イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第六十六話 白紙の決裁
最悪の問いは、最高の出来事の後に訪れた。
最初から考えられていたのか。
この紙には何も書かれていない。

エラとヨル 第六十六話
【白紙の決裁】
パチパチと、拍手の音がした。
空気が変わっていく。
腰のシルベが、ヒンと鳴った。
通路の奥から、青白い顔がゆっくりと浮かび上がる。
「いやー、素晴らしい。感動の再会です」
フールだ。
悪びれる様子もなく、糸のように目を細めて笑っている。
すぐにサンが剣を抜き、構えた。
だがフールは両手を大きく上げ、まるで戦う意志がないかのように振る舞った。
「裏切り者を見事に成敗された、女帝サーシャ様をお迎えに参りました」
大袈裟な素振りで、深々と頭を下げる。
「あなた、自分が何をやったかわかってるの?」
思わず、声が出た。
フールは態度を変えずに答える。
「何のことでしょう?」
「私は十二使徒の影の裏切り者を追う内に、ここまで至ったのです。貴方がたと同じように」
抜け抜けと、よく言う。
芝居がかった振る舞いが、余計に苛立ちを強くした。
「あなたが、影で彼らを動かしていたんでしょ!」
サンは構えた剣をフールへ向け、睨みつける。
フールは肩を上げた。
「はて? そちらにいらっしゃるのは、どちらが本物のサーシャ様なのですか?」
サンとニコを交互に見つめ、フールは言う。
「赤い瞳を持つ、同じ顔のお二人が並ばれると。私もどちらに頭を垂れればよいか、迷ってしまいます」
「戯言を!」
サンは語気を強めた。
そのサンを制するように、ニコが一歩前に出る。
「十二使徒の影、第二席。フール」
ニコの声に、腹の底が冷えるような感覚を覚えた。
ニコは、侮蔑と冷淡さを合わせたような眼差しを、フールへ向け続けていた。
「迎えご苦労。でも、変ですね」
静かな声だった。
けれど、その一言には、逃げ場がなかった。
「第二席ほどの重責を担う者が、ここまで遅く現れるとは」
フールは目をさらに細めた。
「申し訳ございません。ここに至る道で、反逆者たちに邪魔されまして」
そう言うと、深々と頭を下げる。
「そう。なら、こちらの資料にも納得のいく説明ができるのかしら」
ニコは数枚の紙を取り出し、宙へ放り投げた。
紙が、ひらひらと通路へ散らばる。
私はそのうちの一枚を拾い上げ、息を呑んだ。
何も書かれていない。
真っ白な紙だった。
「なんのご冗談を……」
フールの態度は、変わらない。
「赤い瞳において、女帝の決裁は絶対」
ニコは、ゆっくりと言葉を置いた。
「女帝に対する反逆は、死を以って償う。それが、この組織の掟です」
「証拠は?」
フールは微笑んだまま、そう問いかける。
ニコは、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「証拠?」
その赤い瞳が、フールを射抜く。
「それを、私の瞳を見て問うのかしら」
一拍置いて、ニコは続けた。
「ここは禁区。誰の目も届かぬ場所よ」
そう言うと、ニコはゆっくりと私たちを順番に見た。
「幸い、証言する者は、いくらでもいます」
一瞬だけ。
通路の空気が、凍りついたように感じた。
フールは、やがて小さく息を吐いた。
「なるほど」
笑みを浮かべたまま、フールは答える。
「こちらが、真の女帝か……」
頭を上げると、フールはこれまでの態度を崩すように話した。
「ならば真の女帝に問いましょう。この街を救う方法を」
そう言うと、胸元から青白く光る石を取り出し、高く掲げた。
――竜石!!
間違いない。
雪山でシーズが見せてくれた物と、同じ石だ。
フールは口元を上げながら続けた。
「竜石と言うそうです。この石を用いれば、ギガントタートルさえ思いのまま操れます」
エラは頭を押さえている。
竜石の影響が出ているのだと感じた。
「今まさに、向かう先には水がない。このままでは、街の住人は干上がってしまいますよ」
サンが一歩踏み出しかけた瞬間、フールは竜石を前に突き出した。
「おっと。この石が砕けたら、何が起こるかご存じないようだ」
サンの動きが止まる。
「捕まえた竜祀教の奴らに、優しく聞いたら。これは最後の竜石だそうです」
フールは口を大きく開き、高笑いを上げる。
「これが砕ければ、奴が来ますよ」
「奴って?」
ニコが聞き返した。
フールは、青白い石を見つめたまま答えた。
「ドラゴンです」
ニコの肩が震える。
「そう。古の厄災。世界を焼き払う力」
フールは、石を指先で軽く撫でた。
「その厄災を呼び込まないように。この石が、ドラゴンを縛りつけているのです」
初めて聞いた話だ。
シーズからは、砕けとしか聞いていない。
私たちの目的は、エラを縛る竜石の破壊だったはずだ。
最後の石を砕いたらドラゴンが現れるなら、元も子もない。
頭の整理が追いつかない。
「そんな話を信じろと?」
ニコは落ち着いた口調で返した。
「どうでしょう。試してみますか?」
そう言うと、フールは竜石をニコに見えるよう掲げた。
「でも、不思議ですね? なぜ、ギガントタートルは記録にない方角へ向かい始めたのか」
フールは、ニヤリとして言う。
「なぜ、私がその方角を正確に把握できているのか」
「そして、なぜ竜祀教という異物がこの街に入り込めたか」
フールは私たち一人一人に見えるように、竜石を向けた。
「でも、それじゃあ、竜石で操れても次のオアシスに着くまでに街は干からびてしまうじゃない!」
私の言葉を聞いたフールは、不思議そうな顔をした。
「なぜ、全部を助けるのです?」
驚きに似た声だった。
「三万人の住人なんて不要。私に従う一万人だけを連れて行きますよ」
本気で言っているのか。
人を数でしか見ていない。
しかも、それがおかしいことだと理解していない様子だった。
私はフールの狂気を目の当たりにして、言葉を失った。
「最初から、そのつもりで……」
オトが、ぽつりと漏らした。
「落縁街を焼いたのも、もしかして……」
フールは、嬉しそうに目を細めた。
「素晴らしい! その通りです」
まるで、子供の正解を褒める親のような声だった。
「一番無駄な部分から削る予定でした。余計な邪魔が入らなければ、もう少し減らせたものを」
フールは、心底残念そうに息を吐く。
まさに狂気だ。
この男の頭の中では、人の命さえ利用価値があるかないかで決められている。
その意味に気づいて、私は拳を強く握りしめた。
「どうしろと」
ニコが、感情を出さずに言葉を置いた。
「あなた方の身柄を、お預かりします」
フールはそう言うと、ニコとサンへ順に目を向けた。
「ご安心ください。殺しませんよ」
一度、笑みを消す。
「あの邪魔なジャッジメントが片付くまでは」
フールは竜石を掲げたまま、通路にいる全員を見渡した。
「竜石を砕けば、ドラゴンが来る。砕かずに進めば、水が尽きる」
「どちらにせよ、三万人を抱えたままでは街は終わります」
「さあ、お選びください」
青白い光が、顔を照らす。
「住人三万人を焼き殺すか」
一拍。
「私に従う一万人を助けるか!」

