やりかけの未来を -創作大賞2025受賞によせて-
高校一年生の頃、世間の注目をかっさらった話題があった。
かの有名な文学新人賞の登竜門「文藝賞」を、17歳の現役女子高生が受賞したというのだ。
綿矢りさ著、インストールである。
16歳だった私は、テレビで見たそのニュースに釘付けになった。私とさほど年の変わらない誰かが“何者か”になったという事実に、頭を殴られたような衝撃を受けた。水色の背景に、私みたく気だるそうな女子高生が描かれた表紙のその本を静かに読了すると、充足感と羨望の入り混じった感情が込み上げてきて、私は、すぐにシャープペンシルとルーズリーフを手に取った。
はじめて文章を書いたのは、そんな多感な思春期の頃だった。綿矢りさみたいになりたくて、時には、耳をすませばの雫の姿に励まされながら、あるいは、Mr.Childrenとかスピッツの歌詞に感化されながら。降りてくる言葉を走らせては、結局埋まり切らない真っ白を、幾度もくしゃくしゃに丸めては、捨てた。
そうやって、書くことはいつも私の毎日に、どこか宙ぶらりんのまま居座った。ある時はシンガーソングライターになりたいと、言葉を音に乗せてみたり。はたまたキャッチコピーの勉強をしてみたり。芸術学部の音楽学科に通っていた私は、文芸学科の授業を聴講して自分でZINEを作ってみたり。詩集を作ってブックフェアで販売したりもしたし、会社を辞めて世界へ旅立つことを決めた時だって、私はリモートでマガジンを発行しながら旅をしていた。
書けども書けども、私の言葉はそれっぽいだけの薄っぺらで、誰かみたいに素晴らしくはなかった。そのどれもがいつも納得する形になりきらずに、日々と日々の間に溶けては、私の心のどこかにこびりついていった。
何かを形にしたい。私だって、何かを生み出す人になりたい。
そんな執念と神様の気まぐれが、どういうわけか絶妙に交わって、気づけば私は、アフリカで服を作る人になっていた。伝統の布に魅了され、それが思い通りの形になるのが楽しくて、ただただ作り続けていたらいつのまにか、ファッションデザイナーと呼ばれていた。
会社を作り、直営店を出し、いつしか海外の著名人が着るようなブランドになっていた。ファッションウィークのランウェイショーに呼ばれる頃には私は、デザイナーという肩書きに気後れするのをやめた。そうして、自分の名前の元に何かを作り出すという責任に腹を括ったのは、40歳目前のことだった。
40年。人生を80年だとした時に、折り返し地点に今立っている、という事実は、少しの焦燥感を伴う。あと半分しかない。いや、半分もないかもしれない。私は、明日人生が終わるのだとしても、後悔しないだろうか。やりたいのにやれていないことが、ないだろうか。そう改めて立ち止まり、振り返るあれこれを懐かしく手繰り寄せていくと、1箇所だけ、重く、幾重もの層になっている場所がある。
書くこと。それは私がずっとこの何十年、やりかけては端によせてきたこと。節目の年に、新しく何かを始めたいと耽っていたら、くしゃくしゃに丸めて捨てたはずのルーズリーフの山が、まだ、そこに佇んでいた。
やりかけの未来を、今なら始められるかもしれない。だってあれから私なりに、険しい道だって歩いてきた。それに、好きだと思えることを、日々の隙間に流してごまかさず、掬い続けていくことがどこにたどり着けるのかを、ちょうど、この目で目撃したばかりだ。
始めよう。もう40歳だとかはどうでもいい。私たちの誰もが、大人なんていう立派な生き物は幻想で、知識と経験とそれらしい言葉遣いを装備しただけの、あの何者かになりたかった10代の自分と何らかわらないことを、本当は知っている。青臭いとか我武者羅はダサいとか、格好つけている暇は私にはない。だって、明日がちゃんと来てくれる保証なんてないし、誰も私の人生の責任を、取ってくれやしない。
まずは私のことを書くところから始めよう。今の私だからこそ書ける、何か。それは多分、いつもどこかに届きたかった幼い頃の私から、今日の私までの足取り。何者かになりたくて、でもどこまでいっても私は私にしかなれないとようやく確信した、今の私の言葉で。
この度は、創作大賞2025エッセイ部門で、双葉社文芸出版部賞にご選出頂きありがとうございます。読んでくださった方、感想やコメントをくださった方、シェアしてくださった方、応援してくださった方、そしてnoteと双葉社の皆さまに、心より感謝を申し上げます。
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