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【聖なる経済学】 回帰の法則①

訳者コメント:
昭和の昔は、ガラス瓶入りの飲料は数多くありました。牛乳、乳酸菌飲料、ビール、日本酒、清涼飲料、他にも醤油や酢などの調味料。多くはリターナブル瓶としてデポジットが掛けられ、空き瓶を店に持っていけば5円が戻ってきました。今ではリターナブル瓶がほとんど残っていませんが、その理由は、重いので輸送コストがかかり、再使用のための洗浄のコストがかかる、というものです。ペットボトルを「リサイクル」するといっても、ぬいぐるみ中綿のような繊維材料になるだけで、ペットボトルの消費量は減りません。これは使い捨てではないにしても、カスケード利用(順次利用)と言うべきです。紙パックやペットボトルの製造・廃棄費用の方が安く上がるというのは、まだ隠れたコスト、つまり外部性が隠れているからです。中東からのナフサ供給が止められるとペットボトルの安値は維持できなくなるでしょう。イラン戦争が終結したとしても、アメリカは戦後復興の財源を日本に要求してくるでしょうから、そういった石油調達のための戦争コストが顕在化し、石油製品に乗っかってくるのです。
 また、テクノロジーの改良によって資源を効率的に使うという工夫を、日本は1970年代の石油ショック以来ずっと続けてきましたが、それでも経済が成長したのは、資源消費が右肩上がりで増加したからでした。ハイブリッド車で燃費が良くなったおかげで、もっと大きな車への乗り換えを促し、大型ミニバンやSUVを正当化しただけでした。これを、ジェボンズのパラドックスといいます。


第10章:回帰の法則


社会主義は経済の真実を語れなかったために失敗した。資本主義は生態学の真実を語れなかったために失敗するかもしれない。―レスター・ブラウン

一つ確かなことは、資源を直線的に廃棄物へと変換していくことが、有限な地球上では持続不可能だということです。さらに持続不可能なのは、資源利用、資金、人口のどれでも、指数関数的な増加を続けることです。

それは持続不可能であるだけでなく、不自然でもあります。生態系には、他の生物種が利用できない廃棄物を生み出す種は存在しません。ですから「廃棄物は食料である」という格言があるのです。ダイオキシン、PCB、放射性廃棄物など、他の生物にとって有害な物質を、これほど大量に生み出す種は他に存在しません。私たちの直線的・指数関数的な成長経済は、回帰の法則、つまり資源の循環という自然の法則に明らかに違反しています。

神聖な経済は生態系の延長であり、そのすべての規則、中でも回帰の法則に従います。特に、工業プロセスや他の人間活動によって生産されたすべての物質が、他の人間活動で使用されるか、最終的には他の生物が処理できる形と速度で生態系に戻されることを意味します[1]。つまり、産業廃棄物というものは存在しません。すべてがその源へと循環します。自然界の他の部分と同じように、私たちの廃棄物は他の生物の食料となるのです。

回帰の法則に従うことで、贈与ギフトの精神を尊重することになるのは、私たちは与えられたものを受け取り、その贈り物ギフトから今度は私たちが与えるからです。贈り物は受け継がれるべきものです。贈り物をしばらく手元に置いてから次の人に渡すか、あるいは贈り物を使い、消化し、取り込み、形を変えて次の人に渡すかです。これが神聖な責任であることは、有神論的な観点からも無神論的な観点からも明らかです。

有神論的な観点から、私たちが与えられたこの世界の源について考えてみましょう。一部の福音派の人々が私に言ったように、「結局のところ、自然は神が私たちに与えてくれたものだから、破壊的に利用しても構わない」と言うのは、大きな誤りです。贈り物ギフトを無駄にしたり、不適切に利用したりすることは、贈り物の価値を下げ、贈り主を侮辱することになります。誰かにプレゼントを贈ったのに、目の前でそれを捨てられたら、あなたは屈辱や落胆を感じるでしょう。そして、間違いなくその人にはもう贈り物をしなくなるでしょう。本当に神を信じる人なら、創造物にそのような扱いをすることは決してなく、生命、地球、そして地球上のあらゆるものを可能な限り美しく活用することでしょう。つまり、私たちはそれをまぎれもない神からの贈り物ギフトとして扱うということです。感謝の気持ちを込めて、私たちはそれをく活用した後、それをお返しするのです。これが、私が廃棄物ゼロ経済を神聖なものと呼ぶ神学的な理由です。

無神論的な観点から見ると、廃棄物ゼロ経済とは、あらゆる存在の相互関連性を経済的に実現したものです。それは「私が他者にするように、自分自身にもそうする」という真理を具体化します。私たちが一体性を認識するにつれて、自らの贈り物ギフトを次へと手渡し、危害を加えず、自分を愛するように他者を愛することを願うようになるのです。

非常に実際的なレベルで言えば、この神聖な経済というビジョンには、経済学者が「外部性」と呼ぶものを無くすることが必要です。外部化されたコストとは、他者が負担する生産コストのことです。例えば、カリフォルニア州セントラルバレー産の野菜がペンシルベニア州で地元の農産物よりも安く買える理由の一つは、その価格にすべての生産コストが反映されていないからです。地下水の枯渇、農薬による汚染、土壌の塩類集積、その他このような農法の影響が招く現在および将来のコストを、生産者が負担する義務はないので、これらのコストはレタス1玉の価格に反映されません。さらに、大陸を横断して農産物をトラック輸送するコストにも大幅に補助が入っています。給油1回の燃料価格には、燃料が引き起こす汚染のコストも、燃料確保のために戦われた戦争のコストも、原油流出のコストも含まれていません。輸送コストには高速道路の建設と維持費が反映されていません。もしこれらのコストすべてがレタス1玉に反映されていたら、カリフォルニア産レタスの値段はペンシルベニア州では法外に高くつくでしょう。私たちが遠く離れた場所から買うのは、非常に特別なものだけになるでしょう。

今日、多くの産業が運営できているのは、コストが外部化されているからに他なりません。例えば、石油流出や原子力発電所のメルトダウンに対する賠償責任の上限が法律で定められているため、社会への最終的な影響はマイナスであっても、海洋掘削や原子力発電は事業者にとって利益を生むのです。BP〔イギリス石油会社〕が破産しようとも、メキシコ湾での流出事故のコストを全額支払うことは不可能であり、また支払うつもりもありません。シェルがニジェール川デルタ地帯での原油流出のコストを払える見込みはありません。社会と将来世代が費用を負担することになり、事実上、公共の富をその企業の投資家へと移転します[2]。壊滅的な損失を引き起こす可能性がある産業は、富を公共から民間へ、多数から少数へと本質的に移転しているのです。これらの産業は無料の保険で運営されています。彼らが利益を得て、私たちがリスクを負います。金融業界も同じで、最大手の事業者が大きなリスクを取れるのは、失敗しても救済されると知っているからです。コストの外部化によって、深海石油掘削や原子力発電など、実際には非経済的なものが経済的に成り立つようになります。

外部性の排除によって、「収入は私が、費用は他の誰かが負担する」という今まで通りの事業計画を阻止できます。私が畑に窒素肥料を施し、富栄養化のコストを下流のエビ漁師が負担します。私が石炭を燃やして発電し、水銀排出による医療費と酸性雨による環境コストを社会が負担します。これらの戦略はすべて、私が既に述べた主題のバリエーションで、それはつまり共有資源の金銭化なのです。地球が様々な廃棄物を吸収する能力は、共有資源の一つの形であって、土壌、海、帯水層の豊かさと同じです。社会の集団的な余暇時間もまた共有財とみなすことができますが、汚染者が引き起こした面倒の後始末を他の皆でするなら、その共有財を枯渇させます。

「収入は私がもらい、費用は誰かに払わせる」という考え方は、切り離された自己という考え方を反映していて、そこではあなたの幸福と私の幸福は根本的に分離されているのです。あなたに何が起ころうと、私には関係ない。あなたが貧しくなろうと、病気になろうと、刑務所に入ろうと、私には関係ない。私が外の世界に満ちた社会的・環境的な毒から十分に身を守れてさえいればいい。メキシコ湾が油膜で死につつあるとしても、私には関係ない。私はただ別の場所に住めばいい。太平洋上を千マイルに及ぶプラスチックの大渦巻が広がっていても、私には関係ない。〈分断〉の観点から見たら、問題ではないのです。原理の上では、私たちは自分の行動の影響から身を守ることができます。コストを外部化することで利益を得るのは、まさにその考え方のかなめです。しかし、つながり合う自己、他の人々や地球とつながっている自己という観点から見たら、あなたの幸福は私の幸福から切り離すことはできません。あなたと私は根本的に別々ではないからです。あらゆるコストを内部化するということは、まさに相互共存インタービーイングの原則、「他者に対して行うことは、自分自身に対しても行うことになる」という原則を、経済的に具体化したものに他なりません。

コストの内部化は贈与ギフト文化の認識も反映しています。贈与ギフトの輪の中では、あなたの幸運は私の幸運であり、あなたの損失は私の損失です。なぜなら、それに応じてあなたが与えるものが増減するからです。この世界観からすれば、社会や自然への損害を損益計算に含めるのは常識的なことです。私があなたからの贈り物ギフトに依存しているなら、あなたを貧しくしてまで私を豊かにするのは理屈に合いません。このような世界で最良の経営判断とは、あらゆる存在を、つまり社会と地球を豊かにするものです。神聖な経済はこの原則を具体化し、利益を公共の福祉に一致させるべきなのです。

この原則を理解した先見の明のある実業家の中には、「トリプルボトムライン〔企業活動を経済・環境・社会の3つの側面から評価する持続可能性の会計枠組み〕」や「フルコスト会計〔全部原価計算〕」といった概念を通して、自主的にそれを実現しようと試みた者もいます。彼らの考えは、自社の利益だけでなく、people地球planet利益profitという3つの損益指標の総和を最大化するように行動するというものです。問題は、こうした企業が、正反対のことをする企業、コストを人や地球に転嫁する企業と競争しなければならないことです。トリプルボトムラインとフルコスト会計は、経済的利益だけでなく、より多くの要素を含んでいるため、公共政策を評価する方法としては有用ですが、民間企業となると、最初の2つのPは3つ目のPと対立することが多いのです。私が漁師で、持続可能な漁法ぎょほうを試みているとしましょう。100マイルもの長さの網を使う産業用トロール船と競争しなければならないとしたら、私のコストは高くつき、競争に勝てなくなるでしょう。だからこそ、コストの内部化を強制し、トリプルボトムラインを3つすべてを含む単一の損益指標に統合する何らかの手段が必要なのです。人々が「理解してくれる」ことをただ期待するだけではいけません。自己利益と万人の利益を一致させる制度を構築しなければならないのです。

外部化されたコスト(および外部化された便益)を収支計算に含める一つの方法は、キャップ・アンド・トレード制度〔排出量取引制度〕などの取引可能な排出枠の制度を利用することです[3]。こうした制度の結果は実際には様々です(二酸化硫黄の排出上限は比較的成功している一方、EUの炭素クレジットは失敗に終わっています)が、どれだけあれば十分かという集団的な合意の実行を、原則としては可能にします。「十分」がどれだけかは、地球や生物圏がその物質を同化する能力によります。二酸化硫黄については、酸性雨を抑制するためにヨーロッパとアメリカでそれぞれ異なる排出上限が設けられるかもしれません。ロサンゼルスには独自のオゾンや窒素酸化物の排出上限が設けられるかもしれません。地球全体では、二酸化炭素とフロンガスについて単一の排出上限が設定されるかもしれません。総量の排出上限を守らせることでジェボンズのパラドックスを回避できますが、これは効率の向上が必ずしも消費量の減少につながらず、価格の低下や資本の解放によって消費量の増加につながる可能性さえあるという逆説です[4]。

②に続く


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注:
1. つまり、たとえ生分解性であっても、特定の物質を過剰に生産すると、この規則に違反するということです。
2. たとえ会社が倒産して現在の株主や債券保有者を全滅させたとしても、過去の投資家は既に利益を得ています。
3. このような制度では、総排出量の上限が設定され、排出権が国や企業間で配分されます。汚染排出権は売買してもよく、工場が排出量を削減した場合、未使用の排出枠を他者に売却することができます。
4. 例えば、LED電球の導入によって照明コストが下がると、施設の中には屋外照明の使用を増やすという対応を取るところも出てきます。コンピュータのメモリが安くなると、開発者はより多くのメモリを必要とするソフトウェアを作成します。あらゆる資源がより効率的に利用されると、その資源に対する需要が減少し、価格が下がり、結果として需要が増加します。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-10-the-law-of-return/


翻訳メモ:
law of return:回帰の法則。returnには"no risk, no return"のように利益という意味がありますが、ここでは資源循環の意味で使われます。
nitrous oxide:化学用語としては「亜酸化窒素」ですが、大気汚染という文脈で問題となるのは、種々の窒素酸化物の総量(NOx)なので、ここでは「窒素酸化物」と訳しておきます。
connected self:つながり合う自己


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