【創作大賞2025受賞記】2026年4月のあなたへ
このnoteは、創作大賞2025エッセイ部門で双葉社文芸出版部賞を受賞するまでの、制作秘話、中間選考通過、受賞連絡、顔合わせ、授賞式、打ち合わせ、等の全記録を記したレポート兼エッセイです。来年、創作大賞へ挑戦する誰かに届きますようにと願って書きました。長文(約1万字)ですが、ぜひ、読んでみて頂けると幸いです。
応募作が中間選考を通過したことを知ったのは、まだ外の薄暗い明け方のことだった。南半球の9月はちょうど冬があけた頃で、赤道直下のここケニアも、朝晩は随分と冷え込む。
目覚ましの6時半より1時間も早く目が覚め、布団にくるまったままインスタの画面をぼんやりと下から上へ押しやっていたら、Xのメッセージ通知が画面にすべり込む。
「ねぇアユミさん!!!中間残ってるよ!!!」
途端に早まる鼓動。しんと静まり返った寝室に、体を脈うつ振動が充満してゆく。
そこには紛れもなく、そのタイトルがあった。
*
2025年が幕を開けた1月、例年通り今年の抱負を頭の中だけで表明しながら、そうか、40歳になるのか、ということに思いを巡らせていた。人生を80年だとした時に、私は今、折り返し地点に立っているらしい。そう考えた途端、どこからともなく焦燥感が、沸々と込み上げてきた。
我武者羅に生きてきた、という自負はある。自分でなんとかしなきゃなんともならない人生なんだ、という現実を突きつけられた18歳のあの日から、まわりに期待をしないように、自分の行動だけを信じて、前を向いて歩いてきた。猪突猛進は確かにそれなりに遠くまで導いてくれたけど、その道の途中で手放して、置き去りにしていったものもある。
そのひとつが、書くことだった。高校生の頃、綿谷りさのインストールに衝撃を受け、真似事で始めた言葉を綴るという行為。人生の様々なステージで、言葉にまつわるあらゆることに手を出してきたけれど、そのどれもを、私は大した形にできないまま、蔑ろにして誤魔化してきた。
書くことに、腹を括りたい。新年の抱負にそう付け加えて、慌ただしく始まった今年の最初の月が終わる直前、偶然見かけたのは、とあるnote。それは2年前、弊社に記念すべき初のインターン生としてインドからはるばる参加してくださった、ゆうこさんの記事だった。そこには彼女が利用している、パーソナル編集者なるサービスのことが書かれている。私だけの編集者。その響きにピンときて、すぐさま問い合わせ、直感の促すまま迷わず申し込んだ。
代表のみずのさんと初回セッションを交わした後、私にあう編集者さんを選んでつけてくれる、という流れだ。みずのさんの、「なぜ申し込まれたのですか?」という質問に私は、死ぬまでに本を出すことが夢です、と大真面目に答えた。
創作大賞、のことを知ったのは奇しくも、パーソナル編集者に申し込んだ直後のことだった。noteに登録したのは6年前だが、その時だって「書き始める。」なんて勇ましいタイトルで開口したくせに、案の定、年に1、2回しか更新しない、言わば幽霊部員として細々とやってきた。エッセイで受賞を目指すには圧倒的に作品数が少なく、フォロワー数も弱小。そんな私でも、大賞を受賞すれば本が出版されるかもしれないというチャンスに、胸が躍った。
なんというタイミングなんだろう、といちいち運命じみたものを感じながら、私は担当編集者となったみかんぬさんとの初セッションで、まずは自己紹介になるような何かを書きたいんです、と伝える。さすがは編集者、情報のストックが豊富なみかんぬさんは、いくつか素敵だと思った自己紹介noteを引用してくださり、それらを分析したり感想を言いあった。そこでざっくりと、私のことを書きながら、何か別の大きなメッセージがあるような文章にしたい、という方向性が見えた。
受賞作「セブンイレブンに憧れた少女がアフリカでデザイナーになる話」はそうやって、パーソナル編集者についてもらって書いた第1作目だった。みかんぬさんとセッションをした3日後の3月7日、息子を寝かしつけた後の夜の時間に、iPhoneのメモ帳を使って書き始めた。1週間ほどで全体をざっくりと書き切り、そこから2週間ほど毎晩推敲を重ね、3月26日にnoteに投稿。全体としては、20日間ほどの執筆期間となった。
自分の半生を書くにあたり、有名人でもない私なんかの人生を最後まで読んで貰うには、何か確実に持ち帰ってもらえる感情を用意しなければいけない、ということを終始意識していた。みなまで言うな、のエッセイの世界で、明確な結末の章を作り、これは一体なんの話だったのか、をあえて言葉にしたのは、その意図からだ。
双葉社の方にも言われたが、「ドラマでも普通はそうならない」という場面が随所にあるため、展開のドラマチックさという事実だけに感情が持っていかれないよう、語り口から感情的な表現を限界まで削った。幼少期から現在と、エッセイとしては時間軸も大分長いため、なるべく淡々と書くことで読者の方の体感時間が軽くなるようにも意識した。
みかんぬさんからは、読者の感情として流れが早すぎる場所などを指摘してもらった。「ここはもう少し、アユミさんの感情をしっかり感じたい」とアドバイスをもらって変更した震災の部分を、後に双葉社の方に、「あの日の自分を思い出すようでした」と言って頂けた時は、思わず心の中でガッツポーズをした。
しっくりとくる言葉が出てこなかったり、文章の流れの音感に字数が合わなかったり、事実の羅列と内省のバランスが取れなかったりして、苦しみながら言葉を足したり消したり変えたりした。そんな私の姿を見てみかんぬさんが、「そんなに思い詰めなくても大丈夫ですよ、充分書けていますよ」と声をかけてくださる。でも私はその優しさに、「いや、突き詰めたいんです。苦しくても、書きたいんです」というようなことを衝動的に返していた。今となってはあそこが、これまで越えられなかった“書くこと”の壁を、はじめて越えた瞬間だったようにも思う。
それならとことんやりましょう、と最後まで、細かな微調整にも付き合ってくれたみかんぬさん。一連の執筆作業を終えた時、「アユミさんの文章は、まるで作品作りのようですね」と言われたその言葉がとても嬉しくて、今でも心に大切にしまってある。確かに、私にとって文章を書くことと服を作ることは、とてもよく似ていてる。自分の思い描く形に、少しずつ少しずつ、整えていく作業。その2mmの調整はきっと誰に気づかれるものでもないけれど、そこにこだわることを怠らなかったという、自分には絶対に嘘をつかない世界線。
創作大賞期間全体を通じて、noteで寡作の私を選んでもらうにはどうしたらいいのか、ということを客観的に考え続けていた。大賞を受賞するということは、出版社の方に、本にしたら売れると思われることであり、つまり、世間から需要のありそうな何か、である必要がある。加えてエッセイで受賞し本になるということは、受賞作以外も含めた複数作が必要であり、これまでにも骨のある文章がきちんと書けている、もしくは、書ける見込みがある、のどちらかの保証を提示しなければならない。
私には、前者のオプションはなかった。残された可能性は、この人はもっと書けそう、書けるネタがあって筆力も悪くない、と思ってもらうこと。そんな思いから、特に受賞作には、入れなくても成立したけど敢えて入れたエピソードがいくつかある。期間中、合計3作を応募したけれど、これまでnoteで服作りの仕事のことばかりを載せていたので、引き出しのバリエーションを感じてもらえるよう、家族のこと、過去の自分のこと、をそれぞれ書いて応募した。
*
みかんぬさんのメッセージで中間選考通過を知ったその朝、嬉しさが込み上げたのと同時に、少しの落胆を感じた自分がいた。この期に及んでではあるが、他の2作も受賞作同様、真剣に挑んだつもりだったからだ。自分の人生を全部詰め込んだ何かでしか通過できなかったのか、ということに少しがっかりし、そうなると、これを逃すと私にはもう2度とチャンスはないのかもしれないな、などと焦りも感じた。
中間選考を通過した、全57作品を読んだ。読み終わった後にうおおおおおと叫びたくなるほど良い作品がいくつもあった。私のテイストではないけれどこれは売れそうだなあ、と思うものもいくつもあった。と、同時に気づく。ここからはもう、運でしかない、ということに。当然ながら、それぞれの出版社にカラーがあり、探しているものがある。もっと言えば、力を入れたい分野があり、得意な分野、妥協できない分野があって、加えてそこに、今年の並びも影響してくる。ここから先はもはや、良し悪しの話では到底なく、出版社の方々の好みの問題であり都合の問題であり、つまり、運である。
ところが私は、めちゃくちゃ運がいい。人生、運に救われ切り抜けてきたと言っても過言ではないくらい、運がいい。昔住んでいたアパートが火事になって私の部屋だけ燃えなかったり、知り合いの美容師が行けなくなったからと代わりにタダでインドへ行けたり、雨季の真っ只中の大事なイベントの日だけ晴れたりと、とにかく運がいい。だからきっと、40歳のご褒美に、めちゃくちゃ最上級のラッキーが舞い降りる、そんなジンクスを心の中で思い描いていた。
今年エッセイ部門での受賞を目指した人はきっと皆同じように、昨年の唯一の大賞受賞者、長瀬ほのかさんの投稿を舐め回すように読んだと思う。当然私も長瀬さんの投稿をチェックし、期間中何作応募されたかとか、どのタイミングで投稿されたかとかまで確認し、質問箱も隅から隅まで読んだし、受賞報告のnoteはお守りのように何度も読み返した。
で、そこにしっかり書いてあるのである。9月末日に受賞連絡がきた、のだと。そういうわけで、あまり寝つけないまま迎えた9月30日、私は朝からソワソワしながら携帯を握りしめていた。受信箱を30分おきに開いては、新着メールのない画面をズッと下にずらして更新するも、相変わらず創作大賞の文字はない。日本の企業のおおよその就業時間内にメールを送るとして、夕方5時までだとしよう、つまりケニア時間の午前11時をすぎる頃までだとして、いや、多分いまどき7時くらいまでは働くでしょう、とかなんとか仮定の話を作り上げながら、私はようやく午後3時、観念した。
3月、夫にパーソナル編集者をつけること、創作大賞に応募すること、選ばれたら本になること、そうなると授賞式に出るために私は是が非でも日本に帰ることを宣言して以来、集中して書いている週末なんかには、息子の面倒や家事を率先してやってくれていた、夫。ナイロビの、相も変わらずタチの悪いまるで動かない渋滞にはまっていた最中、助手席に座って黙っていた私は半泣きの目で、「ねえ、ダメだった。」と、運転席の夫に告げた。
「君の人生の物語を、僕はちゃんと知っているから。今回じゃなくても、いつか、必ず本になるから。書くのを、やめたらダメだよ。」と夫は抱きしめてくれた。その足で、近所のレストランに残念会をしに行った。外食を嬉しそうにする息子としょうもない冗談で笑わせようとしてくる夫を前に、私は、きっとこれからも大丈夫、と思えた。
10月1日。今年もあと、3ヶ月。創業7年目にして、初のオープンスタジオへの移行を計画した5月から遅れに遅れ、胃が軋む夜を何度も超え、ようやくグランドオープンが間近に迫っていた。そこから翌週には2日間のポップアップ。その後は久々の新作のローンチ。11月12月のケニアはクリスマス商戦ど真ん中で、オーダーや購買が増え、国内最大級のポップアップも控えている。バタバタしているうちに2025年も過去へと箱詰めされてゆき、ぼんやりしているうちに、2026年の創作大賞だって、あっという間にやってくる。
その日も夫が運転する車の助手席に座り、スタジオ併設新店舗の買い出しへ向かっていた。チャイナ・スクエアと呼ばれるその超大型店舗は、日本のホームセンターのクオリティとデザイン性を4段階下げた何でも屋のような場所で、日本ならこれはダイソーで買えるのに700円かよ、とかぐちぐち言いながら、ないとないで困るのでしょっちゅう行く、在ケニア外国人の御用達である。
ナイロビのレジ事情は不可解で、フロアを見渡せば10人くらい手持ち無沙汰のスタッフが暇そうに世間話をしているのに、レジには2人のみで長蛇の列、みたいなことがデフォルトである。相変わらず進まないレジで、全てのSNSをチェックし終わっても進んだ気配がなく、おもむろに、メールの受信箱を開く。創作大賞「メデ、の部分で見切れたそのメールをタップするのと同時に、どこから出ているのかわからない声をあげながら、私は膝から崩れ落ちた。
双葉社文芸出版部賞、の文字が目に飛び込み、私の教科書のような存在だった長瀬さんの後釜であることを知ったあたりで、変な声は悲鳴に近い声になっていた。優しいケニアの人たちが「どうした、病人か」と心配してわらわらと駆け寄ってきてくれたのを、状況を悟った夫が恥ずかしそうに、大丈夫です、彼女は大丈夫です、と弁明している。胸元に銃を構えたミリタリー服の警備員2人がジリジリと近づいてきたあたりで私はようやく、「私は大丈夫ですご心配なく!!!」と叫んで立ち上がり、お店の外へ走り出た。昨日まで雨続きだったナイロビなのに、見上げた空は雲ひとつない、快晴だった。
その日は夜まで浮かれた気分で過ごし、本当にメールが来たんだっけと、不必要に受信箱を開いては確認して夫に見せつけ、「どうも、著者です」と言ってみせるを繰り返した。あまりに確認しすぎたせいで、どこかのタイミングで指が滑ってアーカイブに入れたようで、受信箱にメールがなかった時には息が止まりそうだった。出発まで20日を切っていたため、飛行機の値段は既に上がりはじめており、その日の夜、すぐに航空券を購入した。
購入してから急に、もしかしたら間違いだったのではないか、という不安がよぎりはじめる。仮に受賞者をエクセルで管理していたとして、1行読み間違って私に連絡してしまったのでは、などと、身に余る光栄を疑う余地はいくらでもあった。余談ではあるが、この話を受賞連絡をくださったnoteの平野さんにしたところ、「そんなわけないじゃないですかー!あのメール、送るの本当に緊張するんですよ!」と心外そうに言われ、そりゃそうだと、自分の無駄な自信のなさを恥じた。
受賞を純粋に喜べたのは受賞連絡のあった当日くらいで、翌日には、えも言われぬ不安が押し寄せた。なぜ私が選ばれたのだろう、もしかしたら私は2番目の候補で1番目の方が辞退したから渋々選んでくれたのだろうか、もしも実力以上に評価されていて期待に応えられなかったらどうしよう、等々。訂正謝罪のメールが届かないということは、確かに私が選ばれたようではあるのだが、その背景が全く見えない上、何も公になっておらず、私と平野さんだけの交換日記状態の中、まるで現実味がなかった。
受賞した実感がはじめて湧いたのは、受賞発表のプレビュー記事が送られてきた時だった。受賞者同士で交流ができるよう、どなたが受賞され、何を書かれたかわかるようにという、note社の計らいだ。緊張しながら記事を開くと、今年はエッセイの受賞者が3人。会ったこともないOLのミカ。さんと望月さんと、この結果を同じような想いでソワソワしながら見ているのかな、と思うと、秘密共犯者の心理とでも言うのか、勝手にもう繋がりあっているような気分になった。それから双葉社文芸出版部賞の受賞者が、私以外にもう1人。恋愛小説部門のYASUさんのお名前を拝見して、思わず声が漏れる。昨年の受賞作品として読んで号泣したエッセイを書いた方ではないか。エッセイで去年入賞して、今年小説で大賞受賞ってどうゆうことだよ、とひとり勝手に衝撃を受けながら、そんな頼もしい同期がいるということに心強さを覚えた。
もう一度見よう、と2度目に記事を開いた時、それまで空欄だった選評が公開されていることに気づき、はっと息を呑む。恐る恐る、自分の名前のところまでいくと、先ほどまではなかった文字面が、そこには確かにある。

文字制限があるであろう中、無駄なく選ばれた言葉で綴られたその文章は、選評を超えて、私の人生をまるごと肯定してくれるエールだった。ずっと、誰かに言われたかった言葉がそこに並んでいて、私はしばらく呆然として、頬を伝う涙を拭うこともしなかった。遠回りばかりしながら、ひとり必死に戦ってきたつもりの人生が、誰かに繋がる何かになれるかもしれない。かすかな、でも確かな輪郭を伴った実感を、ようやく私は噛み締めていた。
受賞を知ってから、つまり日本に帰国することが決まってからの毎日は、文字通り分刻みで仕事をこなした。よりによって近年で最も忙しい月に、予定よりも2週間ほど時間をカットすることになるため、あらゆることを前倒しに準備して終わらせて行かなければならない。でもそのお陰で、不安や感傷に浸る暇もなく、あっという間に出国の日を迎えた。
その日も結局夜12時まで仕事をし、3時間仮眠。空港に向かう直前、息子の部屋のドアをそっと開け、すやすやと眠るもうすぐ4歳のおでこにキスをする。息子が生まれて以来、離れ離れになるのはこれが初めてのことで、私がいなくて大丈夫だろうかという不安と、母親として申し訳ないという罪悪感にかられた。
「自分の夢のために、子どもを置いてでも行くなんて、母親失格よね」と言った私に、夫は笑いながら、「僕のこと、舐めてる?」と返す。そうだった。夫は息子が生まれたその日から、育児は当然2人でやるものだという姿勢で、いつも私と同じだけ息子と向き合ってきた。付き合ったこともない相手とノリで結婚した割には実にいい相手にめぐり逢えたので、私はやっぱり、めちゃくちゃ運がいい。
10月23日。打ち合わせに先立って、noteの方がお膳立てをしてくださり、note社で双葉社さんとの顔合わせがあった。副編集長のMさんと、担当編集のTさん、それからnoteから2人同席してくださった。Mさんからは、編集部12人全員で200作品以上を読んだこと、そこから最終候補に6作品残ったこと、その中のエッセイ作品の中から、満場一致で私の作品が選ばれたことが告げられた。処理しきれない嬉しさのレベルであったため、脳内で小さな私が「これはお世辞」と連呼することで平常心を保った。編集部には20代から50代まで様々な年齢の方がいらっしゃる中で、全ての年齢層の方に響いた高い共感性を評価して貰えた、ということだった。
案の定、過去のnoteもしっかり読んでくださっており、Tさんに、「アユミさんのエッセイはどこか文学のようで、もしかしてこれまでに…書かれてきた経験がありますか?」と聞かれ、目が潤みそうになる。大した形にもなれず放置されてきた無数の言葉たちが、報われた瞬間だった。
私が、選評が泣くほど嬉しかった旨を伝えると、担当編集のTさんが書いてくれたこと、それからTさん自ら立候補し担当を買って出てくださったことをMさんが教えてくれた。あんなに凛として美しい言葉を綴ってくれたTさんが担当であることがとても嬉しく頼もしく、これから二人三脚で本を作っていくことが楽しみだ。
その後note社で開催された交流会では、お会いしたかった面々とたくさんお話できた。OLのミカ。ちゃんに、一目あった瞬間から虜になった。なんなんだあのスーパー魅力的な人間は。それから、受賞作の感想を書いてくださった野やぎさん。人に初めて会った気にさせないのは才能で、私はそういう人にいつも憧れる。パーソナル編集者でお名前をお見かけしていたオギユカさんも想像通りチャーミングな方で、夫が好きすぎるという話で盛り上がった。
書くという行為は孤独でとても個人的なものだが、ジャンルやテイストは違えど、同じ目標に向かって頑張る実在の方たちと交流できる機会はとても貴重なものだった。ここに名前を挙げきれないが、お話してくださった全ての方に刺激を受け、確実に書くことへのモチベーションとなった。そしてこれこそが、創作大賞が他のコンテストと大きく異なる部分であり、noteの皆さんの想いそのものだなぁと、盛り上がる会場を見渡しながら、あたたかな気持ちになった夜であった。
10月24日、授賞式。恵比寿なんてOL時代に散々闊歩してきた街なのに、まさかの道に迷って予定よりも遅くの到着。既にたくさんの人が着席していて、ひや汗をかきながら自分の席へ向かうと、そこにはミカちゃん、そして待望の望月さんがいた。優しい雰囲気を纏った真顔でしれっとおもしろいことを言う望月さんは彼女の文章そのもので、私たち3人は緊張を誤魔化すように、終始ケラケラと笑いあった。
授賞スピーチのトップバッターを切ったミカちゃんが、プロなのかと思うほど場馴れしたおもしろいスピーチを披露するので、一気に緊張が高まる。でもきっと望月さんはほら、緊張しているに違いないし、という私の予想を見事に裏切り、堂々とおもしろいこと言ってのける望月さんに、私の緊張は限界を振れ切っていた。
眩しいほどのライトに照らされ、予め用意してきた言葉を探る。驚くことに、声が震えていた。仕事柄、ステージとか壇上には慣れていたはずなのに、一体どうしてしまったのだろう。本を出すことが夢だった、のあたりで、自分の目から涙が溢れそうになっていることに気づき、うろたえる。「あれ、こんなはずじゃなかったのに…」という心の声を、あろうことかそのままマイクに乗せてしまった。なんとか締めくくるも、せっかくの晴れ舞台に大失態を晒してしまい、どうか誰も私のスピーチのことを未来永劫覚えていませんようにと願いながら、ステージを後にした。
宣言通り忘れ去っていたこのスピーチのことをはたと思い出したのは、昨年の受賞者である青山ヱリさんの後日談noteでのこと。特に心に残ったスピーチとして私の名前を挙げてくださっており、思わず変な声がでた。でもそれを読んで初めて、胸がすく思いがしたのだ。そうか、そうだよな。私はあの日ただ、泣くほど嬉しかっただけなのだ。そうしてはじめて、私はあのスピーチがとても自分らしかったことに気づき、合格点をあげようという気持ちになれた。私だって、ミカちゃんや望月さんみたいに気の利いたことのひとつやふたつを言って会場を沸かせたかったけど、そうだった。私は万年、センチメンタルで感極まって生きる系の女なのだ。
授賞式のレポートはもっと詳しく書く予定だったけど、既に多くの方が素晴らしいレポを書かれているので、出遅れた私の説明はもはや不用となった。交流会と授賞式を通じて最も感じたことは、noteの皆さんの、創作大賞にかける並々ならぬ想いである。昨日までは名前も知られていなかった市井の人が、プロの作家となってゆく。その夢物語のような過程を、ゼロから見つめ支える舞台裏にも、決して知られることのない苦労や思い入れがあることを、多くのnoteやTalesスタッフさんとの会話で身に染みて感じた。この場をお借りして、創作大賞運営に携わった全ての皆さまに、心からのお礼をお伝えしたい。このご恩は、ちゃんと出版され、ちゃんと売れて、創作大賞の名前に貢献してゆくことで返したい。
授賞式後の交流会では、お会いしたかった長瀬さんとYASUさんにも会え、チーム双葉社として3ショットも撮って頂いた。長瀬さんには、昨年のエッセイが圧倒的に素晴らしすぎてぐうの音も出ませんでしたみたいなことをお伝えした。YASUさんは、昨年エッセイで入賞した際にまわりの方に刺激を受けて小説を書いたそうで、いや、そうだとしても、それとこれと受賞することは別の話なわけだから、と感銘を受けっぱなしだった。いやはや、私にも、よもや小説を書くなんてことが、できるだろうか。
とかいうことはさておき、ここで双葉社の編集長、Sさんと初対面。ご挨拶をし、受賞作品の話なんかをしながら不意にSさんが、「私ね、鳥取のことを書かれたお話も、同じくらい好きなんです。」と言ってくださり、思わず飛び上がる。その話とは、創作大賞に応募し中間選考に残らなかった別の作品のことで、同席していたTさんも「私もです!」と続いてくださった。
それは、必ずしもスポットライトを浴びる作品だけが良い作品なのでもなく、誰の目に触れずとも、確かに存在している佳品がたくさんあることのリマインダーでもあった。編集長のこの一言で、全ての作品に真剣に向き合った事実が報われた気がした。まるで読まれないと思うような時にでも、真摯に書き続けていきたいと、改めて思った。
それから数日後。神楽坂にある双葉社へ打ち合わせに伺った。Tさんから、打ち合わせ前にランチに行きませんかとお誘い頂き、2人でご飯へ。神社の中にある素敵なカフェで、文章のことや他愛もない話や世間話をした。Tさんにもバックパッカーをされていた時代があり、異国をひとりで旅すること、それによって否応なく見つめさせられた自分のこと、などの話をした。海外に住んで12年目になるが、Tさんの反応や質問に耳を傾けながら、私にとっては普通となっていることが、日本に住んでいる誰かにとっては新しく、ヒントになり得るエピソードなのかもしれないな、とふと思い至った。
御朱印を集める系の女だった私は、神社に行くチャンスがあれば迷わずおみくじを引く。結果は末吉。そこは普通は大吉だろ、と神様に悪態をついてみるも、いや、ここで運を温存して次の絶大ラッキーに備えておくパターンだな?という解釈で丸く収まった。この先多少の不運も受け止めるので、本が売れるという運気に是非とも集約をお願いしたい。
打ち合わせでは、約一年後の出版を目指して執筆をしていくこと、連載が始まることなどが告げられた。これから書いていく内容の方向性や、頻度なども話し合った。正直に言えば、やっぱりまだ、ピンと来ない。それでもTさんが用意してくださった仮のゲラを目の前にすると、私が紡いだ言葉が本になるらしいことは、確かな現実だった。

ここで最後に、一生蓋をする予定だった授賞式のスピーチを、書き残しておきたい。
"ここではないどこか、を追い求め、気づけばアフリカに暮らして8年目になります。そのきっかけにもなった、「死ぬまでにやりたい100のこと」というリストを、20代の頃に書いたのですが、そこには確かに、本を出版すること、という項目がありました。
この40年間、遠回りばかりの人生でしたが、その道のりを綴った本作で受賞できた今、これが私の最短距離だったように思います。
そんな想いを胸に、自分らしい今日を探し求める誰かの背中を、そっと押せるような文章を書いていけたらと思っています。この度はご選出頂き、本当にありがとうございました。"
*
東京の寒さとは打って変わり、11月のケニアはよく晴れていて、日差しがこれからやってくる夏の気配を孕んでいる。相変わらずデコボコの道に揺られていると、じんわりと汗が滲む。東京じゃこんな道は犯罪だよ、と辟易しながら心の中で呟く。もう慌てもしない安定のロストバゲージの後、リュックサックひとつの身軽で我が家に到着すると、そこには7年もかけて築いた私の日常が、昨日からの地続きであるかのように広がっていた。どこかに行ってきた痕跡が手元にない事態と相まって、この2週間の全てが白昼夢だったような感覚に襲われる。
そう言えば、とリュックサックを開けると、割れたりしないよう念のため、と手荷物に入れておいた、授賞トロフィーがちゃんとあった。変わり映えしないリビングルームの棚の端に、ちょこんとその黒の長方形を、置いてみる。
いつものカップに珈琲を入れて、ふう、とひと息つく。そうだな、本が出版される暁には、イベントも開催したいな。ポップアップの会場にだって、私の本を置きたい。ぴったりのブックカバーを一緒に作ることだって、私にはできるんだし。そうそう、昔お世話になったディレクターさんに、ねぇ出してよってお願いして、ラジオやテレビに出で本の宣伝もするんだ。
何はともあれ、まずはしっかり書かなくちゃ。真摯に、私らしく。もう絶対に、手放したり置き去りにしたりしないで。その先に見える景色を、今こそ私は、この目で見に行ってみせるんだから。
そうやって結局、私は今日も、ここではないどこかを追いかけている。
最後まで読んでくださりありがとうございます。改めてまして、創作大賞に携わる全ての方と読んでくださった皆さまに、感謝申し上げます。連載、それから来年の出版まで、どうか、暖かく見守って頂けると幸甚です。
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