“量”は正義!?──結果を焦る人が到達できない“狂気の地層”。
圧倒的な “量・時間” が起こす奇跡を見たときに、
人はそこに蓄積された “狂気” を暗に察知し、
感嘆とともに名状しがたい畏敬の念を抱くのではないか?
先日、永野江理先生の「質問」に回答しました✨
ちゃんと「回答」になってるか……不安でしたが、お返しの記事を頂きました!!(ありがとうございます🙇)
☝この記事に書かれていたことで、
すごく共感したので、今日はそれを紹介しようかと:
きれいな字において
『量か質か』と問われた時
私は迷わず「量」と言います。
もちろんどちらも大事です。
どちらも不可欠です。
でも
字が本当にうまい人、
その字がブレない人、
それを体が覚えている人は
書いてきた「量」が違います。
一時的な技術や知識(質)では到底越えられない「量」がそこにあります。
───いや、これって「字」に限らず、あらゆる領域において同じことが言えるのでは?
人や何かが起こした「奇跡」のような成果に触れたとき、
僕たちが感嘆し、驚異や狂気すらも感じ取ってしまうのは?
───そこに至るまでの軌跡を無意識に読み取ってしまうからなのかも?
幾重にも積み重ねられた試行の量と、費やされた濃密な時間。
その想像を絶する苦痛と執念の気配を透視してしまうからこそ、人は畏れを抱くのかもしれない。
▼人は「スマートでないもの」に戦慄する?
前にも書いたかもですが、僕らが “凄い” って思うものって「スマートでないもの」が多い気がするんですよ😅
実は、それは単なる「美しさ・素晴らしさなどへの感動」だけじゃなくて、「常軌を逸した執念に対する戦慄」を含んでるからでは?!
3つの理由を考えてみました:
1. 「合理性」の対極にあるものへの戦慄
本来、生物であれシステムであれ、「効率よく、痛みを避けて最短距離で結果に辿り着く」ことを目標にしてるけど……。でも、「奇跡」と呼ばれるような圧倒的な結果(構造物)の背後には、その合理性のレールから完全に逸脱した、膨大な無駄、失敗、そして気が遠くなるような反復の軌跡が隠されていることが多い。効率を度外視してまでそこにリソースを注ぎ込み続けたという事実自体が、僕たちの理解を超えた「狂気」として映るのではないか?
2. 狂気と苦痛が編み上げた「地層」
目に見える結果は、美しく滑らかな一つの「奇跡」かもしれない。でも、その土台には、日の目を見なかった無数の死骸(エラーやボツになったアイデア)が地層のように積み重なっていたりする。いつ完成するかもわからない、そもそも正解があるのかすら定かではない暗闇の中で、ただひたすらにトライ&エラーを繰り返す時間は、想像を絶する「苦痛」であるはず。僕たちは完成品の表面に触れた瞬間、その下に渦巻く「どれほどの血を吐くような反復があったのか」というブラックボックスを直感的に察知し、その深淵を覗き込んでしまうからこそ、圧倒されてしまうのかも?
3. 「非効率」が到達する「意味」の極致
ちなみに、効率的な一直線のプロセスからは、それほどの“凄み”は生まれないのかもしれない? 狂気的なまでの試行回数と、痛みを伴うプロセスが有機的に絡み合いながら成長していくことでしか到達できない領域があって…。論理的な設計図通りに組み上げただけでは決して宿らない、得体の知れない「意味」や「熱量」が、その狂気を通して結果に付与されているのを感じ取るからこそ、そこに畏敬の念を抱かざるを得ないのではないか?
要は:
“狂気” は模倣できない。
「生存・効率という本能のプログラム」から完全に逸脱し、純粋な意志が立ち現れた瞬間 ─── 僕たちはその模倣できない狂気に「凄い」と震えるのだと思います。
▼「結果」を焦ることの無意味さ?
永野先生の言葉、「凄い」を志す多くの人に届けたい🙄
先生の言葉は、単に「量をこなせばいい」という表面的な根性論を伝えているんじゃないんですよね💦
そこには、多くの人、若い人が、陥りがちな「すぐ結果が欲しいと焦ることの意味のなさ」が含まれている。
だって、すぐに結果が出るもの、効率よく結果が得られるものには、人を戦慄させるほどの「凄み」や「狂気」は絶対に宿らない!
なぜなら「継続」という箱の中には、必ず膨大な「量」と「時間」が詰め込まれていなければならないから。
だからこそ、今すぐ、若いうちに結果が出なかったとしても、何も焦る必要なんてないし、目に見える成果が出ない暗闇の中でもがき続ける不器用な時間は、決して無駄ではなく、「狂気の地層」を形成しうるってこと!
そして何よりの希望は、「“凄い” は、何(どんな狂気)の継続でも生まれうるかもしれない」ということです。
結果が出ないかもしれない領域に達し、それでもなお歩みを止めなかったとき。そこには単なる「努力」を超えた、得体の知れない引力を持つ「奇跡」が生まれます。
自分が信じた「スマートではない執念」を、ただひたすらに積み重ねていくこと。その非効率な狂気こそが、いつか必ず、誰かの心を激しく揺さぶる奇跡へと化ける……
そんなことを感じさせる名言でした。
▼おわりに
今回は、なんか「量」という言葉の中に「始める」と「継続」を感じましたね~🙄
これは、本当に色んな作品とリンクするテーマなんだけど、今回つながったのは映画『フォレスト・ガンプ』ですね:
知能指数は人より少し低いものの、誰よりも純真な心と天性の「足の速さ」を持つ主人公フォレスト・ガンプが、激動のアメリカ現代史の真ん中を駆け抜けながら、数奇で奇跡のような人生を歩んでいくヒューマンドラマです。物語は、フォレストがバス停のベンチで、隣に座った人々に自分の半生を語って聞かせる形で進行します。
幼少期:俊足の覚醒とジェニーとの出会い
1950年代のアラバマ州。IQが低く、背骨の歪みを矯正する脚装具をつけていたフォレストは、周囲からいじめの標的になっていました。しかし、スクールバスで唯一席を譲ってくれた少女・ジェニーと出会い、二人は固い絆で結ばれます。 ある日、いじめっ子から逃げる中でジェニーが叫んだ「走るのよフォレスト!走って!!」という言葉をきっかけに脚装具が砕け散り、彼に備わっていた圧倒的な「俊足」が開花し、運命が動き出します。
終盤ですが、ヒッピー文化や反戦運動に身を投じ、心身ともに傷つき果てたジェニーが故郷へ帰ってきます。フォレストとジェニーはようやく穏やかな時間を共有しますが、ある日、彼女は再び黙って姿を消してしまいます。
取り残され、深い喪失感に襲われたフォレストが突如言った言葉が:
その日、別に訳もなく、
僕は「走ろう」って決心した。
───フォレストのセリフ
いや、意味不明なんだけどwwww
でも彼は本当に、3年2ヶ月にわたってアメリカ大陸を横断して走り続けます。
理由も目的もなく、ただひたすらに走り続けるこのフォレストの姿こそが、まさに「狂気の蓄積」になってるんですよね💦
だからこそ、人々はその無垢な狂気に勝手に意味を見出し、後ろをぞろぞろとついて走り出し、数々の奇跡が引き起こされていくという。
なぜ、いきなり走り出したのか?
キッカケは、ジェニーの「走るのよフォレスト!走って!!」って言葉だったのかもしれない。
そして、最後にジェニーが死んだ後に
フォレストが墓前で語った言葉も深い:
ジェニー、僕は分からない。
ママが正しいのか、
それか、ダン中尉が正しいのか。
本当はみんな、それぞれ運命を持っているのか、
それとも、みんな風に吹かれて漂っているだけなのか。
でも僕は両方だと思う。
多分両方が同時に起きるんだと思う。
始める「キッカケ」は、運命かもしれない。
でも、それを「続ける」かは自分で選べる。
風のような偶然と、狂気のような継続。 その「両方が同時に起きた」とき。
ぁ~~・・・
これが “奇跡” って呼ばれるモノに成るのかもなって思いました。
さて、今日もお付き合いいただきありがとうございました。
この問いが、あなたの新たな“問い”の入り口になれたなら幸いです。
引用作品:
※Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。
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