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セブンイレブンに憧れた少女がアフリカでデザイナーになる話

子どもの頃、ずっと週に2日通っていたスイミングスクールが閉業されることになった。正しくは、プールの入っていたダイエーが、取り壊されることになったのだ。

閉店の日、私は自宅から徒歩3分のダイエーへ1人で向かった。自動ドアが開き、閉店セールで賑わう、そのよく見慣れた店内をぐるりと見まわす。そして私はおもむろに自分の髪の毛を一本抜き、ふわりと、それを宙にほうった。



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物心ついた頃から、やたらとセンチメンタルな性格だった。取り壊される思い出の場所に、どうか私がいた痕跡も一緒に眠りますように、なんて願うような。

さよならとか明日で終わりとか、あまり上手く消化できない子どもだった。空はどこまで続いているのかとか、夜の向こうには何があるのかとか。そういう空想にひとり黙々とふけるのが好きで、将来はナウシカみたいになりたいと、割と本気で思っていた。


そんな私が、はじめて遠いどこかのことを意識したのは、両親の部屋に飾ってあったカレンダーの写真を見た時だ。白砂にエメラルドブルーの海、そして「地上の楽園・モルディブ」の文字。世界のどこかには、こんな場所があるのか。そのエキゾチックな響きと景色は、子ども心にも好奇心をくすぐった。


ちょうど同じ頃、ラジオっ子だった私には大のお気に入りの番組があった。午前0時ちょうどに始まる、ジェット・ストリーム。夜間飛行で世界の都市へと誘うそのナレーションは、見たことも聞いたこともないどこかへの情景を掻き立て、いつか行ってみたいな、早く大人になりたいな、などと思ったものだ。

今思い返せば、ここではないどこか、への憧れが芽生えたのは、この頃だったのだと思う。



とはいえ毎朝目を覚ませば、電車も高速も走っていないし、テレビをつければセブンイレブンとかいう、都会にはあるらしいコンビニのCMが流れてくる。スタバもないしサイゼリヤもない。唯一の遊園地はこの間つぶれた。ああ、どうせないものばっかり。人口最小の県に生まれた私は、冴えない毎日にくすぶっていた。

いつかこの町から出ていくんだ。そんな想いは、日に日に増していくばかりだった。



高校3年生にもなると、進学校に在籍していた私は、周りのみんなとごく同じように大学進学を目指した。クラスの子達が東大や阪大を志すなか、私はとにかくセブンイレブンとかがある東京にどうしても行きたくて、なかでも目指すは頂点だろうと、音大の最高峰・東京藝大に一か八かで挑んで、見事に普通に落ちた。


その頃、実家の家業は破産寸前で、多大な負債を身内に負わされた両親には、娘を私大はおろか予備校にさえ行かせる余裕はなかった。国公立に落ちたら家の仕事を手伝いなさいと言った、父の言葉が頭をよぎる。


違う、ここじゃない。私の人生、こんなところで終わってたまるか。


4月、友人たちがこぞってどこかの大学や予備校での新しい日々を始める頃、私は近所のパチンコ屋さんでアルバイトを始めた。最低賃金630円の町で、時給1,000円の文字はかなりの神々しさである。大嫌いなタバコの煙にまみれて働かなければならないこととか、脚が太いのにミニスカを履かなければならない屈辱とか、四の五の言っている余裕は、私には微塵もなかった。


朝8時から夕方4時までほぼ毎日シフトに入っていたけれど、私立芸大に行くための目標200万円のハードルは高く、このままでは1年はおろか、2年以上かかってしまう。なんとかしなければと考えあぐねた結果、私は、夜の世界のドアを叩いた。


バブル時代さながら、しっかり肩パッドの入った白のセットアップの制服に着替えて、18歳で飛び込んだ水商売の世界。ぎこちない新人の私を、カウンター席の向こうに座った50歳くらいの髪の薄い客がじっと見つめ、「ねぇ、オナニーとかするの?」とたずねる。引きつりそうになる顔を必死の作り笑いでごまかしながら、グラスにウィスキーを注ぐ。笑い声の絶えない大人たちの夜の遊び場で、上手に小慣れた素振りをする自分は、私の知らない誰かだった。


その日の仕事終わり、更衣室で制服を脱ぎながら、私は泣いた。家路に急ぐ夜道、中島みゆきの「ファイト!」を小さく歌った。


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昼間はパチンコ屋のホールスタッフ、夜は会員制クラブのホステス。2足の草鞋を履き、きっちり貯めた200万円と合格通知を握りしめ、夜行バスに乗り込んだ私は19歳の春、夢にまでみた東京へやってきた。


念願の東京には、故郷の何百倍もの人がいた。あのスクランブル交差点に来てみたものの、人のかき分け方がまるでわからず、あきらめて引き返す。途中、スタバとか松屋とかずっと行ってみたかったお店があったけれど、自分から田舎者臭が盛大に漏れている気がして、入る勇気が出ない。

私は結局、セブンイレブンでおにぎりを買った。そして適当に目についた雑居ビルに入り、その女子トイレの個室で、そっと音を立てないようにおにぎりを頬張った。セブンイレブンのおにぎりは、ポプラとかセイコーマートのそれと、ちっとも変わりやしなかった。


上京したての日々は右も左も分からず、思い返せば妙な行動ばかりをとっていた。15両編成なんて見たことのない私は、なかなか止まらない山手線に通過されまいと、ホームの駅員さんに向かって挙手したり。カーテンも寝具もない新居でなぜかまずカーペットを買いにいき、それを丸めて寝袋にして寝たり。当時は大真面目にやっていたのだが、目に浮かべてみると実に異様な光景である。


ようやく学校が始まり友達ができる頃にはさすがに色々と学び、次第に堂々と行けるところも増え、この街でのルールや振る舞いを習得していった。


変わってるね、と言われがちだった私の人生で、日大藝術学部はおそらく、私が至極まともな人種であった場所だ。絶対に自分は何者かになる、という根拠のない凄まじい自信をまとった超絶変な人たちに囲まれた日々の中、私には自分の感性に頼り切るほどの勇気はないのだと悟り、割とさっくりと音楽家になる夢を諦めた。

ただ、3歳から音楽に懸けてきた私の人生に、音楽以外の何かという選択肢は用意できていなかった。音楽で誰かの心を動かす人になれないのならば。その音楽を届ける人、にはなれるはず。「そうだ レコード会社、行こう。」とある日突然ひらめき、2年生から就活を始め、6次まであった選考を勝ち抜き、ユニバーサルミュージックへ新卒入社した。


音楽業界で働いた5年間は、華やかで煌びやかな日々だった。

絶頂期のGReeeeNや少女時代から、大御所のドリカムや長渕剛まで、数多くのアーティストの宣伝を担当し一緒にお仕事をした。
今でこそコンプラが叫ばれる時代だが、仕事が終わらず会社の床で寝たり、明け方まで局員やディレクターと飲み会、みたいなことは割とよくあった。
精神的にも体力的にもキツかった部分はままあったけど、まさかの水商売で培った処世術と気遣いが大いに役立ち、これは天職だわと、慌ただしくも楽しい日々を送っていた。


このままバリバリのキャリアウーマンとして昇りつめるぞ、と意気込んでいた矢先の入社3年目。東日本大震災が、日本を襲った。


今までに経験したことのない、激しい横揺れ。止まらない揺れに、いつもと何かが違う、と最悪の事態が脳裏をよぎる。よりによってトイレにいた私は、あたふたとパンツを履く。数分後、2度目の揺れが来た時にようやく、一目散に外に出た。


電車は動いておらず、タクシーでなんとか新宿までたどり着くと、高層ビルから吐き出されたおびただしい数の人で溢れ返っていた。不安を顔に浮かべ茫然と立ち尽くす人々の群れは、まるで世紀末のようだ。
上司から電話があり、今日は家に帰れとの指示が入る。駅の方まで向かうも、当然電車は再開していない。タクシーはもう、捕まらなかった。


大変なことになってしまった、と得体の知れない恐怖が募る。自宅のある下北沢までは歩いて1時間だったけれど、体温が下がり足がすくんでうまく歩けない。結局朝まで帰宅困難者へと解放されていたビルに座り込み、翌朝動き出した始発で自宅に戻った。床は、本やCDで散乱していた。


誰かの町々が、跡形もなく消え去っていた。たくさんの命が失われ、多くの人が住む場所や家族、人生を失い、絶望に打ちのめされていた。日に日に明らかになる惨状を、翌週いつも通り出社となった会社のテレビ越しに、私はただ、呆然と見つめていた。

明日、予告もなく、人生が終わるかもしれないなんて。生きているということは、こんなにも脆く不確かなものなのだというその事実を、生まれて初めて、ゴクリと飲み込んだ。


会議始めるよ、の声にハッとして、いそいそと会議室へ向かう。配られた資料に目を通しながら、来週発売のドリカムの新曲、各局で何回かけてくるの?各自の目標は?という問いかけに、先輩たちから順に答えている。



私は一体、何をやっているんだろう。

失われた多くの人生のことなんて、まるで無かったことのように。私には必ず明日が来る、みたいな顔をして。


心にべっとりと貼りついた、違和感。その正体を自問自答しているうちに、私は「死ぬまでにやりたい100のこと」を書き出していた。英語を話せるようになる。草原で馬に乗る。会社を経営する。世界一周する。

このままここにいても、叶えられそうにないことばかりだった。


突きつけられた心の声に戸惑う私を、18歳の私が、真っ直ぐな瞳で見つめている。



私の居場所は、もうここではなかった。


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翌日には、お昼休憩に会社近くの銀行へ行き、自動積立定期預金を申し込んでいた。充分にもらっていた毎月の給料は、洋服やインテリアに外食にと消え、貯金はゼロ。それどころか、学生時代に借りて学費の足しにした学生ローンも残っていた。


1年後には、家賃10万30平米の部屋から、4万円の四畳一間へ引っ越した。大好きなインテリアや集めてきた写真集や詩集、それから電子ピアノもギターも、全て売ったり譲ったりした。


退職届を出したのは、2013年の暮れのこと。受験に失敗し、寝る間も惜しんで貯めたお金で上京し、暮らした東京での9年間。その築き上げてきた全てを、私は捨てた。


何が目的なのか、自分でもよくわからない。数えだせば不安なんて計り知れないけれど、それ以上に期待で胸は高鳴っていた。そうして年が明けた1月、私は片道航空券とバックパックひとつで、日本を後にした。


ここではない、どこか。きっとそのどこかに、何かが待っている。幼い頃、カレンダー越しに、ラジオ越しに思い描いてきたあの世界のどこかに、きっとまだ見ぬ何かが、私を待っている。


モンゴルでは遊牧民に会いにいき、一緒に草原を馬で駆けめぐった。スリランカの山奥で12日間瞑想をしたら体が溶け出し、オマーンでヒッチハイクをしたら娼婦と間違えられた。
そうそう、モルディブの海は。カレンダーの写真なんか比べものにならないほどに美しくって、朝から日が暮れるまで、海辺に座ってずっと眺めていた。日焼け止めを塗り忘れ、全身にやけどを負ったことなんか、それはもう霞むくらいに。ああ、小学生の私よ。地上の楽園は、本当に地球上にあったのだ。


出会った世界の美しさは、景色だけではない。訪れた45近くの国のあらゆる街角で、その日偶然出会った地元の人たちと仲良くなっては、ご馳走になったり家に泊めてもらったりした。言葉や習慣、思想も信条も何もかもが異なる私たち。それでも世界中どこを訪れても、いつだってそこには、他者によくありたいと願う、見知らぬ誰かの優しさがあった。思いやりは人の本質で、普遍的なものなのだというこの世界の秘密を、私はこっそり発見した。


街から街へ、国から国へ。新たなどこかを目指して旅をしていくうちに、気づけば2年、3年と経っていた。訪れる場所が増えるほど、以前のような新鮮さや興奮は薄れていき、次第に、自分がどこを目指しているのか、よくわからなくなっていた。


ある日、ドバイのショッピングモールをふらふらと歩いていたら、ウガンダの青年に出会った。怖くてためらっていたアフリカ行きだけど、こんなにフレンドリーな人たちがいるところなのか。

そうしていつも通り、その場のノリで次の行き先を東アフリカに決めルワンダに降り立ったのは、日本を発って、4年が経とうとしていた頃。

たまたま訪れたアートギャラリーで、一枚の絵が私の目を引く。絵の具に紛れて、何かが貼り付けられているようだ。これは、テキスタイル?と尋ねると、作者の青年が、「ここに行くといいよ」とメモをくれる。



そのマーケットに足を踏み入れた瞬間、膨大な数の、見たこともないカラフルな布に目を奪われる。
私を出迎えてくれたのは、キテンゲと呼ばれる、アフリカ伝統の生地たち。


目にも鮮やかな無数の色に、大胆な柄と色使い。どこを見渡しても一つとして同じものはない、唯一無二の布。マーケットに、上下左右所狭しと陳列されたその布たちを、私は食い入るように見渡す。ぽかんと開いた口の、口角が上がったまま下がらない。ああ、こんなにワクワクするのは、もういつ振りだろう。

その瞬間、何かが私の直感に触れた。



服を作るつもりも知識もさらさらなかった。お金を貯めようと戻ってきたオーストラリアで、毎日キテンゲを眺めているうちに、何かを作りたいという衝動が沸々と湧いてきた。そういえば手芸クラブだったしな小学生の頃、とあまり充てにならない経歴を頼みの綱に、まずはミシンを購入。試しにリバーシブルのバッグを作ってみたら、意外にもあっさりと大成功。もっと難しいものも作れるかもと、私は着なくなったジャンプスーツをほどき始めた。

そうやって、古着を解体しては服のパーツや仕組みを研究し、復元したり複製したりしているうちに、私はバックパックとミシンを手に、ケニアという国に舞い戻っていた。



来る日も来る日も、知り合いも全くいない国で、朝から晩まで作り続けた。最初はたくさん失敗もした。上下逆のまま縫っていた、裏のまま縫っていた、縫う順序を間違えて最初からやり直し、等々。その度に悔しくて泣いて、時に小さく叫んで地団駄踏んだりもした。

深夜まで縫って、倒れるように寝て、目が覚めたらまたミシンの前に舞い戻る。そんな毎日を半年ほど続けた2019年の5月、私は、アフリカ布キテンゲを使った一点モノのファッションブランド、ノマディック・アルティザンをオープンした。


はじめは当然、誰も買ってくれなかった。買ってくれるのは、心優しい日本の友人知人ばかり。ひと月数万の稼ぎでは家賃しか払えず、あきらめて日本に帰ろうと思った瞬間は、数えきれないほどある。


それでもしぶとくやり続けられたのは、服を作ることが、心の底から楽しかったからだ。思い描いたデザインを数字で裏付けて形にしてゆくという、言わばクリエイティブと理論で成り立つ世界線には、音楽という、感性の世界で生きていけなかった私の20年分の執念が、成仏してゆくかのような心地よさがあった。



あれから6年。未経験1人で始めた服作りも、今や職人7人を抱えるスタジオを運営し、首都のナイロビには直営店もオープン。とある海外の著名人が、うちのワンピースを着てレッドカーペットに登場した写真がバズり、一時注文は半年待ちの状態になったりもした。昨年にはカナダのバンクーバー・ファッション・ウィークに招待され、公式ランウェイショーでコレクションを発表した。


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ここではないどこか、を追い求めて。上京し、世界をめぐり、ケニアという国にたどり着いた。ずいぶんと遠くまで来たなぁとは思うけれど、私は結局、どこにもたどり着いていないのだと思う。なぜなら、私を待ち構えてくれているはずの素晴らしい場所、なんてものは、どこまで行っても存在しないからだ。


人は誰しも、きっと自分なりのどこかを目指し続けている。それは時に大学であり、就職であり、結婚でもあり。でもその全てが、ただのスタートラインにすぎない。


私の追い求めていたどこか、の正体は、自分が今この瞬間に居る場所を、ここだ、と言える自分のことだったのだと思う。心の声と直感を無視せずに、自分らしく生きていると胸を張って言える今日此処を、しっかりと生きられるような自分になることを、ずっと追いかけていたのだと。どこかは見つかるものではなく、成長しながら自ら作り上げていくものであり、そしてこれからも、耕し続けていくものだ。



あの日、取り壊されるダイエーに、せめてと自分の痕跡を残した少女は今、切なさの欠片を心に握りしめたまま、遠くアフリカのどこかで生きている。私の作った洋服が、誰かの笑顔の理由になれますように、と願いながら。時々ここがどこか、見失いそうになる日もあるけれど。そんな時は、自分の心と直感に、耳を澄まして。



今朝も珈琲を飲みながら、新しいデザインのパターンを描いている。今年は初めて日本とアメリカでのポップアップを計画しているし、また別の都市のファッションウィークにも出たいなとか、いつか昔一緒にお仕事をしたミュージシャンに衣装提供したいなとか、そんな空想に、ひとり黙々とふけながら。


そして私は今日も、ここではないどこかを追いかけている。



このエッセイは、創作大賞2025エッセイ部門で「双葉社文芸出版部賞」を受賞しました。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

12月より、双葉社総合文芸サイトCOLORFULにて、新連載がスタートとなります。ぜひ、お楽しみに。

▼受賞作の制作秘話から受賞連絡、授賞式、打ち合わせまでの全記録をまとめた、レポート兼エッセイはこちらから


▼双葉社WEBで連載がスタートしました


▼受賞作制作前夜のお話

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