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【聖なる経済学】 所有の衝動

訳者コメント:
所有というのは「自分は他者とは別であり、自分は自分のものである」という概念から発しています。世界から概念的に切り離されているので、自己は敵対的な他者の世界に小さく囲まれた領域に過ぎないものとなります。この孤独感と不安から、人は自分の領域に囲まれた「所有物」を増大させたいという衝動を持つようになるのです。


第4章:財産という問題

もし天国に最初に到達した者たちが、地上の地表を分割するように、天の地表に私有財産制度を設け、それを絶対的な所有権に基づいて自分たちの間で分割したら、天国では一体どのような結果になるだろうか?
 (ヘンリー・ジョージ)

人間が地球を創造したわけではない。人間には地球を占有する自然権はあったものの、地球のいかなる部分も永久に自分の財産として確保する権利はなかった。また、地球の創造主が土地登記所を開設し、最初の所有権証書を発行したわけでもない。
 (トーマス・ペイン)


所有の衝動

私たちは分断の時代を生きてきました。コミュニティ、自然、そして場所との繋がりが一つずつ消えていき、私たちは余所よそしい世界に取り残されてしまいました。これらの繋がりを失うことは、単に富の低下にとどまらず、私たちの存在そのものの低下を意味します。コミュニティや自然から切り離されたことで感じる貧困は、私たちの魂の貧困なのです。なぜなら、経済学や生物学、政治哲学、心理学、組織宗教の前提とは異なり、私たちはばらばらの存在が単に関係を持っているのではないからです。私たちは関係性そのものです。

かつてマルティン・プレヒテルがグアテマラの村について語るのを聞いたことがあります。「私の村では、病気の子供を連れて呪術医のところへ行ったとしても、『私は健康だが、子供が病気だ』とは決して言わない。『家族が病気だ』と言うだろう。あるいはそれが隣人であれば、『村が病気だ』と言うかもしれない。」確かに、そのような社会では、「私は健康だが、森が病気だ」と言うことは、同じく考えられないことでしょう。家族や村、あるいは土地、水、地球全体が健康でないのに、自分だけが健康だと考えるのは、「私は命に関わる肝臓病を患っているが、それは肝臓だけのことで、私は健康だ」と言うのと同じくらいばかげています。私の自己認識に肝臓が含まれているように、彼らの自己認識にも社会や自然との共同体が含まれていたのです。

対照的に現代の自己は、他者である宇宙における個別ばらばらの主体です。この自己は、アダム・スミスのいう経済人であり、宗教のいう肉体を持った魂であり、生物学のいう利己的な遺伝子です。その基礎の上にあるのは現代に折り重なる数々の危機であり、その全ての変奏曲に共通する主題は分断、つまり自然、共同体、そして失われた自分自身の一部からの分断です。その基礎の上にあるのは、生態系と政治の絶え間ない破壊の原因として非難される、人間の強欲や資本主義といった、ありがちな犯人のすべてです。私たちの自己意識が必然的に伴うのは、「私の分が増えれば、あなたの分は減る」という考え方です。このため、私たちはまさにその原理を体現した利子に基づく貨幣制度を持っています。もっと古い、贈与ギフトに基づく社会では、その反対が真実でした。

所有の衝動は、疎外を招くイデオロギーへの自然な反応として増大します。そのイデオロギーが、感覚的な繋がりを断ち切り、私たちを宇宙で一人ぼっちにするのです。世界を自己から締め出すと、残された小さく孤独な自己像は、失われた存在を可能な限り多く我が物にしようとする貪欲な欲求を持つようになります。もし世界全体、生命や地球の全体が、もはや私ではないのなら、少なくともそれを我が物にすることで埋め合わせることはできます。他の別々の自己も同じことをするので、私たちは競争とどこにでもある不安の世界に生きることになります。それは私たちの自己定義に組み込まれています。これは存在の欠如、魂の欠如であり、その世界に私たちは生まれるのです。

我と我が物という論理に囚われた私たちは、失われた富のほんの一部を取り戻そうと、分離した自己とその延長であるお金や財産を、拡大し守ろうとします。自己を肥大化させる経済的手段を持たない人々は、代わりに自己の肉体を肥大化させることが多く、これは肥満が貧困層に偏って蔓延する理由の一つです。買い物、お金、そして獲得への依存は、食物への依存と同じ根本的な原因から生じます。どちらも孤独、つまり本来の自分から切り離されてただ存在しているだけという痛みから来るのです。

露天掘り鉱山、森林皆伐地、死滅海域、大量虐殺、そして堕落した消費文化を目の当たりにして、私たちは問いかけます。美を食い尽くし、お金を吐き出すこの怪物のような機械は、いったいどこから始まったものなのでしょうか。 個別ばらばらの自己は、根本的に他者である宇宙を観察しながら、当然のように自然界と人間界を、有用だが偶然そこにあるだけの「モノ」の山として扱います。自分以外の世界は、根本的に非自己です[1]。なぜ、私たちにとって期待できる有用性を超えて、それを大切にする必要があるでしょうか。こうして、近代的な自己意識の先駆的な提唱者であるデカルトは、自然の「支配者であり所有者」となる野望をも表明しました。この所有者という言葉が示唆するように、財産という概念は、切り離された自己にきわめて自然に生じるものです。

私たちの硬直的で狭い自他の区別は、その前提の犠牲となって終焉を迎えようとしています。神秘主義者たちが教えてきたように、切り離された自己は一時的にしか維持できず、しかも多大な代償を伴います。私たちは長い間それを維持し続け、自然と人間の本性を征服しようとする文明をその上に築いてきました。現在へと折り重なる危機によって、その目標の無益さが露わになりました。それが予兆するのは、私たちの知る文明が終わるとともに、人間存在の状態が回復されることで、その特徴となるのは融通無碍ゆうずうむげで包摂的な自己意識です。

財産の起源についての一つの説は、共同体的な部族社会の過去からゆっくりと出現した自律性、すなわち自己主権の概念と結びつけます。チャールズ・アビラはこの論理を次のように説明しています。「もし私が私自身のものであり、私の労働力が私のものであるならば、私が作ったものは私のものである。[2]」つまり、あらゆる財産の概念がイデオロギーの前提とする条件は「私は私自身のものだ」ということですが、これは人間社会において決して普遍的な原則ではありません。他の社会では、氏族、部族、村、あるいは生命全体の共同体が、個人の自己観念よりも優先される場合があり、その場合、あなたの労働力はあなたのものではなく、より大きな何かに属するのです[3]。したがって財産の制度は、私たちの現在の病の根源ではなく、私たちの断絶と孤立の症状なのです。したがって、本書は財産を廃止しようとするものではありません(廃止すれば原因ではなく症状に対処することになるからです)が、人間存在のより大きな変革の一環として、財産を変革することを目的としています。

他の思想家、特にヴィルヘルム・ライヒとジュヌヴィエーヴ・ヴォーンは、財産の起源を男性優位と家父長制社会の出現と結びつけています[4]。これらの議論には一理あると思いますが、それ自体で論文が書けるようなテーマなので、ここでは金銭と財産の性的側面については探求しないことにしました。分断の時代のあらゆる制度は互いに結びついていて、自然や身体、聖なる女性性からの疎外は、財産が物を切り離し可能な商業の対象とするとき、それが暗示する世界からの疎外と共鳴しているのです。

繋がりや感謝の気持ちが深まるにつれ、所有の衝動は薄れていきます。そして、自分の労働力は自分のものではなく、自分が作ったものも厳密には自分のものではないと気づきます。私の働く能力、そして私の人生そのものも、贈り物ギフトではないでしょうか。そう気づいた時、私たちは自分が創り出した物を、私たちの存在を可能にし、命という贈り物を与えてくれたすべてのものたちに、捧げたいと願うようになるのです。

哲学者の中には、感謝の念から生まれるこの欲求を義務へと変え、国家による個人労働の収奪を正当化する根拠とする者もいます。私たちは「社会への負債」を背負っているのであり、国家は債権回収者となります。より穏健な形では所得税を正当化しますが、これもまた個人労働の収奪です。どちらの場合も、私たちは与えることを強制されるのです。ではその反対に、私たちが本来持っている与えたいという衝動を解放し、称賛し、報いる経済制度を構築することはできないでしょうか。本書が論じるのはまさにそのことです。蓄積ではなく流れを、所有ではなく創造を、持つことではなく与えることを報いる制度です。


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注:
1. 上の如く、下もまた然り。自然を敵対者、あるいはせいぜい「資源」の山とみなしてきた私たちが、体内でも同じ関係性を築いてしまうのは当然のことです。現代を特徴づける病気は自己免疫疾患であり、自他の混乱が身体化したものです。村、森、そして地球が、私たち自身と切り離せない一部なのに、他者だと誤解しているのと同様に、私たちの免疫系が自身の体組織を拒絶するのです。私たちが自然に対して行うことは、私たち自身に対しても行われるのは、必然的なのです。
2. アビラ、『所有権』p. 5。
3. 今日でも、私たちは自分の労働が実際には自分のものではないというスピリチュアルな感覚を持っています。それは、自分自身よりも大きな何かのために働きたいという願望、つまり、理性的な自己利益を超えた大義のために労働を捧げたいという願望に表れています。宗教的な人々はそれを「神に人生を捧げる」と表現するかもしれません。別の言い方をすれば、私たちは自分の労働とその成果、そしてそれを支えるあらゆる技能や才能を贈り物として捧げる必要があるということです。そうすることで、私たちはこの地上での自分の目的を果たしているという認識の中で、満ち足りた、穏やかな気持ちになります。私たちは直感的に、自分の才能はお返しに与えるべきものであり、切り離された自己のうたかたの拡大のために蓄えるべきではないことを知っています。
4. 例えば、ヴィルヘルム・ライヒの『セックス政治』やジュヌヴィエーヴ・ヴォーンの「女性原理としての贈与対家父長制資本主義」を参照。


原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-4-the-trouble-with-property/

翻訳ノート:
alien:異星人や外国人という意味がカタカナ語として広まっていますが、「見知らぬ」という意味が中心にあります。we live in an alien world といった場合、世界自体はいつも見ているわけですから「見知らぬ世界に住んでいる」と訳すわけにはいかず、疎外されていて居心地が悪く、余所余所しく感じているという意味をくみ取るべきでしょう。


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