イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第六十一話 お嬢様、おかえりなさいませ
剣は弾かれた。
勝敗はついたはずだった。
けれど、サンは敗者の顔をしていなかった。

エラとヨル 第六十一話
【お嬢様、おかえりなさいませ】
膝をついたまま、サンは微笑みを浮かべていた。
ジャッジメントも同じだった。
その空気を破るように、扉を壊す勢いで巨大な人影が現れた。
――チャリオット。
スラムで見かけた時と、まるで変わらない姿だ。
チャリオットは二人を見ると、高らかに笑い声を上げた。
「おお! 楽しそうだな。俺にもやらせろよ」
飾り棚のガラスが震えるほどの大声が、部屋に響く。
目の前の光景に混ざりたくて仕方がないようだった。
「チャリオット……」
サンがぽつりと言った。
その直後、チャリオットの巨体が吹き飛んだ。
エラの拳が、振り抜かれている。
「よし。まずは一発」
エラが笑顔を浮かべた。
チャリオットは壁に打ちつけられ、背後の石壁が鈍い音を立てて歪む。
それを満足げに見つめると、エラは止める間もなく殴りかかった。
不意を突かれたチャリオットの腹に、二発目の拳がめり込む。
巨体がわずかに宙へ浮いた。
そこへ続けざまに、エラの蹴りが腹めがけて叩き込まれる。
――もう、めちゃくちゃだ。
チャリオットの瞳から、光が消えたように見えた。
倒れ込んだチャリオットに片足を乗せ、エラは片手を上げる。
「戦車は片がついたよ!」
そう言ってこちらを見るが、エラの足元が揺れた。
「ぐぁぁぁあああ!!」
大声を上げ、チャリオットが立ち上がる。
「ありゃ、まだダメか」
エラはとぼけた声を出して、チャリオットから距離を取った。
チャリオットの体中に血管が浮かび上がる。
獣のような雄叫びと同時に、エラめがけて拳を振り上げた。
しかし、その拳が振り下ろされる前に、大きな音とともにチャリオットの体が床に叩きつけられた。
その背後には、鞘に入ったままの剣を握ったジャッジメントの姿があった。
――えっ、いつの間に?
まったく気づかなかった。
足音も、気配もなかった。
ただ、ジャッジメントの瞳だけが、冷たくチャリオットへ向けられている。
「双方、止まれ」
ジャッジメントが静かに言う。
腰のシロとクロに手をやっていたエラも、両手を上げて戦う意思がないことを伝えた。
――ここは、挨拶代わりに殴り合うの?
異常な光景が広がっている。
けれど、それも紅き塔では正常なのかもしれない。
私は言葉を失い、その景色を見ることしかできなかった。
一瞬で、部屋の中はボロボロになっていた。
「お茶って雰囲気でもないですね……」
オトが苦笑いを浮かべて呟いた。
それを聞いたフォーチュンが、壁際の紐を引く。
どこかで鈴の音がした。
扉が開くと、黒服の男たちが部屋に入ってくる。
倒れたままのチャリオットを数人で運び出し、別の男たちは壊された椅子や机を片づけていく。
そして、あっという間に部屋は元通りになった。
ご丁寧に、新しい机には温かいお茶まで用意されている。
用意された椅子に腰を下ろした瞬間、ジャッジメントが静かに立ち上がった。
彼はサンの前まで歩くと、片膝をつく。
「お嬢様、おかえりなさいませ」
サンの瞳が揺れた。
その隣で、フォーチュンも片膝をつき、深く頭を下げる。
「じい。ただいま」
サンが短く返した。
サンが手を少し上げると、二人は立ち上がり、席に着く。
「私はサーシャ。赤い瞳の正当な後継者」
サンの赤い瞳が、ジャッジメントとフォーチュンに向けられる。
「ただ、今の私はサンでしかない」
その声は、女帝のものではなかった。
命令でもなかった。
「女帝サーシャとして生きてきた、私の妹に本当の名前を返し、私自身の名前を取り戻すために戻りました」
サンはそう言うと、仮面を付け直した。
赤い瞳が、仮面の奥に隠れる。
「勝手なお願いかもしれない」
少しだけ、声が揺れた。
「女帝に会わせてほしいの」
それは命令ではなかった。
赤い瞳の後継者としてではなく、姉としての願いだった。
ジャッジメントが口を開く。
「女帝は……ニコ様は、ここにはおられません」
――ニコを知っているの?
サンとの会話を思い出した。
名前と立場を入れ替えることで、助かった二人。
ただ、そのことは秘密だったはずだ。
ジャッジメントは続ける。
「全て知っています」
静かな声だった。
「お嬢様とニコ様が入れ替わったこと。名前を交換して生きてきたこと。そして、双子の姉妹であることも」
仮面の奥で、サンの息が止まったように見えた。
私は、その言葉でようやく気づく。
子供の頃からサンを見てきた人が、双子だからといって見間違えるはずがない。
ジャッジメントは、最初から知っていた。
知ったうえで、ニコを女帝として認めていたのだ。
「ニコはどこにいるの?」
サンが言葉を紡ぐ。
仮面の奥で、息を殺しているのがわかった。
「禁区です。ギガントタートルの暴走を調べるため、自ら出向かれました」
その言葉を聞いた瞬間、サンが立ち上がる。
「なぜ! そんな危険な場所に!」
サンの声が大きくなった。
指先が、机の縁を強く掴んでいる。
「お止めはしました。ギガントタートルの暴走は、赤い瞳にとっても死活問題です。しかし、真の目的は別にあります」
そう言うと、ジャッジメントが鋭い目線を向ける。
「ニコ様は自らを囮にすることで、赤い瞳の膿……十二使徒の影に潜む裏切り者を炙り出すおつもりです」
「裏切り者?」
サンの肩が揺れる。
「そうです。十二使徒の影に広がる不審な動き。大陸中に散らばっていた使徒が、なぜルーベントに集められたのか」
ジャッジメントは静かに言葉を続ける。
「その理由を、ニコ様は探っておられます」
サンが言っていた話だ。
十二使徒の影は、大陸中の目として存在する。
それがルーベントに集まっているのは、異常な状態だと。
「女帝を騙る者が、密かに十二使徒の影を動かしているようです」
私は祭りの夜を思い出していた。
女帝サーシャの姿をしたラヴァーズ。
それを守るように動いたタワー。
スラムを燃やすように戦う吊るし人。
そして、それらを統べるように見えたフールの姿を。
「だからと言って、ニコ一人で行かせるなんて危険すぎます」
サンが机を叩いた。
茶器が小さく音を立てる。
「私も同行を申し出ました。しかし、それでは意味がないと」
ジャッジメントは静かに続ける。
「私と離れた女帝を狙わせることで、裏切り者を一掃するおつもりです」
サンが額を抑え、首を振った。
「護衛には第三席ハーミット、第六席タワー、第八席マジシャンが付いています」
「タワー!?」
サンも祭りの夜を思い出したようだ。
声が震えている。
「ええ、わかっております。タワーが裏切っていることは」
「では、なぜ!?」
「タワーを動かしている者を炙り出すためです」
「炙り出す……?」
ジャッジメントの目が、いっそう険しさを増した。
「タワーは盾としては優秀です。護衛として同行させれば、表向きは女帝を守らざるを得ない」
ジャッジメントは、淡々と言葉を重ねる。
「そして、あれほど目立つ駒を女帝の近くに置けば、背後で糸を引く者も動かざるを得ません」
サンは何も言わなかった。
唇を噛んでいるように見えた。
「誰が、タワーを動かしているの?」
サンが静かに尋ねる。
ジャッジメントは頷いた。
「第二席、フールでございます」

