『関心領域』─無関心という名の暴力
最近つくづく思うことがある。
戦後、数多の漫画やアニメ作品で、
戦争は悲惨だ!
差別をするな!
排外主義を煽るな!
煽動家に騙されるな!
独裁政権や全体主義は生きづらいぞ!
というメッセージが繰り返し繰り返し描かれてきた。そのはずなのに、現状、街にも、SNSにも、ヘイトが溢れ、YouTubeやTikTokを開けば陰謀論。平和主義的な価値観が「甘い」「非現実的」と軽んじられ、反対意見を「非国民」「反日」「極左」として排斥する言論空間が広がっている。
かつて創作者達が何度も訴えてきた価値観が、社会全体の空気や言論空間において軽視・忘却されつつある。
何も響いていなかったのか。はだしのゲンとか、火の鳥とか、ジブリ作品とか、ワンピースとか、ヒロアカとか、進撃の巨人とかから何も吸収しなかったのか。情けないやら、虚しいやら、それともそれだけ発信されてきたからこそ、今が“この程度”で済んでいるのかもしれない。
だが、私が今まで生きてきた中で、最もきな臭い空気が満ちているように感じる。戦後の偉大な創作者の方々が発信し続けてきた警鐘とメッセージが、陰謀論系とか極右系YouTuberによってあっさり上書きされていく。悔しくてならない。
そんな今、AmazonPrimeビデオで丁度見放題配信中なので、是非見てほしい映画がある。ある奥さんが、自分の好きで溢れた庭を地獄の隣に作り上げたお話だ。
『関心領域』
監督・脚本:ジョナサン・グレイザー
第96回アカデミー賞(2024)国際長編映画賞:受賞
上映時間:105分

強制収容所の隣で悠々自適に暮らすナチスの所長一家。収容所内の描写はほぼない。しかし、家の中には人々を殺し続ける工場と化した収容所の稼働音、銃声、悲鳴が静かに響き続け、風にのって人を焼く匂いと煙が漂い続ける。

人体破壊描写はおろか、収容所の中のユダヤ人の描写は全くないのに、今まで見た中で最もグロテスクな映画だった。静かに響いてくる音だけが、そこで行われていることを伝えてくる。所長の妻が考えていることは、自分の幸せを維持することだけ。壁の向こうで何が起こっているかなど無関心だ。むしろ、意識的に無視している。

アウシュヴィッツで、機械的にユダヤ人虐殺やってたことを知らないと何やってるのかサッパリの映画だ。その歴史を知っているかどうかも関心の領域だし、知っていたとしても壁の向こうへの想像力がないと何も響かない映画なので、無知と無関心を判別するリトマス試験紙のような映画になっている。

ゾッとするポイントはいくつもある。だが中でもギョッとしたのはココだ。アウシュビッツの冬は寒い。凍えるほど寒い。だが、奥さんの温室には熱帯の植物が生き生きとしている。一体その熱はどこから来ているのか。収容所でユダヤ人を焼く焼却炉からの予熱を回してるのではないのか。

まさに、無関心という名の暴力。この作品の根底には「人間の無関心こそが最大の暴力である」というテーマが貫かれている。
だが、我々日本人と、この奥さんと何が違うのだろう。我々の多くは意識的に無視してはいないか。イスラエルがガザを破壊し、子供を飢えさせ、無抵抗の一般市民を虐殺していることを、意識的に無視してはいないだろうか。
無関心という、最も静かな暴力。
結局は冒頭のモヤモヤも、『関心領域』と同じ話なのかもしれない。「知っていたけれど、関わらない」ことで、悲劇が維持される構造そのもの。
という、上記に書き綴ったような内容のポストをXに投下したら、たくさんのいいねと共に、「フィクションと現実は違う」という、クソリプの定型文のような引用が大量に寄せられた。戦争も差別も虐殺もフィクションではなく、現在進行形で発生している現実だ。それとも、自分の街がバスターコールの対象にならないとわからないのだろうか。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は共産主義者ではなかったから。
次に彼らは社会主義者を攻撃したが、私は声をあげなかった。
私は社会主義者ではなかったから。
次に彼らは労働組合員を攻撃したが、私は声をあげなかった。
私は労働組合員ではなかったから。
次に彼らはユダヤ人を攻撃したが、私は声をあげなかった。
私はユダヤ人ではなかったから。
そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
反ナチス活動のため逮捕されたドイツの神学者マルティン・ニーメラーの詩である。この詩は、ナチス政権下での迫害の段階的拡大と、それに対して多くの人々が自分に関係ないと沈黙を貫いた結果を、非常に簡潔で強烈に表現している。
今の日本に当てはめたら、こうだろうか。
最初に彼らは、生活保護受給者を叩いた。私は声をあげなかった。
私は受給者ではなかったから。
次に彼らは、外国人労働者を侮辱したが、私は声をあげなかった。
私は外国人ではなかったから。
次に彼らは、性的マイノリティを笑い者にしたが、私は声をあげなかった。
私は当事者ではなかったから。
次に彼らは、表現者を吊るし上げた。私は声をあげなかった。
私は物書きでも芸術家でもなかったから。
そして、彼らが私を黙らせようとしたとき、
私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
少なくとも私は、イラストレーターであり、表現者の端くれだ。
描くこと、伝えることに、どれほどの力があるのか自問する日々の中で、それでも信じていたい。創作は、関心の火を絶やさぬ営みであり、無関心という静かな暴力に抗うささやかな抵抗だと。
戦後の偉大な表現者たちが、命を削って発信し続けてきたメッセージを、私たちは継いでゆかねばならない。
その灯を、私の手で消してしまわぬように。
先達に恥じぬよう、私は今日も描き、言葉を選び、関心の火を掲げ続けたいと思う。
それでは、長文読んでいただきありがとうございました。
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