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