イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第六十三話 禁区の門
禁区の門の前で、私はまだ人が死ぬ覚悟を持てていなかった。
けれど、その門は、覚悟のない者を待ってはくれない。
だから私は、自分の頬を叩いた。

エラとヨル 第六十三話
【禁区の門】
パチン。
痛い。
でも、その痛みのおかげで、頭が少しずつ冴えていくのを感じる。
手を何度か握り返す。
少し喉が渇いていた。
それ以上に、体が震えていた。
私は、紅き塔の黒塗りの門の前に立っている。
門の奥には、最下層まで続く螺旋階段が見えた。
この先は、禁区と呼ばれる場所だ。
一度入ったら、その先に何が待ち構えているのかもわからない。
隣に立つエラが、私の顔を見て笑った。
「ヨル。眠たかったの?」
わかって聞いている。
私は、口元が上がるのをわざと我慢した。
「誰かさんの寝相が悪いせいでね」
そう言って、舌を少し出した。
「それを言うならヨルさんだって、すごい顔で寝てましたよ」
オトが笑いながら言う。
「眉間に皺を寄せて、それ以上食べないでーって」
「えっ、本当?」
私は慌てて聞き返した。
「冗談です」
そう言うと、今度はオトが舌を出した。
「でも、オトさん。お土産のクッキー饅頭を狙ってましたよね?」
サンがぽつりと言うと、オトの目が泳いだ。
「確か、一個ならわからないから、とか……」
オトが慌ててサンの口を塞いだ。
みんなから、小さな笑い声が漏れる。
「一個、少なかった……です」
フォーチュンが、じっとオトを見つめていた。
その姿を横目に、ジャッジメントが表情を変えずに言う。
「案内はフォーチュンにさせます。ただし、彼女も禁区のすべてを知っているわけではありません」
ジャッジメントの言葉に、フォーチュンが小さく頷いた。
「私はこの門を抑えます。後は気にせず、お進みください」
そう言うと、ジャッジメントは門を背にして立ち止まった。
「じゃあ、そろそろ……」
私が言いかけた、その時だった。
呻き声が上がった。
振り返ると、剣を握った男が倒れていた。
いつの間に現れたのか。
いつ斬られたのか。
私には、何も見えなかった。
「ほう。もう、後先は関係ないと……」
魔剣ケルベロスを抜いたジャッジメントが、剣にまとわりついた血を払う。
ブン、と低い音が鳴った。
その音に誘われるように、暗闇から黒頭巾の男たちが現れる。
「じい!」
サンが振り返って叫んだ。
けれど、その声が届くより早く、男たちの胴が離れた。
ジャッジメントは、いつの間にか男たちの横を歩いていた。
その後ろには、斬り裂かれた骸だけが転がっている。
早すぎて、見えない。
暗闇の奥から、今度は魔導師たちが現れた。
彼らが詠唱を始めると、周囲に焦げた匂いが広がっていく。
火球が一斉に放たれた。
けれど、ジャッジメントは一歩も退かなかった。
魔剣ケルベロスが、黒い軌跡を描く。
次の瞬間、火球が裂けた。
燃え盛るはずだった炎が、空中で断ち切られ、ほどけるように消えていく。
――魔法を斬るって、このこと!
目の前で魔法が斬られるのを見て、私はようやくその言葉の意味を理解した。
どんな鎧も、どんな盾も、どんな魔法も。
あの剣は、本当に斬る。
「裁定は下った」
ジャッジメントの声が、門の前に低く響いた。
「全員、粛正」
そう言うと、ジャッジメントは魔導師たちへ向けて剣を振った。
ただ、一振り。
それだけだった。
魔導師たちは、声を上げる間もなく崩れ落ちる。
サンが、ぎゅっと拳を握った。
一歩、戻ろうとする。
その背中に、ジャッジメントの声が飛んだ。
「お嬢様」
サンの足が止まる。
「振り返る必要はありません」
ジャッジメントは、こちらを見ていなかった。
ただ、門の前に立っている。
黒い剣を手に、赤と黒の闇を背負いながら。
「ここは、私が通しません」
サンは何かを言いかけたが、言葉にはしなかった。
代わりに、深く息を吐く。
そして、前を向いた。
「行きます」
その声は、静かだった。
フォーチュンが小さく頷き、螺旋階段へ足を踏み出す。
エラが私の手を取った。
「ヨル」
「うん」
私は、最後に一度だけ振り返った。
門の前に立つジャッジメントの背中が見える。
その背中は、まるで壁だった。
誰も越えられない。
誰も通れない。
赤い瞳、第一席。
審判。
その名にふさわしい男が、そこに立っていた。
私たちは、禁区へと足を踏み入れた。
大きな竪穴の壁に、小さな螺旋階段が続いていた。
等間隔で灯されたランプの明かりだけが、足元を照らしている。
穴の底を覗き込んでも、底は見えない。
吸い込まれそうになる感覚を抑えながら、私は一歩ずつ階段を下っていった。
途中から、違和感に気づいた。
壁が石ではない。
赤黒い、別の何かに変わっていた。
よく見ると、ゆっくりと動いている。
まるで、生きているみたいだった。
「この壁って……?」
私が声を出したところで、サンが言った。
「亀の体ですね」
大きすぎて忘れていた。
私たちは、ギガントタートルの上にいる。
ということは。
「……ここ、体の中?」
「たぶんですけど」
サンが静かに答えた。
「ここは、ギガントタートルの体内です」
仮面で表情は見えない。
それでも、サンも私と同じものを感じているのだとわかった。
――気味が悪い。
下へ降りるほど、空気が重くなっていく。
幸い、息苦しさは感じない。
それでも、居心地の悪さだけが増していった。
どれくらい下りただろう。
ようやく、底が見えてくる。
底が見えた安心感から、自然と足が速くなった。
最後の階段を下りると、フォーチュンは辺りを見渡し、一つの通路を指差した。
「あっち……です」
私たちも、その後に続く。
歩きながら、エラが地図を見て呟いた。
「禁区ってさ、亀の内臓じゃない?」
私も地図を見る。
確かに大雑把に描かれているが、亀の内臓の中を細かな道が続いているようにも見えた。
「よく気づいたね」
私は感心してエラを見る。
「なんとなくね」
エラはそう言うと、ふっと表情を強張らせた。
腰のシルベがヒンと鳴る。
サンも、すぐに腰の剣へ手をやる。
「来ます……」
フォーチュンが言った直後、通路の先から無数の矢が飛んできた。
私とオトは、すぐにしゃがみ込む。
フォーチュンは矢を最小限の動きでかわしながら、前へ駆け出した。
続くようにサンも剣を抜き、私とオトに当たらないように矢を弾いてくれる。
エラの姿が、隣から消えた。
次に見えた時には、もうフォーチュンと並んで駆け出していた。
先の暗闇から、何かがぶつかる音が響く。
それを境に、矢は止まった。
「片付いたよー」
エラの声だけが聞こえる。
私たちは立ち上がり、声のする方へ進んだ。
そこには、黒頭巾の男たちが倒れていた。
血は流している。
けれど、死んではいないようだった。
私は、少しだけ安心した。
その安心は、すぐに崩れた。
フォーチュンが、倒れた男たちに一人ずつ剣を突き立てていた。
「ダメっ!」
私が口にした時には、黒頭巾たちの断末魔が通路に溢れていた。
フォーチュンは表情を変えない。
ただ、淡々と剣を引き抜き、次の男へ向かう。
「ヨル」
サンの声は冷静だった。
「ここで逃すと、私たちが危なくなります」
正しい。
たぶん、サンの言っていることは正しい。
ここは禁区で、相手は私たちを殺そうとしていた。
逃せば、背後から襲われるかもしれない。
誰かに知らせに走るかもしれない。
わかっている。
それでも。
私は震える手を押さえ、俯くことしかできなかった。
禁区に足を踏み入れたのだと、ようやく思い知った。

