なぜ、「わかりました」は信用できないのか。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」から考える
□ 「わかった」の正体を考える
前回の記事では、ヴィゴツキーの考え方を通して、教室で学ぶ意味について考えました。
ヴィゴツキーは、人間の学習を一人の頭の中だけで考えませんでした。
一人でできることがある。
一人ではできないことがある。
しかし、他者の支援があればできることがある。
この領域を、発達の最近接領域と呼びます。
詳しくは前回の記事をご覧ください
しかし、ここでさらに問いが生まれます。
その他者との関わりは、何によって成り立っているのでしょうか。
友達の説明。
先生の問い返し。
黒板に書かれた図。
「わかった」「説明できる」「使える」という言葉。
私たちは、言葉を通して理解し、言葉を通して理解したことを確かめています。
では、その言葉の意味はどこにあるのでしょうか。
頭の中にあるのでしょうか。
それとも、その言葉がどのように使われているかの中にあるのでしょうか。
この問いに向き合うために、
今回はウィトゲンシュタインの考え方を見ていきます。
□ ウィトゲンシュタイン「言語ゲーム」
意味は頭の中ではなく、使い方の中にある
ウィトゲンシュタインは、言葉の意味を「頭の中にあるイメージ」として考えませんでした。
「言葉の意味は、その言葉がどのように使われているかの中にある。」
これが、ウィトゲンシュタインの大きな視点です。
たとえば、「わかった」という言葉があります。
授業中に、生徒が「わかりました」と言ったとします。
教師としては、少し安心します。
「ああ、理解したんだな」
そう思いたくなります。
でも、本当にそうでしょうか。
「わかりました」と言っただけで、その生徒が理解したとは限りません。
問題を解けるのか。
別の例で説明できるのか。
友達に教えられるのか。
新しい場面で使えるのか。
なぜそうなるのかを、自分の言葉で言えるのか。
そこまで見て、はじめて「わかった」という言葉の意味が見えてきます。
つまり、「わかった」の意味は、その人の頭の中をのぞけば確認できるものではありません。その言葉が、どの場面で、どのように使われているかによって見えてくるものです。
これが、ウィトゲンシュタインの考え方です。
□ 言語ゲーム
◾️ 言葉は、場面ごとのルールの中で意味を持つ
ウィトゲンシュタインは、言葉の使われ方を「ゲーム」にたとえました。
ゲームには、ルールがあります。
サッカーにはサッカーのルールがあります。
将棋には将棋のルールがあります。
トランプにはトランプのルールがあります。
同じ「取る」という言葉でも、サッカーでボールを取ることと、将棋で駒を取ることと、カードゲームで札を取ることは意味が違います。
なぜなら、それぞれのゲームの中で、言葉の使われ方が違うからです。
言葉も同じです。
言葉は、単独で意味を持っているわけではありません。
どの場面で使われるのか。
誰に向けて使われるのか。
どのようなルールや文脈の中で使われるのか。
そこによって、意味が決まっていきます。
たとえば、「考えなさい」という言葉があります。
数学の授業で言われる「考えなさい」と、国語の授業で言われる「考えなさい」は、同じではありません。
数学では、条件を整理し、式を立て、論理的に答えに向かうことかもしれません。
国語では、本文の根拠をもとに、登場人物の心情や筆者の主張を読み取ることかもしれません。
探究活動では、自分で問いを立て、情報を集め、仮説を検証することかもしれません。
同じ「考える」でも、教科や場面によって求められる行為は違います。
つまり、言葉の意味は、その言葉が使われる場面のルールの中で決まります。
これが、言語ゲームという考え方です。
◾️ 教室にも、言語ゲームがある
教室にも、独自の言語ゲームがあります。
「説明する」とは何を意味するのか。
「考える」とは何をすることなのか。
「わかった」とはどの状態を指すのか。
「間違える」とはどう扱われるものなのか。
これらは、教室によって少しずつ違います。
ある教室では、「説明する」とは、
先生の言ったことをそのまま再現することかもしれません。
別の教室では、「説明する」とは、
自分の言葉で理由を述べることかもしれません。
また別の教室では、「説明する」とは、
相手がわかるように例を出しながら伝えることかもしれません。
同じ「説明する」という言葉でも、
その教室の文化によって意味が変わります。
だから、教室で大切なのは、言葉の意味をそろえることです。
「説明する」とは、何をすることなのか。
「考える」とは、何をすることなのか。
「わかった」とは、どの状態を指すのか。
「間違える」とは、どう扱われるものなのか。
この意味が共有されていないと、生徒は同じ言葉を使っていても、違うゲームをしていることになります。
教師は「考えてほしい」と思っている。
しかし、生徒は「正解を思い出すこと」だと思っている。
教師は「説明してほしい」と思っている。
しかし、生徒は「答えだけ言えばよい」と思っている。
教師は「間違いから学んでほしい」と思っている。
しかし、生徒は「間違えたら評価が下がる」と思っている。
これでは、同じ教室にいても、同じ学びをしているとは言えません。
教室の学びをつくるとは、教室の言語ゲームをつくることでもあるのです。
◾️ 「知っている」とは、使えることでもある
ウィトゲンシュタインの考え方に立つと、「知っている」という言葉の意味も変わります。知識とは、頭の中に情報が入っている状態だけではありません。
その知識を、適切な場面で使えること
他者に説明できること
状況に応じて言い換えられること
別の問題に移せること
実際の判断や行為につなげられること
そこまで含めて、私たちは「知っている」と言っています。
たとえば、英単語を考えてみます。
単語テストで日本語訳を書ける。
これは一つの知識です。
しかし、その単語を英文の中で読める。
自分の文章の中で使える。
似た単語との違いを説明できる。
場面に応じて自然に使い分けられる。
ここまでできると、その単語をより深く知っていると言えます。
数学でも同じです。
公式を暗記している。
これは一つの知識です。
しかし、その公式が何を表しているのか説明できる。
どの場面で使うのか判断できる。
図や言葉で意味を説明できる。
条件が変わっても使い方を調整できる。
ここまでできると、公式を本当に知っていると言えます。
つまり、知識はただ保存されるものではありません。
使われることで、意味を持ちます。
そして、その使い方の中で、知識の深さが見えてきます。
□ ウィトゲンシュタインの強さと限界
意味は使い方にあるが、使い方はどこで身につくのか
ウィトゲンシュタインの強さは、「意味は頭の中にある」という思い込みを崩した点にあります。
私たちはつい、理解や意味を個人の内側にあるものとして考えます。
もちろん、個人の内側で感じる理解はあります。
しかし、ウィトゲンシュタインの視点に立つと、それだけでは不十分です。
意味は、言葉がどのように使われているかの中にあります。
「わかった」という言葉も、実際にどう使われるかによって意味が見えてきます。
「考える」という言葉も、どの場面でどんな行為を指すのかによって意味が変わります。
「知っている」という言葉も、ただ記憶していることなのか、説明できることなのか、使えることなのかによって意味が変わります。
この視点は、教育にとって非常に重要です。
なぜなら、教室で使われる言葉の意味を問い直せるからです。
しかし、ここにも一つの問いが残ります。
言葉の意味が使い方の中にあるとして、その使い方はどこで身につくのでしょうか。
私たちは、最初から「説明する」「考える」「わかる」という言葉の使い方を知っているわけではありません。
教室の中で、少しずつ覚えていきます。
友達の説明を聞く。
先生の問い返しを受ける。
他の生徒の発言をまねる。
自分の考えを言葉にしてみる。
その場で通じる言い方を少しずつ身につける。
つまり、言葉の使い方は、具体的な共同体の中で学ばれていきます。
この問いに答えるために、次にレイヴとウェンガーの考え方へ進みます。
次回へ
ここまで、ウィトゲンシュタインの考え方を通して、意味は頭の中ではなく、言葉の使い方の中にあるという視点を見てきました。
言葉は、いつも具体的な場面の中で使われます。
教室。
部活動。
職場。
研究室。
職人の世界。
それぞれの場には、それぞれの言葉の使い方があります。
その場で大切にされる考え方があります。
その場で通じる説明の仕方があります。
その場で認められる振る舞いがあります。
では、人はどのようにして、その場の言葉や作法を身につけていくのでしょうか。
次の記事では、レイヴとウェンガーの「正統的周辺参加」を手がかりに、知識は実践の共同体の中にあるという考え方を見ていきます。
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