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【聖なる経済学】 回帰の法則②

訳者コメント:
 今回は「回帰の法則」の全体像としてエントロピーの話が出てきます。エントロピーは熱力学と情報科学の分野で使われる言葉ですが、環境の文脈では熱力学に物質循環の考えを含めた形で議論が展開します。ここで、ちょっと長いですが、その導入をしておきます。
 地球に降り注いだ太陽光は、光合成で植物の体を作ります。それを動物が食べる。植物は生産者で、動物は消費者。このような直線的な捉え方だと、動物の糞や死骸という廃棄物で、地球が満杯になってしまうはずですが、実際にはそうなりません。枯れた植物や動物の糞や死骸を微生物が分解する。すると反応熱として熱が出る。これは酸化反応であり、ゆっくり燃えているのと同じです。したがって堆肥の山は暖かく、湯気が立ち上ります。生命が活動するところには常に水があります。微生物が出した熱を気化熱として吸収した水が水蒸気として立ちのぼります。水蒸気はH2Oの水分子ですが、重い酸素原子1個と軽い水素原子2個が結合しています。一方、空気を構成するのは窒素(N2)と酸素(O2)で、これらは重い原子が2個結合したものです。この空気の中で水蒸気は軽いので、浮力で大気上層に上っていきます。大気の温度は気圧が下がるほど下がっていくので、どこかで露点を下回って液体の水滴に戻り、雲を作ります。このとき気化熱と全く同じ量の凝縮熱が赤外線として放出されます。雲より温度の高い地表と、もっと上にある漆黒の宇宙と、赤外線はどちらに向かうでしょうか。宇宙空間は絶対温度で4度、摂氏にするとマイナス約270℃という冷たい世界なので、赤外線は宇宙に逃げていきます。こうして熱を捨てた水は雨となって地表に降り注ぎ、水循環が一巡します。
 太陽光は低エントロピーの熱、赤外線は高エントロピーの熱です。エントロピーとは、比喩的に言うなら「劣化の度合い」のことです。熱力学的には、移動する熱を絶対温度で割ったもの(Q/T)です。温度が分母にあるので、同じ熱量(カロリー)でも温度が低いほどエントロピーは高くなります。熱機関(エンジン)は、燃える炎として高い温度(低いエントロピー)の熱が供給され、廃熱として低い温度(高いエントロピー)の熱が出ていきます。このエントロピーの落差があるので、供給された熱の一部を仕事(運動)として取り出すことができます。運動エネルギーはエントロピーのない純化されたエネルギーです。エントロピーは廃熱の中に排出されたのです。ですから廃熱がもったいないからといって、廃熱を全く出さないエンジンというのは存在できません。それは糞詰まりの生物と同じです。
 地球は、6000℃の太陽が放った電磁放射(光)が、マイナス270℃の宇宙空間に落ちていくエネルギーの滝にかかった水車のようなもので、このエネルギーの流れによって地球の生命が動かされています。
 エントロピーのもう一つの捉え方は「無秩序さ」「汚れ」です。生命体の秩序を保つためには、絶えず発生する汚れを体外に排出しなければなりません。私たちは使い物にならなくなった高エントロピーの物質を、糞尿や吐く息という形で体外に排出します。しかし糞尿は他の生物の食糧となります。吐いた息の二酸化炭素、最高エントロピーの物質でさえ、植物の糧となりますが、それを支えているのは太陽エネルギーです。植物はCO2に太陽エネルギーをチャージして炭水化物を作ることができるので、再び生命にとって利用価値のある物質を産み出せるのです。生命システムでは、物質はそうやって循環し、一切の廃物を残しませんが、最終的に生命活動から出るエントロピーは全て熱に変換され、それを水が持ち去って宇宙に捨てています。
 人間活動が作り出す廃棄物の中には、他の生物が利用できない産業廃棄物や放射性廃棄物があります。地球には重力があるので、重力に逆らって物質的なエントロピー(汚れ、廃棄物)を宇宙に捨てることはできません。


①から続く

現在の排出量取引制度の提案にはかなりの論争があり、私は全体的に見て批判の側に賛成です。本当に効果的な排出枠制度があるとすれば、オフセットも無償のクレジットも既得権条項もない入札制度で、それを守らない国には厳しい制裁を課すべきです。それでも残る問題は、価格変動、投機的な派生取引、汚職などです。どのように執行するかは特に重大な問題です。排出量取引制度は執行が緩い地域の製造業者に大きな利益をもたらし、現在の規制体制よりも汚染の総量が多くなる可能性があるからです[5]。もう一つの問題は、排出量取引制度では、個人の努力で汚染を削減したところで、他の人が使用できる資源や排出枠が増えるだけなので、個人の無力感につながることです。

排出量取引制度の問題点が示す別の方法は、汚染に対する直接課税です。これはコストの内部化を促すもう一つの方法であり、社会・環境コストの定量化と是正がしやすい状況において特に有効でしょう。排出量取引制度と同じように、国際的な執行は大きな問題です。課税を拒否したり、徴収が非効率的な国では、製造業の収益性が高まるからです。また、目標とする排出量上限を達成するためには、頻繁な税率調整が必要になるかもしれません。

新たな税に抵抗を感じる読者の皆さんに考えていただきたいのは、私が説明した排出量取引制度と環境税という2つの仕組みは、実際には社会に対する新たな課税ではないということです。いずれにせよ環境破壊のコストは誰かが負担することになります。現在の制度では、この「誰か」は無関係な傍観者か、将来の世代です。これらの提案は、単にこうしたコストを、環境破壊を引き起こし、そこから利益を得ている人々に転嫁するだけなのです。

どのような方法で実現するにせよ、汚染コストが内部化されれば、最良の経営判断と最良の環境判断が一致するようになります。例えば、あなたが発明家で、生産性を落とすことなく工場の汚染を90%削減できる素晴らしいアイデアを思いついたとしましょう。現状では、その工場は汚染コストを負担していないため、あなたのアイデアを実行する動機がありません。しかし、汚染コストが内部化されたなら、あなたの発明はたちまち多くの引き合いを受けることでしょう。コストの内部化によって、全く新しい経済的動機が生まれます。経済的に見合わなくても汚染を削減したいという私たちの善意は、もうお金の圧力と戦う必要がなくなるのです。

排出量取引制度と汚染税の他にも、コストを貨幣そのものの構造に内部化することができます。それは意図的な貨幣であって、地球への畏敬の念と、人類が地球上で果たす役割と目的についての新たな認識を具体化します。この貨幣は、コストの内部化と第4章で述べた財産の重大な不正義の是正を結びつけ、共有財産を人々に返しつつ、起業家精神を自由に発揮できるようにします。これが実現するのは第9章の原則、つまり私たちにとって神聖となったものによって裏付けることで貨幣を神聖なものにするという原則です。その中には、環境税などが保護しようとしているのと全く同じものもあります。排出量取引制度や通貨発行などの詳細から技術官僚的な印象を受けるかもしれませんが、その根底にある衝動は、次の章で詳しく説明するように、貨幣を私たちが神聖と見なすものに一致させることです。

ただし、その前に一つ注意を喚起しておきたいと思います。コストの内部化には危険な前提があって、他の生物への被害は数値化可能であり、金銭的な価値を付けられるというものです。例えば、ミシシッピ川に10億ドルの価値を付けるということは、もしその川を汚染して死に至らしめることで20億ドルを稼げるなら、そうすべきだということになるのです。なぜなら、結局のところ、その川は汚染されていない状態で10億ドルの「価値」しかないからです。生態系サービスに金銭的価値を付けることで、私たちはその価値を金額で認識できる範囲にまで縮小してしまいます。だからこそ、地球を守るために経済学を頼ることはできないのです。殺人、強姦、誘拐を防ぐために金銭的動機では不十分だということを私たちが知っているのと同じように、自然を破壊することに対しても、他の形の社会・政治的制裁を課すべきです。道徳を金銭に落とし込むなら、恐ろしい結果が待っているのです。

私たちは地球との関係を根本的に変える道を歩み始めています。「上昇」の時代は、人間の領域を拡張し野生を征服する物語の時代であり、人類の幼年期だったのですが、そのとき世界には私たちの成長を受け入れる無限の空間があるように見え、どれだけの魚を捕獲するか、どれだけの木を伐採するか、どれだけの鉱石を掘り出すか、あるいは大気の廃棄物吸収能力をどれだけ利用するかについて、集団的な合意は必要ありませんでした。今日、人間と自然界との関係が変わりつつあるのは、環境の限界を無視できなくなったからです。漁業資源、森林、きれいな水、きれいな空気は、明らかに枯渇寸前です。私たちが手にしたのは地球を破壊する力、あるいは少なくとも地球に深刻な損害を与える力です。地球は人間から傷つきやすく、それは恋人どうしが互いに傷つきやすいのと同じです。その意味で、もはや地球を単に「母なる地球」と考えるのは適切ではありません。子供が自分の欲求を満たすために、母親の限界を考えることはありません。でも恋人同士の場合は違います。だからこそ、私の予見する未来では、局地的、地域的、地球規模で、様々な資源の利用に関して上限が設けられるのです。漁獲量、地下水利用、炭素排出量、木材伐採量、表土の消耗など、多くの資源が注意深く監視され、持続可能なレベルに維持されるでしょう。これらの資源、きれいな水、きれいな空気、鉱物、生物などは、私たちにとって神聖なものとなり、あまりにも神聖なので、私たちはそれらを「資源」とは呼ばなくなるでしょう。それは、私たち自身の生命に不可欠な臓器を資源と呼んだり、だめになるまで使い倒そうと夢想したりしないのと同じです。

実は、自分の生命維持器官を私たちは消耗させているのです。それも地球の生命維持器官を枯渇させるのと似たような目的で。つながり合う自己という理解からすれば当然のことですが、私たちが地球に対して行うことは、私たち自身に対しても行っているのです。類似点は多岐にわたるので、簡潔にするため一つだけ挙げます。それは、地球に蓄えられた化石燃料の枯渇と、化学的・心理的刺激による副腎の枯渇との類似点です。伝統的な中国医学では、副腎は腎臓系の一部であって、生命力である「気」の源泉であり、獲得した「気」を継続的に供給する入り口でもあると考えられています。私たちが人生の目的に調和しているとき、この生命力の入り口は大きく開き、私たちに絶え間ないエネルギーを与えてくれます。しかし、この調和が崩れると、私たちは副腎を通して生命力を無理やり送り込むために、ますます過激な方法(コーヒー、モチベーションを高めるテクニック、脅迫など)を用いなければならなくなります。同じように、化石燃料を入手するために用いる技術も、水圧破砕法(フラッキング)、山頂の掘り崩し、タールサンド採掘など、ますます暴力的なものになっていますが、私たちがこれらの燃料を使う目的は、無益で破壊的なものになっていて、地球上の人類の目的とは明らかに不調和です。個人的なものと地球規模のものは互いを鏡のように映し出します。このつながりは単なる比喩以上のものです。コーヒーや外部からの動機づけ(例えばお金)によって無理やりやらされているような仕事は、まさに地球の破壊に加担するような種類の仕事なのです。私たちは本当は自分の体にそんなことをしたくありませんし、世界にもそんなことをしたくないのです。

私たちは地球との関係において、ただ受け取るだけでなく、与える側になりたいと願います。そのことを念頭に、私は「回帰の法則」と「与えることと受け取ることの宇宙的な一体性」のもう一つの側面について触れたいと思います。自然界には「回帰の法則」に明白な例外があるように見えるかもしれません。生態系がリサイクルしないもの、常に新たに流入し、常に廃物として排出されるものがあるのです。それはエネルギーです。太陽から放射されるエネルギーは植物に取り込まれ、食物連鎖に沿って次々と形を変え、逆戻りすることなく最終目的地である「廃熱」へと向かいます。遅かれ早かれ、太陽から受け取った低エントロピーの電磁放射はすべて、高エントロピーの熱として地球から再び宇宙へと放射されます[6]。

古代の人々が太陽を崇拝していたことに、私は驚きません。太陽は、見返りを期待せず、ましてや見返りの可能性さえ無いのに与えてくれるという、私たちが知る唯一の存在だからです。太陽は、まさに寛大さの権化ごんげです。太陽は生命の王国全体にエネルギーを供給するだけでなく、化石燃料、太陽光、風力、水力といった形で、テクノロジーの世界にもエネルギーを供給できます。この事実上無限とも言える自由フリーエネルギー源に驚嘆する時、純粋で、ほとんど子供じみた感謝の念に、私は近付くことができるのです。それを古代の太陽崇拝者たちも感じていたに違いありません。

しかし話はそこで終わりません。精神的な伝統には、私たちも太陽に恩返しをしているという考え方があります。つまり、私たちの感謝を通じてのみ太陽は輝き続けるのです[7]。古代の太陽の儀式は、太陽に感謝するだけでなく、太陽が輝き続けるようにするためのものでした。太陽のエ​​ネルギーとは、地上の愛の光が反射して、私たちに返ってくるものなのです。ここでも、贈り物ギフトの循環が働いています。私たちは太陽からも切り離されていないのです。だからこそ、おそらく私たちは時折、自分の中から内なる太陽が輝くのを感じ、その寛大で温かい光で他の人すべてを照らすことができるのです。


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注:
5. 規制の執行が緩い国の汚染企業は、執行がしっかりしている国の汚染企業に排出枠を売却することができ、後者は低コストで汚染を行い、前者は総排出量の上限を超えて汚染を行うことができてしまいます。
6. 「遅かれ」とは、例えば私たちが石炭を燃やすようになる何億年後のことかもしれません。
7. 興味深いことに、恩知らずの時代が過去40年でピークに達したのと同時に、太陽の放射は明らかに変化し、太陽圏の強度は著しく低下しました。私の気のせいかもしれませんが、子供の頃は太陽がもっと黄色かったように記憶しています。そして2008年頃から、太陽黒点活動は前例のない極小期になり、超極小期グランド・ミニマムだと見る科学者もいます。ひょっとして、寛大さの象徴である太陽が、地球上の金融危機を反映した激動期に入りつつあるのでしょうか。結局のところ、金融危機は与えることと受け取ることの危機なのです。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-10-the-law-of-return/


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