量子力学では観測された事象の絶対性は保証されない
世間ではまだあまり理解が広がっていない量子力学の一側面に関連したご質問を頂きました。それは下記の論文に関するものでした。
[2409.05491] A refined Frauchiger--Renner paradox based on strong contextuality
この論文では、「ウィグナーの友人」の思考実験と似た、いくつかの量子力学の思考実験を考えているのですが、その中で重要なキーワードが「観測された事象の絶対性」(absoluteness of observed events、略してAOE)です。
AOEとは、観測された事象として表象される「絶対的真理の存在」のことで、古典力学的世界観では、暗黙の裡に仮定をされていたものです。ある観測者が行った全ての測定の結果は、他の観測者にとっても絶対的で、一意な結果をもつという主張です。例えば、観測者アリスが二準位スピン系Sのz方向成分を測定装置Dを用いて測定するとします。そのDの結果をアリスが読み出すことで、アリスは上向き状態か下向き状態かのどちらか1つを観測します。このスピンの上下が、「測定の結果」であり、それは他の観測者にとっても「絶対的真理」で正しいと考えるのが、観測された事象の絶対性、つまAOEです。たとえば、「アリスがスピン上向き状態を観測した」というアリスにとっての事実は、外部の観測者であるボブにとっても事実であり、不変の真理であるという仮定のことです。この設定を図1にまとめました。

ところが拙書『量子情報と時空の物理【第2版】』の第2章2.2節で述べているように、量子力学ではそのAOEは破れています。

ボブにとっては、スピンS+測定機D+アリスAの合成系も、量子力学に従うマクロな量子系です。スピンSが上向き状態で、それをDが上向きと観測し、その結果をアリスである量子系Aが上向きだとDから読み出す状態ベクトルは、

で与えられます。また同様に、Sが下向きで、それをDが下向きと観測し、その結果をアリスである量子系Aが下向きだとDから読み出す状態ベクトルは、ボブにとっては

となります。合成系SDAはマクロですが、これも量子系ですので、(1)式の状態ベクトルと(2)式の状態ベクトルの線形重ね合わせに対応する量子状態も存在しています。これはシュレディンガーの猫の話と同じです。
論文で議論をされているAOEは、アリスの測定結果はボブにとっても「絶対的事実」であるべきであり、Sはボブにとっても上向きか、下向きかのどちらか1つであるべきであるという内容です。しかし、ベル不等式の破れからもわかるように、そのような「絶対的事実」や「絶対的真理」は量子力学には存在しません。
ボブがアリスと相互作用をして測定結果を聞き出す前には、アリスが観測したはずのスピンの上下は、ボブにとっては決まってもいませんし、そもそものアリスの記憶すら、ボブにとっては1つに確定をしていないのです。それはボブが単に知らないというのではなく、ボブにとって、Sのスピンの確定した値も、またアリスの脳の記憶領域の確定した内容も、そもそも存在していないのです。ボブがアリスを観測して、初めてアリスの1つの記憶が創発しますし、スピンSの1つの向きも生まれるのです。アリスが測定したスピンSの値は、ボブにとっては絶対的真理ではないのです。
前述の拙書では、これをボブがSDA系の測定する設定で考えて、ある種の相補性という形での解説をしています。まず、DがSとの相互作用を終え、そしてアリスAがDとの相互作用を終えた後の、ボブにとってのADS系の状態が

となったとします。量子系ですので、各相互作用はボブにとってはユニタリー変換に過ぎませんので、このように合成系の状態ベクトルは書かれます。またスピンの上向き状態ベクトルと下向き状態ベクトルの相対位相を、実数パラメータθを使ってexp(iθ)としています。実験ではθを自由に変えられるのですが、それは最終的にマクロな量子系の重ね合わせの相対位相となって現れます。
ではそのθに関する干渉効果は、どんな物理量の測定で観測できるのでしょうか?その一例が下記の物理量です。

これはSとDとAに跨った、非常にマクロでかつ量子的な物理量です。その観測は、現実の実験ではとても難しいのですが、量子力学の理論体系には入っていて、その物理量の原理的な測定の思考実験は量子力学において正当化されます。この物理量の期待値は、(3)式の状態において

と計算され、確かにθを変えるとこの期待値は変化することが確認できます。この変化がミクロなスピンの上向き状態と下向き状態の重ね合わせから派生した、マクロな干渉効果です。
この(4)式の物理量の理想測定を実行したとすると、その測定後のSDA系の状態は、その2値の測定結果に応じて、

となります。つまり、スピンの値が確定をした(3)式や(4)式の状態では無くなっています。この過程においては、先の論文で議論をされた「観測された事象の絶対性」(AOE)が実際に壊れていることがわかります。これについて、拙書では下記のように解説されています。(なお上の(3)式が、拙書では(2.14)式になっています。)

つまり、ボブがアリス(つまり、A)の測定を先にするときには、確かにボブにとっても、アリスが体験したスピンSの事象の記憶は共有をされます。しかし、ボブがSDA系全体に対して先に(4)式の物理量の測定をして、(5)式の干渉効果を観測してしまうと、その後のSDA系の状態は(6)式の重ね合わせ状態になってしまうので、元々「アリスがボブとの相互作用する前に認知したはずのスピンSの事象」のアリスの記憶も消滅し、最初からやり直しになるのです。つまり「アリスが観測した事象」とは、量子力学では絶対ではないのです。
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