見出し画像

鏡と言葉と文字|鏡を語るためには比喩を用いるしかない

 今回の記事のまとめを先に書きます。

 世界には「鏡でうつせないもの/鏡にうつらないもの」があるのではないか。そんな話をします。

 あと、今回は詳しく触れることができませんが、次のようにも考えています。

 あくまでも、芸術や文学作品での話ですが、鏡を絵に描いたり、写真や動画という形で撮ることはできても、言葉と文字で描写するのはきわめて難しい気がします。とはいうものの、比喩や象徴的な表現を用いて詩歌として歌うとか、寓意的な物語として語ることなら、これまでにたくさん試みられてきたのは、みなさんがご存じのとおりです。このことは、別の記事で書きます。

 では、本文に入ります。

     *

「〇〇は鏡のように、うつす/うつる」に類したフレーズはよく見かけるし耳にもしますが、「鏡は〇〇のように、うつす/うつる」という意味のフレーズは聞いたことも見たこともありません。そうだとすれば、これは鏡が「うつす/うつる」の王者/チャンピオンだからではないでしょうか。

「うつす/うつる」については、鏡がだんとつに優れている気がします。なにしろ、くっきりはっきりと、うつすしうつるのですから。鏡はうつしうつるために人がつくったものだから当然だと言えそうです。

 鏡と言ってもいろいろな鏡があるのでしょうが、鏡は完成されたものとして見なして、ここでは「鏡のようなもの」について考えてみます。「鏡のようなもの」とは、冒頭で述べた「〇〇は鏡のように、うつす/うつる」の「〇〇」のようなものです。

 つまり、ここで言う「鏡のようなもの」とは、

・鏡ではなくて、
・鏡のように「うつす/うつる」もの

です。

 みなさんは、どんなものが思い浮かびますか?

     *

・鏡は世界をうつす。
・世界をうつす鏡。

 この場合の世界とは人の世界という意味でしょう。猫の世界だとは考えにくいです。人の言う「世界」とは「人の世界」にほかなりません。

 世界地図、世界史、世界にはびこる悪、第〇回世界大会――。こうしたフレーズにある「世界」は猫の世界ではありません。世界という言葉は人のためにあると言わざるをえません。

 とにもかくにも、鏡は人の世界をうつしています。鏡にうつっているものの観測者(じつは「観測者」という言葉をいま初めてつかいました、恥ずかしくてつかえなかったのです)は人だからにほかなりません。

 半分冗談はさておき(半分は本気です)、人が鏡の前に立って覗き込んではじめて、鏡はその役割を果たします。鏡は、人に覗き込まれて/見られて/観測されて、なんぼなのです。鏡は人がその前に立つことを前提につくられた人造物/人工物だからにほかなりません。

 自然界にある「うつす/うつる」ものを真似て、人は完璧な「うつす/うつる」ものをつくり、それを鏡と名付けたのかもしれません。絵、写真、映画、映像、画像は、鏡の進化形だと言えそうです。

 人は鏡と鏡に似たものに見入り、見入られ魅入られ心を奪われています。自分を見ているとそんな気がしてなりません。人は、人は、なんて書きながら、私にとっても人事/ひとごとではないのです。むしろ、人事/じんじです。

 人は、鏡に見入り見入られ魅入られて、なんぼ。

     *

 話を少し変えます。

・言葉は世界をうつす。
・言葉は世界をうつす鏡。

 この二つのフレーズに類したフレーズもよく耳にし口にし目にしています。この場合の言葉は文字と考えたほうがよさそうです。言葉は発したとたんに片っ端から消えていき、鏡を名乗らせるには、いかにも頼りないからです。

 文字は消さないかぎり残っているし、そもそも目にするものだし、鏡面のように紙面や画面といった面との相性もいいと言えます。激似とか酷似とかそっくりとまでは言いませんが、鏡と文字はかなり似ている気がします。

・文字は世界をうつす。
・文字は世界をうつす鏡。

 こう書いてみると、字面(形・表情)も語呂(音・響き)もいいです。言葉の場合に比べると、このフレーズは慣用的ではないせいか、ちょっとぎこちないというか「どういう意味?」的な感じもしますが、気になるほどではありません。

「はいはい、なるほどなるほど、たしかに文字は世界をうつす鏡ですよね」と納得してしまいそうな自分がいます。自分で書いておいて納得するなんて世話ない話ですけど。

     *

・言葉は世界をうつす。
・言葉は世界をうつす鏡。

・文字は世界をうつす。
・文字は世界をうつす鏡。

 上の四つのフレーズというか二組のフレーズをながめていると、ほんまかいなという気持ちになってくるのを抑えることができません。どこかうさんくさいのです。

 そう感じるのは、鏡が「うつす」というのは物理的/光学的なレベルの話であり、言葉と文字が「うつす」というのは言葉と文字の世界の話だからだという気がします。

 私の好きな言い方をすると、鏡が「うつす」は現界(現実の世界・物理的な法則に沿っている)で起きていることであり、言葉/文字が「うつす」は言界(言葉と文字の世界・言語の文法や語法に沿っている)で起こっていることだからと言えます(勝手に言っているだけですけど)。⇒「自分語について」

 さらに言うなら、言葉/文字が「うつす」は幻界(思い・夢・まぼろしの世界・なんでもありうる)寄りの言界で起こっていることだとも言えます。言界と幻界では現界ではぜったいにありえないようなことがありうるのです。⇒「ありえない話」

 自分語をつかってお茶を濁し、大変失礼しました。

     *

 仕切り直します。

 自分語をつかわずに説明してみます。

 鏡が「うつす」とは、文字通り/字義通りに「うつす」ことであるのに対し、言葉と文字で「うつす」というのは、たとえて/譬えて/喩えて/例えて言っている、つまり比喩なのです。

 比喩とは「たとえて言うとですね、ほら〇〇があるじゃないですか、あの〇〇みたいに――」というふうに語る/騙ることですから、なんかうさんくさいところがあります。

・ひゆ【比喩・譬喩】
 物事の説明に、これと類似したものを借りて表現すること。たとえ。
(岩波書店「広辞苑」より)

 ようするに、「似たもの/別物に、置き換えて/すり替えて、語る/騙る」のが、比喩だと言えます。そのものではなくまったく別物を用いるです。だから、どこかうさんくさいのです。

     *

 まとめます。

・鏡を語るためには鏡のようなものを用いるしかない。
・鏡を語るためには比喩を用いるしかない。
・鏡を語るためには言葉と文字を用いるしかない。

 上の三文は下へいくほど、話が具体的/即物的になり、「当たり前のことを語っている感」が強くなります。

 とはいえ、この「当たり前のこと」にこだわる傾向が私にはあります。当たり前だと思われたり言われていることは意外と当たり前ではないと感じているからです。

     *

・「言葉と文字」とはいわば「比喩」であって、たとえて言えば「鏡のようなもの」である。

 このように言い換えると、鏡と言葉と文字のかかわり合いが不思議なものに見えてきます。

・言葉でうつす:事物を音声の並びに置き換えて描写する。
・文字でうつす:事物を点と線からなる形の並びに置き換えて描写する。

 描写という言葉をつかいましたが、これは「鏡がうつす」場合には用いられない言葉です。ということは、「鏡にはうつせないものがある=鏡には描写できないものがある」という意味ではないでしょうか?

・びょうしゃ【描写】
 描き写すこと。特に文芸・絵画・音楽などの芸術制作において、物の形体や事柄・感情などを客観的に表現すること。「心理――」
(「広辞苑」より)

 なるほど。感情や心理は、鏡には「うつせない・描写できない」という気がしてきました。ただし、鏡の前に立って鏡を覗き込んでいる本人は、鏡にうつっている自分の姿に自分の感情や心理がうつっている、と思い込みがちですから要注意です。

(いま自分の目の前にある鏡について述べたことは、目の前にある自分の書いた文字についても言えます。自分に似ているからと言って(鏡像のことです)、自分が書いたものだからと言って(文字のことです)、人の自由になるものではないのです。

 鏡も文字も人にとっては自分の外にある異物なのです。人は鏡と文字にうつった振りに振り回されるしかありません。げんに誰もが振り回されていますよね。)

 鏡をテーマに語るとパラドックスだらけの話になりがちですが、これは「事物を語るのに、言葉と文字という事物とはまったくの別物を使用する」以上、避けられない言葉の綾だと言えます。

 例の「語るは騙るである」という、語るに落ちるたぐいの話になってしまうのです。

     *

・鏡は人の世界をうつす。(事実)
・人の世界をうつす鏡。 (事実)

・言葉と文字は人の世界をうつす。(比喩)
・人の世界をうつす言葉と文字。 (比喩)

 鏡にもうつせないものがあると考えると、

・鏡は人の世界をうつす。
・人の世界をうつす鏡。

というフレーズのほうが比喩に見えてきました。鏡は言葉と文字のように人の感情や心理をうつすことはありえないのですから。

「〇〇は鏡のように、うつす/うつる」に類したフレーズはよく見かけるし耳にもしますが、「鏡は〇〇のように、うつす/うつる」という意味のフレーズは聞いたことも見たこともありません。そうだとすれば、これは鏡が「うつす/うつる」の王者/チャンピオンだからではないでしょうか。

 どうやら、鏡は「うつす/うつる」の王者/チャンピオンではないと言えそうです。もし、そうだとすれば喜ばしいことだと、言葉と文字と文芸の好きな私は思います。心強いし、ほっとするのです。

     *

 以上を、私なりに言葉を加えて、まとめます。

 鏡は、振りや動きや形を鮮明にリアルタイムで「うつす」が、感情や心理を微に入り細をうがって「描写する」ことはできない。

 言葉や文字は感情や心理を微に入り細をうがって「描写する」ことができるが(ただし話し手や書き手に上手下手はある)、振りや動きや形を鮮明にリアルタイムで「うつす」ことはできない。

 鏡の強みは、形と色を鮮明に「うつす」ことと、振りと動きに「同期する」こと、つまり視覚的でありリアルタイムであること。

 言葉と文字の強みは、人の感情や心理に触れる(琴線に触れる)/振れる(共振・共鳴・同調する)ことができること、つまり語で語るかたちで描写と説明ができること。

     *

 なお、「うつす/うつる」鏡の進化形とも言える映像と比較するかたちで、言葉による描写が得意なものと不得意なものについて書いた拙文を紹介します。以下はその一部です。

(……)
 引用文で太文字の部分だけは、客観的な(ほぼ誰の目にも明らかなという意味です)描写です。
 ところが、この段落では、島村の目から見た描写というか説明がかなりの部分を占めていいるのです。
 ここが映像にくらべて言葉のほうが有利な点にほかなりません。
 どんなふうに落ちたかを詳しく、しかも受け手の感覚や心情にうったえる形で描く(うつす)には映像は適していないのです。
 心のうちを映像に「うつす」ことは至難の業であり、不可能に近いと言えます。言葉でなら「かたる」という形で共感を求めることができます。
(拙文「『雪国』終章の「のびる」時間」より)

 言葉による描写とその限界について、今回は立ち入る余裕がありませんので、この種のことに興味のある方は、ぜひご一読ください。

     *

 最後に一言。

 鏡を前にしたとき、目の前にうつる顔や姿を見て、その感情や心理をつかむことができますか? そもそも、そこに見えるのは誰/何なのでしょう?

(いま述べた疑問は、鏡だけでなく文字についても言えます。目の前にある鏡も自分の書いた文字も人の外にある(「こっち」ではなく「あっち」にある」)異物/別物なのです。人は「それ」の振りに振り回されるしかありません。

「それ」は自分でもないし自分のしている振りでもないのです(もし自分が振りをしているとすれば「あっち」ではなく「こっち」であるはず)。

「自分の振りをしている「何か」としか言いようがない。いっしょに「ごっこ/play/プレイ/演技」をしている「何か」。そんな気がします。

 人は、目の前にあって目に見える「あっち」を、見えない「こっち」よりも信じてしまうのです。鏡、文字、時計、映像のように。)

#日本語 #言葉 #文字 #鏡 #比喩 #描写 #感情 #心理 #国語辞典 #広辞苑