即身成仏の方法をわかりやすく解説します!記事を読むと即身成仏できます
こんにちは。
西炎です。
弘法大師空海などが代表である即身成仏という概念があります。
密教では重要なテーマなのですが、今回はこの即身成仏を取り上げたいと思います。
即身成仏とは?

即身成仏とは、仏教、特に密教において、この肉体を保ったまま仏となることを目指す修行です。
悟りを開き、生きたまま仏の境地に到達するという考え方を指します。
これは、一般的な仏教の考え方である死後に仏になるというものとは異なり、この世にいる間に悟りを開いて仏になることを目指す、非常に厳しい修行です。
というように一般的にはいわれます。
少し真理を研究している私にとっては違和感があるのですが、この点について後述します。
まずは一般的な話からスタートさせるのは私の流儀です。
歴史的な即身成仏

即身成仏を目指した僧侶の中で、特に有名なのが日本の真言宗の僧侶たちです。
彼らは、即身仏(ミイラ仏)となるための特別な修行を行いました。
これは、主に以下の3段階に分けられます。
1、穀物を断つ修行
厳しい食事制限を行い、体内の脂肪や水分を減らします。
これにより、微生物による腐敗を防ぐ体質を作ります。
2、松や木の根を食べる修行
厳しい環境の中で松の根や木の皮などを摂取することで、体をさらに痩せさせ、腐敗防止に必要な成分を蓄えます。
3、土中入定
地中に埋められた石室の中で、鈴を鳴らしながら瞑想を行います。
鈴の音が聞こえなくなると、弟子たちが石室の通気孔を塞ぎ、ミイラ化が始まります。
この修行は、極限まで己を追い込み、精神と肉体を高めることで、仏の境地に達しようとする壮絶な試みでした。
彼らは、苦行の末に肉体そのものを仏として残し、衆生を救う存在として信仰されました。
この修行は非常に厳しいもので、何年も続くわけです。
断食も非常に苦しいものですが、それと比較できないほど苦しいものですが、私にはやはり違和感があります。
こういう修行はたしかに達成できれば大きな満足につながるでしょうが、やはり亡くなってしまうリスクもあります。
人間は意味があって肉体を有する存在であり、肉体を通して学ぶという意味があると思うんですね。
ちなみに私の違和感とは仏陀の修行中の出来事、そして地球よりもはるかに進んだ宇宙の惑星の住人の話です。
即身成仏と漆

即身成仏を目指す行者は、まず厳しい修行によって体内の脂肪や水分を徹底的に減らします。
その最後の段階で、腐敗を防ぐための特別な措置がとられました。
そこで使われたのが、漆の木の樹液を煎じた毒性のあるお茶です。
腐敗防止
漆には強い防腐作用や殺菌作用があります。
これを飲むことで、体内の臓器や腸内細菌の活動を抑え、死後の体の腐敗を極力防ぐ効果があるとされました。
体内の水分排出
毒性のあるお茶は、激しい嘔吐や下痢を引き起こします。
これにより、体内の残った水分を強制的に排出し、ミイラ化に適した状態に近づける目的がありました。
骨と皮だけの体へ
これらの修行を続けることで、修行僧の体は脂肪がなくなり、まさに「骨と皮」だけの状態になります。
この状態が、死後に腐敗しにくい、ミイラ化に適した体質を作り上げたとされています。
即身仏に関して、「漆を塗ってミイラにした」という話を聞くことがありますが、これは正確ではありません。
中国などでは、遺体の表面に漆を塗ってミイラ化を促す手法があったようですが、日本の即身仏では、内服することで内側から腐敗を防ぐという方法がとられました。
即身成仏を目指した修行僧にとって、漆は単なる防腐剤ではなく、厳しい修行の最終段階で自らの肉体を清め、仏へと近づけるための重要な儀式の一つでした。
弘法大師空海と即身成仏

弘法大師空海という偉人がいました。
空海について別の記事でも触れていますが、ただの密教僧ではありません。
空海さんというと一介の今でいう学生のような身分で数億円ともいわれる価値のある唐留学を行います。
最澄さんが今でいう東大学長のような身分で政府の推薦のような形で留学するのとまったく意味が違います。
しかも密教においては留学中空海さんのほうがより深く伝授を受け、日本に多くのものをもたらしています。
また帰国後には天皇にも気に入られ、国家運営のコンサルタントのようにそばで知恵を授けます。
極めつけは堤の造成です。
非常に難解な堤の土木計算を行い、長年水に悩んでいたエリアの悩みを解きます。
しかも現代その堤を建設の専門家が計算すると、まったく修正を必要としないほどのものであることが判明しています。
こうしてみればマネーの虎であり、密教という本職では日本一(ひょっとすれば当時の唐においてもトップだったかも)であり、土木のような技術でも時代を超えた天才だったといえます。
こういう空海さんも帰国直後は苦労します。
当時奈良では南都六宗といって旧仏教勢力がはびこっていました。
その勢力が密教について空海さんに詰問してくるわけですね。
大勢の中で、空海さんと旧勢力との問答が始まります。
長大な問答の後に旧勢力が空海さんに最後の質問をします。
「君の主張でもっともわからないのは即身成仏である。
もし事実であれば今ここでしてみなさい。」
空海さんは顔色1つ変えずに、「仕方がないですねぇ・・・。では。」といってその場で即身成仏を実践したそうです。
その様子を見た旧勢力の面々はその後、まったく空海さんに対して二度と問答をふっかけることもしていません。
ちなみに最澄も帰国後に同じように旧勢力とやりあっていますが、解決するまでに数年かかっています。
ですので立場が低い空海さんの即身成仏がいかに効果があったのかわかります。
この逸話を見てわかるのは即身成仏はその場ですぐに行える技術であることです。
つまりここで断食や土中入定についてもともとの即身成仏からすれば違うのかなぁ?と思うんですね。
弘法大師空海の即身成仏

空海が説いた「即身成仏」は、一般的に知られる「即身仏(ミイラ仏)」とは根本的に異なるものでした。
空海が著した即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)は、父母から受け継いだこの肉体のまま、生きている間に悟りを開き、仏になることが可能であると説いています。
これは、来世で仏になるという従来の仏教の教え(三劫成仏)を覆す画期的な思想でした。
空海によれば、即身成仏とは、以下の3つの要素が一体となることで実現されます。
六大(ろくだい)
宇宙のあらゆるものを構成する6つの要素(地・水・火・風・空・識)
四種曼荼羅(ししゅまんだら)
仏の教えを視覚的に表現した4種類の曼荼羅
三密(さんみつ)
仏の「身(行動)」「口(言葉)」「意(心)」
修行者が、この「三密」と一体となることで、仏である大日如来と一体化し、生きながらにして仏になることができると説きました。
この修行を「三密加持(さんみつかじ)」といいます。
空海の教えである「即身成仏」と、実際に肉体をミイラ化する「即身仏」は、直接的な関連はありません。
即身仏は、主に山形県の出羽三山を中心に、飢饉や疫病に苦しむ民衆を救うために、自らの命を捧げた修験僧たちの壮絶な修行の果てに残されたものです。
彼らは、空海の入定(にゅうじょう)(瞑想によって精神を統一し、無我の境地に至ること)の思想に影響を受けたとされていますが、空海自身が即身仏になることを直接説いたわけではありません。
空海は、高野山奥の院に入定し、今もなお禅定(瞑想)を続けていると信じられており、日々の食事などが給仕されています。
これは、肉体を仏として残す「即身仏」とは異なり、永遠の瞑想によって衆生を救済し続けているという信仰に基づいています。
このように、空海の教えである「即身成仏」は精神的な悟りを意味し、「即身仏」は肉体的な苦行の末に残された「生き仏」として、それぞれ別の意味合いを持つものなのです。
六大や四種曼荼羅とはいわば、密教の核心であるバランスを取ることです。
この点、仏陀の中道と非常に密接な関係があるといえます。
バランスが取れた心は安心に満たされます。
そして究極のバランスとは今この瞬間に想念を一切交えないで集中することです。
いわば考えないことなのです。
考えの中に人間くさい誤りがあり、考えることから離れれば、その時点で人間でなくなります。
これを即身成仏というわけです。
ちなみに三密も集中の技術を指します。
三密加持についてはこの記事で深くすでに紹介しましたね。
最澄と即身成仏

最澄と即身成仏は、空海との対比で語られることが多く、その思想は異なるアプローチをとっています。
最澄は、空海とほぼ同時期に即身成仏の思想を説きました。
しかし、空海が密教の修行による三密加持を通じてこの肉体のまま仏になることを目指したのに対し、最澄は、法華経の教えによって「誰でも、この身のまま仏になることができる」と説きました。
最澄は、自身の著作法華秀句(ほっけしゅうく)の中で、女性や悪人であっても法華経の功徳によって即座に成仏できる「妙法経力即身成仏」という考えを説いています。
これは、修行の積み重ね(歴劫修行)を前提とせず、すべての人に仏性が備わっているという天台宗の教えに基づいています。
少しわかりにくいですねぇ。
すべての人に仏性が備わっているというのは事実だと思いますが、それを発現させることについて最澄さんはどう考えていたのでしょうか?
たしかに最初からすべての人間には仏性が備わっているのでしょけども、それを体感できないとあまり意味もない気もします。
最澄さんのこの思想は神道と非常によく似ている気がしますねぇ。
親鸞と即身成仏

親鸞が説いた教えと「即身成仏」は、根本的に相容れないものです。
即身成仏は、自身の厳しい修行によって悟りを開き、この身のまま仏になることを目指す「自力(じりき)」の教えです。
一方で、親鸞が開いた浄土真宗は、まったく異なるアプローチをとっています。
親鸞は、人間は煩悩にまみれた存在であり、自らの力で悟りを開くことは不可能であると考えました。
そのため、自らの努力ではなく、阿弥陀仏の他力(たりき)、つまり絶対的な慈悲の力にすべてを委ねることで救われると説きました。
普通に考えればありえないと思う人も多いと思います。
しかし瞑想をしているとわかるのですが、自分の意識の力みを抜き、今この瞬間にゆったりと意識を置き、自分の意識や心に宇宙を創造した存在に任せるという姿勢も重要だとわかります。
この点、私は他力というのは自力の別の側面を指摘しているのだろうと思うんですね。
釈迦とスジャータの逸話と即身成仏

釈迦は最初修行を行うときに苦行林に入ります。
そこでは足にくぎを打ったり、一日中ずっと太陽を見るといった苦行をするものたちが集まっていました。
釈迦も実行するのですが、数年して疑問を持つようになります。
人間が肉体を持つのは意味があることであり、単に肉体を痛めつける修行で何がわかるのだろうか?と。
そして中道という思想を持ちます。
これはバランスを取ることです。
たとえばこの逸話だと断食でもなく、過食でもなく、適度に食べることです。
肉体を健全に保ち、それゆえに安全に修行を行えるということですね。
考えも同様で、勇敢すぎればリスクを取りすぎ命を失います。
逆もダメで、臆病すぎれば何もなせず人生の意味はありません。
考えもバランスを取ることが非常に重要であると悟るわけですね。
あと残るのはこのバランスが取れた正しい考え方をどうすれば実現し続けることができるのかということでした。
私は釈迦、後年の仏陀の悟りこそが即身成仏であると考えています。
教えというのは後の時代になるほど脚色がつき、変化します。
ですので源流こそが私の求めるものです。
即身成仏をすぐに行う方法

仏陀は毎日のように亡くなるまでおそらく修行していたでしょうが、中でも瞑想を重視していたはずです。
究極的に人間とは真実を見極める意識を手に入れることが生きる目的です。
事実を観察できないので意識がすぐに地球人は混乱するのです。
即身成仏とは今ここで行わないといけません。
仏陀の瞑想の内容を何度も行い、感じていきますといくつかその瞑想にポイントがあることがわかります。
・今この瞬間に注意集中すること
・想念を一切交えないこと
・リラックスすること
呼吸という対象に想念を交えないで集中していくと、呼吸以外に宇宙には一切存在しないというような感覚になります。
そこにあるのは境界のない意識だけであり、故にすべてがつながっていることもほのかに感じます。
そして唯一存在するのは機械のようにただ生命活動を続ける無意識のような意識だけ。
そして感じるのは幸せだけ。
これが宇宙、そして自分の本質であると何となく感じるわけです。
どういう心配、不安があっても想念を交えないで、一切を無視して呼吸に集中します。
未来に主に関係する心配、不安を置き捨てていかないと注意集中はできないので非情であり、冷徹であり、冷静です。
これができない人ほど人生がしんどいと感じることも明白です。
本当の自分とは常にこういう姿勢を取り続けていて、故に常時幸せであることも理解します。
おそらくこのような感覚をもう少し超えたものを即身成仏というのだろうと私は考えています。
即身成仏をやってみよう

即身成仏の境地を体験するにはすでに紹介したような瞑想を毎日欠かさずに何年も続けないといけません。
ですがこの入口の即身成仏であれば今この瞬間に人間であれば誰でも行うことができます。
一応紹介しておきます。
・まず自宅の部屋で一人になる
・床に触れる
・その床に触れている手の感触にだけ集中する
・想念を一切交えない
・できれば目を軽くつむって集中しやすくする
真っ暗にしても良いでしょう。
すると意識が触覚のみに深く集中できますが、この状態が即身成仏の入り口です。
瞑想とはこの状態を15分など維持することであり、これをずっと続けていると超能力者に最初なり、そして仏陀のように偉大な悟りにも到達します。
