宿命として、召命として――和歌を選んだことのない和歌詠みの話
けんすうさんの「幸せになりたいと思うことは本当に正しいのか議論」という記事を読みました。
しあわせになりたくて
でもお先が真っ暗に見えて
真っ暗に見える将来を自分の力で変えられるなんて微塵も思えなかった
そんな10代、20代のころの自分を懐かしく思い返しつつ、
おおむね賛同しながら読みましたし、
幸せとは、意味を追求していると結果的に得られる副産物なのでは、
という旨の箇所など特に、実体験を踏まえて考えても「それ、それ」と言いたくなるものでした。
いっぽうで、
「私が和歌を詠んでいる人生について、だいたいこれで説明できる気がするけど、
ただ、なにかがまだ表現されていない気がする」
「けんすうさんの記事で言及されていないが、私が感覚として持っているものは、なんだろうか」
という引っ掛かりもあって。
そのあたり、まだ言語化しきれていないのですが、一度挑戦してみようと思います。
私は、応えているだけ
2012年に中世の和歌に出逢い、衝撃を受け、
夢中で図書館の本を読みながら勉強し、その結果をアメブロに書き始めました。
コメント数(の少なさ)も読者数(の少なさ)もまったく気にならなくて。
毎日書き続けていたら、2018年とか19年とか、そのあたりから
「和歌の先生」
としてぽつぽつ声が掛かるようになります。
まったく勉強が足らないことは自覚しながらも、
「たしかに、人と比べたら、知っているほうなのかもしれない」
という部分は受け入れ、和歌を教えるということもその後増えてきました。
体調などいろいろあって、続けてきたガテンのアルバイトは趣味と切り替え週2勤務に減らし、
そんな私の生き方を半ば心配、半ば応援してくださる皆様からのご寄付や和歌仕事(+週2のアルバイト。閑散期はゼロになりがち)で、東京でのひとり暮らしを現在も回しています。
まあ、客観的に見ると、
「どう考えても大きなニーズがあるとは思えない和歌というものを仕事にしている人」
「好きだという気持ちを貫いて、経済的に苦しい生活を厭わず取り組んでいる人」
「お金という形で結果が出るまで何年も何年も地道にブログを続けた、根気強い人」
「当初の感動を忘れず、初志を貫いている人」
「社会的に意義はあるのにお金にならない人文系の分野に、人生を捧げている人」
「強い意志のある人」
「好きなことで生きている人」
など、など、そんなふうに評されるのだろうなと思います。
ただ、なんというか……
自己認識、そんなでもないんですよね。
私は和歌を好きだと思ったことがあまりない。
そりゃ、好きか嫌いか聞かれたら好きですが……「好きだからやっている」などと思ったことはほとんどないです。
人に説明するのに便利だから「好き」という言葉を使うこともありますが、「便利だから使っています」と断っているくらいで、それは正確な表現ではない。まったく。
王家の長男に生まれて健康に成人したら、そりゃ王太子になり、王になるでしょ、みたいな。
時代によって、また個人の特性によって葛藤があったりなかったり、大きかったり小さかったりするとは思いますが、
「自己」という概念の強くなる近世より前の……例えば中世ヨーロッパあたりだと、
個人差はともかくおおむね「まあ、そうだよね」と引き受けるじゃないですか。
「王様をやりたいからやる」
「王様業が好きだからやる」
そんな王様、いる???
いや、ゼロの証明はできないので断言はしませんが……。
あの激しい葛藤を経た近世のプロイセン王フリードリヒ2世(大王)だって、
多大な犠牲を払った逃亡未遂事件ののち、王として生きる宿命から逃げることはありませんでした。
いや、「宿命」「運命」って、とても便利な言葉だと思います。
本当はそんなもんじゃないのかもしれない。ただの解釈なのかもしれない。思考停止しているのかもしれない。
とはいえ、その便利な言葉を使わせていただくならば、
「私は和歌をやるよう宿命づけられていたのだな」
と日々の積み重ねのなかで確信を増してゆき、それに抗わず、それを受け入れ続けている、
というだけです。
抗っても無駄だったし。仕方ない。
「仕方ない」と言うと投げやりに聞こえるかもしれませんが……これもまた正確に伝えるのは難しいですね。
他ジャンル(または同ジャンル)で同じような経験をした方でないと、正確には伝わらないと思う。
宗教的なニュアンスが出てしまうので、若干の躊躇はありますが、
「召命」という概念も近いかもしれませんね。
好きだからする、
嫌いになったらやめる、
和歌をやっていて不都合が生じたら逃げる、
和歌のせいでしたいことができないとわかったら和歌を投げ出す、
そんな選択肢ないやん。
客観的にはあるのかもしれないけれど。
私にはないよ。なかったし、これからもないんだよ。
私は世界の要請に応えているだけです。
出逢ってしまった。感動した。体が図書館に向かっていた。
苦しい生活のなかで、和歌の現代語訳ブログを書き続けた。
「書こう」と思ったことなどない。「書くものだ」という感覚だったと思う。
(その時期が過ぎたと感じてやめただけで、トータル8年か9年ぐらい毎日更新していたよ。いまはnoteがメインです)
個人としてはもう少ししたいこともあった。
「私に和歌さえなければ」と思ったことが一度もない、とは言わない。
ただ、それだけです。
「だから和歌をやめる」という選択肢はなかった。
私は個人である前に、和歌の道具だもの。
和歌のための人生。和歌に捧げる人生。私は、道具である。
だから、和歌をやる。
和歌が、世界が、私にそのように求めるから、やる。やるしかない。
そこに私の主体性や自覚的な選択なんてあったのかな。
見方によってはあったのかもしれないけれど、そのような自認はありません。
自認がない以上、私の世界にそれは「ない」のです。
私はただ世界に応えているだけです。
しあわせは社会貢献の副産物だ、とは思う
幸福は、意味を追求していると、結果的に得られるもの。
けんすうさんの言葉……主張というほどではないのかな、仮説は、実際、そうだと思うんです。
自分のしあわせややりたいことを直接追い掛けてしあわせになれる人が、ゼロだとは言わないけれど、
やはりホモ・サピエンスは社会のなかで生きる生き物。
世界や社会、他者に貢献している実感が、なんともいえない充実感や幸福感に結びつきやすいものです。
いっぽうで、私は
自分の才能や人生を社会に役立てようと思って和歌を始めたり続けたりしたわけでは、絶対に、ない。
順番が違う。
和歌をやることになっていた宿命(のように私には感じられるという事実)に従い、和歌を続けていたら、
それを「ありがとう」「すごい」と言ってくれる人が少しずつ増えて、
「あら。なんだか社会貢献になっちゃった? 」
みたいな感じ。
もちろん、その順番でもしあわせです。
やはり私もホモ・サピエンスであり、
やはりホモ・サピエンスは社会のなかで生きるよう最適化された生き物ですね。
託されているらしいものに、応答する
「和歌は自己表現ではない、あってはならない」
とこれまでの発信で私は繰り返し述べてきました。
自己表現を第一目的とするとき、
和歌なり短歌なり絵画なり……なんでもよいのですが、それらは目的達成のための「手段」となります。
個人的にキリスト教にかなりの抵抗感があるのですが、思想家イエスのことは好きで、学生時代から触れてきました。
ちょうどいま八木誠一『イエス』を十数年ぶりに読み直し、
配慮の営みにおいては、(略)目的が鮮明になればなるだけ、他の諸存在が手段に化せられることにほかならない。
第一に、現在の自分自身は、理想の自分自身への途上にある過程、一段階となる。(略)
第二に、自分の目標実現のためになる人と、ためにならない人と、どうでもよい人とが分かれてくる。(略)
配慮の営みは、このようにしてあらゆるものを自分の目標を中心とする目的―手段関係の中に編成してしまう。
自分が一度消滅したところに真の自己が見いだされるなら、意識的な自我は、常に内に否定を含んだものとして立てられる。
換言すれば、 ここに立てずとも立っている自己から、立てようとあくせくしている自己を客観視してみる余裕が生ずるわけである。
といったあたりに
「京極派と同じだなあ」
「伏見院の経験したプロセスだなあ」
と頷いています。
前期京極派の中心人物である伏見院は、
自然を愛しているつもりで、実際には自然を「自分の気持ちを述べるために利用していた」だけであったことに、政変を経て気づきます。
(自覚的に気づいたかどうかはともかく、「自然の利用を改め自然に向き直したらしい形跡が、少なくとも彼の和歌からは見える」という意味)
そして、自然を自己表現のために利用するのではなく、心底愛し、「その慈愛の発露として自然を和歌に詠む」ということをした。
その結果が私たちの知る伏見院の和歌であり、京極派和歌です。
和歌や短歌を自己表現の手段としているかぎり、
自分を変える努力もせず世界を恨みながら「苦しい、苦しい」ともがいていた10代、20代のころの私と五十歩百歩です。
「自分個人の生より上位の、なにか、大いなる概念がある」
という感覚を、私は和歌をとおして得たのだと思いますが、
そうであるかぎり、
個人の人生として苦しいことや思いどおりにならないことが大小あったとして、
俯瞰して見たときに進む道を誤っていない確信が持てるので、大きく揺れることはありません。
和歌を利用するな。
和歌に、あなたという存在を利用させなさい。
とまで言って賛同できる人は少ないかもしれないけれど、私はそういうつもりで生きています。
和歌に私という存在を利用させることで、私は社会と関わり、結果、深い喜びを日々得ています。
その様子を見せることで、
「あれ。和歌や短歌を自己表現目的で使うより、意味のある向き合い方が……ある……? 」
と立ち止まる方がひとりでも増えるとしたら、とてもうれしいことです。
私にとって人生とは、
自分の幸福を設計し、得ようとするものではなく、
才能を発揮し世界に貢献することで意味を発生させ、その副産物としての幸福を味わうものでもなく、
どうやら自分に託されているらしいものに誠実に応答すること
かな、といまのところ思います。
その託されているものが和歌であるらしいので、私は和歌をやる。それだけです。
後悔は些事
先にも述べたように、
「私に和歌さえなければ」と思ったことが一度もない、
とは言いません。
今後も、ゼロではないでしょう。たぶん。
では後悔しているのか、将来後悔するのかというと、
うーん、後悔はあるかもしれないけれど、
「だからといって、ほかの人生は歩みようがなかったし……」
と考え、また『京極派和歌の研究』や『新編国歌大観』を開くことでしょう。
どのみち考えても無駄なので。
そんなことより読みたい本がたくさんあり、理解を深めたい事柄が死ぬほどある。
後悔するかしないか、は私個人の人生のことであって、言うなれば些事です。
それより基準とすべきものを、私は知っているつもりであり、
それに対して誠実であろうとすることが、結果的に日々の幸福感につながることを確信してもいます。
まとめ
いろいろな起業家さんの発信のなかでも、けんすうさんのスタンスは比較的受動的というか、
「私がこうしたい」
というニュアンスより
「得意だからやる」
「できるからやる」
「その結果頼られたり感謝されたりするとうれしいので、幸福感も抱きやすい」
というニュアンスが強いのかなと思われ、私のスタンスとの親和性も感じられるのですが。
今回読んだ記事も、おおむね「わかるわかる」と思いつつ、
それでもまだ言及されていないなにかがありそうな気がして、考え、できる範囲で言語化してみました。
「自分の選択」という感覚が、けんすうさん自身も弱いほうかなと感じるのですが(少なくとも、起業家さんのなかでは弱いですよね)、
それをさらに薄めたようなあり方を、私はしているのかな、というような現時点での整理です。
そんな、「自分の選択」「自分の責任」「好きなこと、やりたいこと」みたいな感覚のほとんどない私の生き方が、
端からは
「なんと困難な道を選んだ、意志の強い、稀有な人でしょう!!! 」
と見えるというのは、とても興味深いことですね。
そのギャップも少しずつ埋めてゆければと思うので、言葉にしきれない感覚の言語化にこれからも努めてゆきます。
またお付き合いいただけましたら幸いです。
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もちろん、あなたが作品や記事を読んでくださること、私の発信を受け取ってくださること、それ自体が私にとって大きな力。
経済的に余裕はないが価値や意義を感じている――そんな皆様からのスキやシェアなどにも、あらためて、心より感謝申し上げます。
皆様に頂いた支えを、これからも和歌をはじめとした人文知の発信という形で社会に還元してまいります。
今後とも、あなたはあなたの領分において、私は私の領分において、ともに世界を美しくしてゆきましょう。
この記事を書いた人


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