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ヨルシカ『雲になる』解釈 ~『二人称』全体を覆う雲について~

━━では、一体何が好きなんだ、風変りな異邦人よ?
━━僕が好きなのは雲さ……流れて行く雲……あそこに……あそこに……あのすばらしい雲……

シャルル・ボードレール「異邦人」(『パリの憂鬱』より)

はじめに

 私の目の前には一包みの茶封筒がある。封を開けて確認すると、幾通もの手紙が入っているのが見えた。私は、ふとそれに目を通したいという衝動に駆られた。
 2026年2月26日、ヨルシカ『二人称』が発売された。これは世にも珍しい「書簡型小説」といった作品である。形式、文体として手紙という形をとる小説を書簡体小説などと言ったりはするのだが、これを本当に物理的な手紙の形で著したのが書簡型小説『二人称』という作品なのである。震える線や懊悩した消しゴムの跡、書き殴った言葉。手紙というフィジカルの媒体でしか表せない叙述効果、トリックは、経験したことのない未知の鑑賞体験であった。
 小説『二人称』発売に伴い、同年3月4日にヨルシカのデジタルアルバム『二人称』がリリースされた。小説内では、詩を書く少年と文学に詳しい「先生」とのやり取りが描かれており、その詩にメロディを付けた楽曲たちが収録されている。今までにリリースされてきた人気曲『晴る』や『アポリア』なども、この世界観を形作るための一角を為している。

 さて、本稿からはこの『二人称』楽曲についての解釈を施していこうと思う。今までにリリースされた楽曲も収録されており、以前に記事にした曲もいくつかあるが、それも少し推敲とアップデートが出来れば良いなと考えている。手始めに本稿では『雲になる』を解釈していく。といってもこれはなんとも短い詞である。そのため、楽曲のテーマとなっている「雲」について、文学作品を参照しながら論じていきたい。また、今回は発売記念ということで『二人称』を横断的に概観し、「雲」に関するテーマを見ていきたい。ネットに未公開の部分からは直接引用をしないが、『二人称』の内容を含むため、それが気になる人は第三章より後はブラウザバックして欲しい。

文字数の目安:13000字程度


第一章 『雲になる』の雲

 早速ではあるが、『雲になる』を見ていこう。一番の歌詞を引用する。

雲を見ていた 昼の入道雲

私とあなた 畦の夏道
汗を拭う手 風を待つあの

雲になれたらいいのに
雲になれたらいいのに

ヨルシカ『雲になる』(ヨルシカ OFFICIAL SITEより引用)

 一番では、すべての日本人が郷愁を抱くような、田園に湧き立つ入道雲が描かれる。わかりにくい描写は一つとしてない。そのまま受け取ればよいだろう。
 ひとつ指摘しておきたいのが「風」であろうか。風は雲との関係が深い事象であり、文学作品にも多く隣り合わせで詠み込まれてきた。わざわざ例示することのほどでも無いが、一応挙げておこう。百人一首でもおなじみのこの和歌。

  五節のまひひめを見てよめる  よしみねのむねさだ 
天つ風 雲のかよひぢ吹きとぢよ をとめの姿しばしとゞめん

古今集・雑上・872

「五節のまひひめ」とは新嘗祭や大嘗祭に行われる舞楽で舞う少女のこと。その姿を空に舞う天女に喩えたのだ。意訳すると《天に渡る風よ、天女が通る雲の中の通り道を吹いて塞いでしまえ。この少女の舞姿をしばらく留めおこうぞ。》といったところであろうか。この和歌では風は雲を動かす存在であり、その縁深さを端的に示すだろう。
 とはいえ、夏の蒸し暑さに風を待つ、そういったのどかで単純な叙景ととっておくのもよかろう。

 次に二番を見てみよう。

雨の夕焼け 私は海月
土を濡らして
海を降らせた雲になれたらいいのに
雲になれたらいいのに

ヨルシカ『雲になる』前掲

一番とは対象的に海への言及がある。ここで気になるのが「私は海月」という歌詞。おそらくは雨の中に傘を差す自身の姿を、笠を持つような海月に喩えたのであろう。陸に立つ自分の姿を海に浮かぶ海月に喩え、より「海を降らせた」という表現を強調している。
 さて、こちらにも言えるのが「雨」との関係性だ。実は、雲と雨は非常に縁深いのである。例として和歌を……。と、そんなことする必要はないか。

 では次に全体を眺めて、一番と二番を繋ぐものがあるか考えてみよう。真っ先に思い浮かぶのは時間の変化である。一番には「昼の入道雲」、二番には「雨の夕焼け」とある。「雨の夕焼け」は若干想像しづらいが、雨が降りつつも、その雲の薄いところに夕焼けの赤が透けている、といった景色であろう。
 さて、昼にあった入道雲は雨を呼ぶ雲である。からりと晴れた昼、そこから時間が経って夕には雨になってしまった、という時間の流れが容易に理解できる。『二人称』本文 [①,1-3, L6] (特設サイトにて閲覧可能) を見ると、一番の歌詞から「雨を降らせて」というフレーズが削除されていることがわかる。おそらく、時間経過による天気の変化を強調させるために削除したのだろう。

 ではこの雲の移動について考えてみよう。昼には「雲」は入道雲であった。「畦の夏道」とあることから(夏の畦道ではないのが何だか面白い)、田舎の山に湧いた入道雲であることが想像される。それが夕になると、語り手の頭上に垂れ込み、雨を降らせている。雲の移動は基本的に風によって行われるものだ。昼には無風の「風を待つ」状態であったのが、吹き始めた風によって頭上に運ばれてきたのだろう。『二人称』本文 [①,1-3, L12] を見てみると、二番冒頭からは「風上の花」というフレーズが削除されていることがわかる。おそらく風による移動が念頭にあることは確かなのだろう。
 そして、「海」への言及も興味深い。「土を濡らして/海を降らせた雲になれたらいいのに」というフレーズがある。これは海になるほど大量の雨を降らせた、という比喩ともとることができるが、果たしてそうなのだろうか。夕焼けが透けるほどのある程度薄い雲であるから、それは若干考えにくい。ここで昼の雲が風によって移動してきたということを踏まえると、実際に海に差し掛かる雨足を詠み込んだのではないかと解釈できる。そうすると、このフレーズでは陸地(「土を濡らして」)から海へ差し掛かる(「海を降らせた」)、まさにその時を臨場感もって表現したものということになる。
 このように、『雲になる』という短い詩には、刻々と変化し、移動する雲の様子が描かれているのである。

 さらにもう一つ触れておきたいのが、雲と「私」の関わり方だ。語り手は「雲になれたらいいのに」を何度もリフレーンすることにより、その願望を強めている。しかし、天高く存在する雲にはなることができないし、なんなら触れることもできない。それでも確かに雲と「私」を媒介する物がある。それが風と雨である。
 風に関しては、「風を待つ」とあることからこの詩において若干影は薄い。しかし、雲を移動させる風は地上の語り手にも等しく吹き渡る。語り手は、雲への憧れ故、自身と雲とを繋ぐそれを待つのである。
 雨、これは重要だ。雲は循環する物である。雲が雨となり海に降り注ぐ。そして海が蒸発し雲に戻る。そのため、雨は雲から自分への一方的な接触なのではなく、それが蒸発し雲になることにより自分と雲を繋ぐ架け橋とも捉えることもできるのだ。この雨の循環に従って自分も雲になりたいという希望を託した、そのよすがとも言えるのだ。そこで思いやられるのが「私は海月」という比喩。海月は身体のほとんどが水でできている。これはその願いを反映していると言えるだろう。水がいつか雲になれるのなら、より水に近い生物に自分を喩えるのは自然だ。

 一旦これまでの情報をまとめよう。『雲になる』では、時間の流れと雲の移動を重ね合わせて描いている。そこに雲を移動させる風や、雲が形態変化した雨を語り手に接触させることにより、雲の循環に自身を巻き込んでいる。これは雲の循環に加わりたいという願いにほかならず、それこそが「雲になれたらいいのに」という願望を強調している。
 このように、この曲では「雲」への強烈な憧憬が語られている。では、語り手はなぜ雲にあこがれているのだろうか。例えば、全国を行脚し修行する僧を雲水と呼ぶことから、何にも縛られない自由な存在としての雲のイメージは確かにある。他にも西洋の宗教画にはよく雲が描かれている。フランスの哲学者・美術史家であるユベール・ダミッシュ『雲の理論』によると、雲は神の住む天上と我々の住む地上を媒介する装置として描かれているそうだ。雲は身近であるが絶対に触れることができないという性質ゆえ、様々な憧憬を生んできた。次の章からは日本古来の「雲」の関係を整理し、『雲になる』のさらなる精読に努めよう。

第二章 雲の原風景

 日本文学において、雲というのはアイコニックな意味を持っている。まずはその紹介から雲の原風景を辿る旅を始めよう。僕らは今、はるかな時の空を吹き渡る風になるのだ。

・始源の和歌と雲

 古今和歌集は特に紹介をせずとも日本語に親しむ人なら誰しもが名前を知っているだろう。古今集には、それを貫く哲学ともいえる思想を表明した序がある。所謂仮名序と呼ばれるものである。この古今集は初の勅撰和歌集(天皇の命により編まれた、公的な性格を帯びた和歌集)であり、その序においては和歌の国文学としての威厳が強調されている。「和歌やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」という書き出しから始まるこの文章において、和歌の成り立ちが次のように語られている。

この歌、天地あめつちの開けはじまりける時より、いで来にけり。〔…〕ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、すなほにして、ことの心わきがたかりけらし。人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字《みそもじ》あまりひと文字はよみける。すさのをの命は、天照あまてる大神のこのかみなり。と住みたまはむとて、出雲の国に宮造りしたまふ時に、その処に八色やいろの雲のたつを見て、よみたまへるなり。や雲たつ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を。

古今集,仮名序

これによるとどうやら和歌の源流は神世にすでにあったが、それが現在の三十一文字みそひともじの形にまとまったのはスサノヲノミコトに由来するという。出雲国をいざ治めんと国造りをするとき、読んだ和歌が「や雲たつ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」というもの。雲が湧き立ったその状況を読んだのである。言うまでもないが本当にこの和歌がスサノヲによって詠まれたのかというとその真偽はなんとも。だが、長い間この雲の歌が人の世の始源の歌とされてきたという受容の歴史にこそ意味があるだろう。これを踏まえると、雲の様子をテーマにとった『雲になる』という歌が物語の最初の曲として位置しているというのはアイコニックな意味を感じさせる。
 さて、この「や雲たつ」の歌は雲のイメージを考える上で重要な指標を与えてくれる。この歌ではなぜ、今から国造りをするぞというその時に、雲を呑気に眺めているのか。いや、そうではない。恐らく、古代の日本人は雲に霊的なパワーを感じていたからこそ、湧き出でた雲に目を奪われたのではないのだろうか。次に古事記など上代の文献における雲の扱われ方から、古代より通づる雲へのイメージを洗い出していこう。

・古事記における雲

 日本人が抱く雲への憧憬とも呼べるものは、国土創世神話にまで遡ることができる。『古事記』の創世神話には、豊雲野神とよくものかみという神が登場する。これは、神世七代かみよななよという、天地開闢から国産みまでに関わる七代にわたる神々の系譜に属しており、国産みの神話で有名な伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみもこの内に数えられている。その中にあって豊雲野神は二代目の神である。三代目からは男神女神一対の形で登場するのに対し、初代である国之常立神と豊雲野神は独神であり、姿形もなかったとされている。この豊雲野神という神名であるが、新編日本古典文学全集によると、「生気の象徴たる雲がおおう豊かな野」という意味に解される。国之常立神が国土の基盤の安定を象徴する神であったことを加味すると、その次が雲に関わる神であったということには何か重要な意図がありそうだ。神話における雲のイメージについて、犬飼(2000年)は次のように述べている。

日本神話において雲は浮遊するイメージでとらえられた。雲が浮遊することなど誰でも知っていることで、ことごとしく言いたてるまでもないが、要はそれが混沌とした始源の比喩として表現されることにある。浮遊することがになう混沌としたエネルギー、無限の生成力を、人々は雲に対してもうけとめられていたのではないかと思われる。

「雲のイメージ―神話的な発想」犬飼公之
(『天象の万葉集』高岡市万葉歴史館論集(3)、笠間書院・二〇〇〇)

古事記曰くかつて、日本の国土は「稚く浮ける脂の如」であった(余談であるが、この状態は「海月」のようだと例えられている)。犬飼の説は、こうした始源の混沌としたエネルギーを表現するため、それと同じものを浮遊する雲に見出したのではないかというものである。犬飼は続けて、古事記を研究した江戸時代の国学者本居宣長の『古事記伝』を引用する。そこでは豊雲野神の神名について次のように語られている。

雲野クモヌは、字は借字にて、久毛クモは、久牟クム久美クミ久比クヒ許理コリなどゝ通ひて、物の集りる意と、初芽ハジメテキザす意とを兼たる言にて、此ノ二ツノ意又おのづから相通へり。物集り凝りて、物の形は成ルものなればなり。

『古事記伝三之巻』本居宣長

「クモ」という言葉は、物が集まり凝り固まる意味と、何かが初めて兆しを見せる意味を兼ねた言葉であるという。また、国学者の賀茂真淵の語学書『冠辞考』を引いて、次のように述べる。

マコト許母理コモリ久麻クマも、集り凝る意あり。雲も其ノ意にて、本同じ言なるべし。又角久牟ツノグム芽久牟メグム涙久牟ナミダグムなどの久牟クムも、ハジメキザす意にて、凝る意を帯たれば、同言なり。

『古事記伝三之巻』本居宣長

賀茂真淵が指摘した「籠り」と「クミ」も物が集まり凝り固まる意味があるという言に加え、「雲」というのも同じであると説く。また、涙ぐむなどの「クム」もこれに同じだという。
 このように「雲」という語には、始源の混沌としたエネルギーの集まりであるという文脈が織り込まれているのである。

・万葉集や中国思想から見る、大地と雲の結びつき

 先ほど「や雲たつ」の歌に見たように、雲は古くから和歌においても詠み込まれてきた。万葉集にはこのような歌もある。

大き海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲

(万葉集巻七・一〇八九・詠雲)

海に浮かぶ白雲の姿を歌ったものである。簡単に現代語訳をすると、《大きな海には島があるわけではないのに、海原の揺蕩う波の上に湧き立った白雲よ》といったところであろうか。ここで注目させられるのは「島もあらなくに」であろう。これを解釈すると、島がないと雲も立たないといったことになるのだが、これはどういうことなのだろうか。
 松田浩は「『万葉集』の雲 ━━偲ぶよすがとしての「雲」を起点として━━」(2015年)において、「万葉びとにとって、雲は山より空へと湧きあがるものであり、それは大地に繋がるものであった」と述べる。考えてみると、先の豊雲野神も国土の定着に関わっていたことから、雲というのは大地と密接に繋がっていると考えられていた形跡が読み取れる。

 ではこの考え自体はどこから流れ着いたのか。それは漢字の元ネタ国である中国の思想からだと思われる。中国最古の漢字辞典『説文解字』において、「雲」という漢字は「山川の气なり」と説明されている。「气」というのは「氣(気)」の元になった字であり、この「気」という概念は中国において非常に重要な位置を占める。これは霊的生命的なイメージを帯びた大気の概念であり、わかりやすく言えば「息」などとも結びついて人間の原動力にもなるものだ。「山川の气なり」とは、山川に生命が宿っているとし、その吐いた息が雲であるということである。
 『説文解字』が説くように、雲は山川、大地と密接に関わっている。そのため、先の万葉歌では陸地がないのに海に雲が浮かんでいるということを訝しんでいたのだ。

 これはヨルシカ『雲になる』においても有効な指摘になるのではないだろうか。先に触れたように、一番では陸地で立ち上った雲が、二番で海に差し掛かっていた。この移動は、説文解字が示すような雲のイメージを彷彿とさせる。「雲」の意味を明らかにするためにも、もう少し古代の雲の扱われ方を見てみよう。

・和歌に見る、人の魂としての雲

 早速であるが次の和歌を見てほしい。

中将道信朝臣みまかりにけるを、送りをさめての朝によめる 藤原頼孝
思ひかねきのふの空をながむればそれかと見ゆる雲だにもなし

(千載集・哀傷・五五〇)

中将道信朝臣という人の葬儀の翌朝の和歌であるという。昨日の方の空を眺めてみても、「それかと見ゆる雲」は無いのである。この「それかと」が示すのは、雲が人の霊魂として捉えられていたという事実である。葬儀は昨日の夜のことであったから、きっと道信を焼いた煙は雲となって空に浮かんでいるはず。しかしそのような雲はない。道信の霊魂が遠く行ってしまったという事実が、「それかと見ゆる雲だにもなし」なのである。なんとも切ない永遠の別れを詠み込んだ歌である。
 これについて土橋(1965年)は、霊魂が雲、煙、霧などに通じていることは、先程述べた『説文解字』で示された成り立ちに触れつつ、気息霊の観念に媒介されたものであると述べる。そして、様々な文明において、魂の原理などを示す語が呼吸や気息に由来することを指摘している。実際、雲が人の霊魂あるいはその人を偲ぶための拠り所となっているケースは、火葬場の煙のイメージだけでなく他にも事欠かない。

面形おもかたの忘れむしだは大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ

万葉集巻十四・3520

《貴方の面影を忘れてしまいそうなときは広い野にたなびく雲を見て偲びましょう。》
これは遠く離れてしまった人に雲を重ねている。

夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて

古今集・恋歌一・484

《夕暮れ時には雲の果てへと思いを巡らせる。私の手の届かないほど遠い空にいるかのような人を恋うて。》
これはまるで高嶺の花のような手の届かないあの人のことを雲に重ねている。
 このように雲は、大地の息吹と捉えられた過去から霊魂のイメージを引き出し、亡くなってしまった人や遠く離れた人を偲ぶよすがともなっているのである。

第三章 『二人称』の文脈から考える『雲になる』

 ではこれらを踏まえて、『雲になる』における「雲」の位相について考えていこう。詩だけを見ると、単純に雄大なエネルギーをもつ物への憧れであったり、はたまた恋しい人への憧れとも捉えられる。そこは詩が持つ開かれた側面である。どれも間違いではない。では、この『二人称』という物語の始まりの歌であることを踏まえよう。その時、「雲」というのは創作物、あるいは詩のことを示すのではないかと考える。
 詩というのも見方を変えれば「息」あるいは「霊魂」なのではあるまいか。詩は言葉によって構成されている。詩における言葉は詩人の魂から吹かれた息吹であるからだ。そしてその説を補強するかのように、小説『二人称』中では文字だけでなく、歌われるものとしてのメロディへのこだわりが強く存在していた。 実際この詩の書かれた原稿用紙には、楽譜が書き込まれている。歌うものとして、息吹としての言葉に重点を置いていることは間違いない。
 そう考えると、「雲になれたらいいのに」というのは、偉大なる先人たちの残した名作への憧憬と捉えられる。作中で度々言及される少年の引用癖というのはここにかかってくる。素晴らしい名作たちの言葉は確かに自分に接触して心を強く打った。雨というのは名作の中の言葉を示す。しかし、その名作は雲として高く手の触れられない位置にある。だから自分は雨が蒸発して雲に戻るように、その言葉を引用して雲に近づきたいと願うのである。これが、『二人称』における『雲になる』の位置づけである。まさに、全体の展開を示すような詩なのである。

第四章 『二人称』楽曲に登場した雲

 『二人称』文脈における『雲になる』の位置づけが明らかになった。では逆にそれを還元して、『二人称』楽曲全体を、雲という観点から横断的に見てみよう。まだ解釈しきれていない曲のほうが多いから、箇条書き程度に軽くではあるが。

・Tr.2 『花も騒めく』
「お前は微笑む白妙の雲」
」「遠い雲を待ち侘びて/また、上を見る、上を見るのでしょう」

 歌詞中に「今は照るべき月も隠れ/お前だけ光る白妙の袖」とあることから「お前」に雲の姿があてがわれていそうだ。
 サビの「向かい風に乱高下」というフレーズには、風に吹かれる自分だけでなく、風に吹かれる雲の姿も想像できる。また、「お前だけ夏にただ光れ/惑うままに急かされて/また上を見るのでしょう」というフレーズは、先述の雲に憧れの詩を重ねるという立場での読解もできそうである。いずれにせよ「雲」との関係が深そう。

・Tr.4 『プレイシック』
 直接の言及はないものの、雨が降ったり晴れたりと、雲の動きがある曲だ。この曲は、雲へ憧れを抱くというよりは気分が落ち込むものとして雨が選ばれている。
 前に挙げた解釈記事をどうぞ。
ヨルシカ『プレイシック』解釈~群集からの逃避~|疎影

・Tr.7『晴る』
「あの雲も越えてゆけ/遠くまだ遠くまで」
「降り頻る雨でさえ/雲の上では晴る」

 『晴る』リリース時のn-bunaによるコメントを引用しておこう。

徐々に晴れていく空を見ると、よくスクラッチカードを連想しました。コインで銀の部分を擦って模様を出す遊びです。晴れに押し出され削られていく雲が、コインの縁に盛り上がる銀色のくずと似ていました。徐々に銀の面積は減っていって、運が良ければ太陽が見えます。
この曲は晴れを書いた曲です。正確には晴れではない状態から晴れを願う曲です。

UNIVERSAL MUSIC JAPAN「TVアニメ『葬送のフリーレン』新オープニングテーマにヨルシカの新曲「晴る」が決定」n-bunaによるコメント

つまりこれは雲が移動して晴れる様子を描く曲なのである。
 さて、この雲はどのような存在であろうか。その前に簡単に解釈を話そう。この歌詞中において語り手と貴方の間ではとんでもなく距離が開いてしまっている。「何を思っているんだろうか」「何が悲しいのだろうか」などと、少なくとも語り手にとって「貴方」は大事な存在ではありそうなのだが、そこに生じる不理解が描かれているのだ。あり得る状況として、語り手が既に亡くなっており、悲しみの内に残された「貴方」の晴れを願う歌であると解釈している。
 では、この楽曲における雲は、誰かを偲ぶよすがとしての雲であろう。「あの雲も越えてゆけ」とは、死んだ自分(=雲)を忘れて安らぎの中に生きてほしいということなのだろう。なんて切ない。
ちなみに前に記事にしたことがあるのだが、恥ずかしいので乗せません。

・Tr.8『忘れてください』
直接の言及はない。しかし、「揺れる髪だけ靡くままにして」というのは風との関わりを想起させる。
おそらくここで風が示すのは、時間の経過であろう。風が雲を運ぶように、「君」の中での私の存在も薄れていってほしい、ということだ。その点では前トラック『晴る』との関係性も良好。

・Tr.9『修羅』
 大いに関係あり。直接の言及はないものの、引用元となっている宮沢賢治は雲を見つめ続けた詩人であった。直接引用されている賢治の心象スケッチ「春と修羅」には雲が何度も登場する。

    まことのことばはうしなはれ
   雲はちぎれてそらをとぶ
  ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

宮沢賢治「春と修羅」

 また、賢治は岩手の国民高等学校で農民芸術に関する講座を担当していた。その綱要には「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」というフレーズがある。雲の雄大なエネルギーを鋭敏に感じ取った賢治らしい言葉だと思う。
 さて、『修羅』と雲との関係性は次の記事に詳しく考察している。簡単に述べると、おそらくこの歌詞においては雲に自身の姿が投影されているのではないかというのが自分の解釈である。
ヨルシカ『修羅』解釈〜雲と修羅〜|疎影

・Tr.12『火葬』
 これも直接言及されていないものの、関係大あり。先に述べたように、雲はもともと霊魂のイメージをもつものではあるが、直接人を焼いた火葬場の煙・雲はより強くそのイメージをもつ。このことは、先に挙げた藤原頼孝の「思ひかね…」の歌に確認した。また、『二人称』中でも触れられている。
 さて、歌詞には「私が燃えてしまうまで」とある。自分が煙になるのを願うというのは、まま「雲になれたらいいのに」と同じ構図に他ならない。また、創作についての言及があるから、雲と創作物を結びつけるのにも頷ける。だがそのスタンスが正反対であるのは興味深い。『雲になる』では他者であるところの雲は憧れの対象であった。しかし『火葬』の「私の創造にある/私の信仰の無さ/私以外の煙たさ」というフレーズでは、他者の存在は文字通り煙たがられている。少年の引用癖についての考えの変化を物語っているといえる。

・Tr.14『へび』
「行方知らずのあの雲の下」
「また巫山の雲を見たいだけ」

 この曲は元稹の漢詩を引用している。「曽て滄海を経たれば水と為し難し 巫山を除却すれば是雲ならず」。一度広い海や巫山にたなびく高い雲を見てしまえば、その他のものでは満足できなくなるといった意味だ。また、この詩は『文選』「高唐賦」の内容を参照している。これについては、以下の記事を参照していただきたい。
ヨルシカ『へび』解釈(序章) ~典拠の解読~ |疎影
 この詩において、雲とは遠く離れてしまった誰かのことをさす。人を偲ぶよすがとしての雲の系譜である。
ヨルシカ『へび』解釈 ~へびの夢~|疎影

・Tr.15『うめき』
直接の言及はない。一つ気になるのが「幽霊」という表現。これも霊魂のイメージとしての雲を想起させる。

・Tr.16『啄木鳥』
「雲が立つ 立つ木の葉の/数を歌えばいいのか」
「雲が立つ その行方も/全て覚えているのに」

 行方も覚えている、とはどういうことなのだろうか。配信されてまだ日が浅く、解釈に至っていない。

・Tr.17『ヒッチコック』
「ただ夏の匂いに目を瞑って、/雲の高さを指で描こう。」
 この場合の雲は、あの頃の懐かしい夏を偲ぶよすがとしての雲のように感じる。

・Tr.19『千鳥』
「雲が私を呼んでいる」
「ふいに吹く青風 雲の稜線/私このまま死んでしまいそうだな」

 この曲は、雲との関係性を論じる上でなんともアイコニックな意味を持つ。『雲になる』における雲は憧れの存在であり、触れられない。そのため雨の循環に自分を託し、雲になりたいという切なる思いを歌うのみであった。しかし、『千鳥』においては違う。風も雲も、「私を呼んでいる」のである。これは『二人称』において、重大なテーマを担っているといえる。
概要欄には次のようにある。

初めてでした。引用をするために言葉を探すんじゃなくて、今の僕の心を表すために、言葉を探して、引用したんです。
本当に、これが初めてだったんです。

「ヨルシカ - 千鳥(OFFICIAL VIDEO) 」概要欄より引用

「雲」が憧れの創作物と捉えられることは先に確認した。『雲になる』ではただ触れられないものとして憧れるだけであった。そのため、雲が降らした言葉を引用してそれに近づこうとしていた。しかし、『千鳥』においてはただ憧れに近づくためではなく、自分の心を表す為に引用という方法が選ばれたのだ。それが、風や雲が「私を呼んでいる」ということなのである。
 世界観と重厚に絡みついた良い詩であると思う。

・Tr.20『櫂』
 直接の言及はない。しかし、「私が離れた 幽体離脱」というのは例によって霊魂との結びつきを示すだろう。
 『千鳥』において初めて、自分の心を表すための詩を得た。それは海に出るようなものだと思う。先に、陸が近くにないのに海に雲が浮かぶことを訝しむ万葉の和歌を挙げた。海を行く雲は、陸地という自分の母体を失った不安定な存在なのである。これと同じで、憧れた文学作品という母体を離れ、一人表現の海原へ旅立つのである。
 『千鳥』に続き『二人称』のテーマを受け、ラストを飾る曲として最もふさわしいと思う。

まとめ

 『雲になる』では、語り手が雲に憧れる様子が描かれた。語り手の中で雲は遠く触れることができない憧れの存在である。そのため、風や雨などの雲と私を媒介する物を通じてその憧れを吐露している。
 雲のもつイメージを辿っていくと、息吹や霊魂などが重ねられてきたことがわかる。そこから『雲になる』においては、口から発する言葉、息吹としての詩のイメージが重ねられていることが指摘できる。小説『二人称』で述べられた、メロディへのこだわりはそれを強調するためだろう。そう考えると、『雲になる』の「雲」とは憧れの創作物のことを示す。それを構成する言葉は「雨」とも捉えられる。雨が循環して雲になるように、憧れの作品の言葉を使って憧れの作品に近づけようとする主人公の引用癖の暗示もしている。
 小説『二人称』における「雲」を見ると、主人公が引用癖から抜け出していくその過程を見ることができる。

後書き

 こんなに短い詩で、こんな文字数になるんだと自分でもびっくりしています。しかし全体に跨る断想も出来たので、満足。
 ちなみに、今回のアルバムにトランペットのパートが多いのも、雲あるいは息吹を意識した結果なのではないかと思います。似たようなことは直近でもあって、『茜』では心を揺らすことがテーマになっていたのですが、二胡という弦楽器が採用されていましたね。
 次は『花も騒めく』を解釈したいと思っております。資料集めにも時間はかかりますので、気長に待っていてください。

参考文献リスト

・ヨルシカの歌詞の引用は、すべてヨルシカOFFICIAL SITEの「LYRIC」から行っている。
ヨルシカ OFFICIAL SITE

・『世界詩人全集 第七 ボードレール詩集』佐藤朔 訳(新潮社、1968年)

・古今集からの引用は全て、岩波文庫『古今和歌集』佐伯梅友校注(1981年1月 第一刷)から行った。

・古事記からの引用は全て、新編日本古典文学全集『古事記』山口佳紀、神野志隆光 校注・訳(小学館、1997年6月)から行った。

・「雲のイメージ―神話的な発想」犬飼公之(所収は『天象の万葉集』高岡市万葉歴史館論集(3)、笠間書院、2000年)

・『古事記伝 (一)』本居宣長 撰、倉野憲治 校訂(岩波書店、1940年8月)

・万葉集からの引用は全て、『万葉集全注 巻第七』(渡瀬昌忠著、有斐閣、1985年8月)から行った。

・「『万葉集』の雲 ――偲ぶよすがとしての「雲」を起点として――」 松田浩(所収は『天空の文学史 雲・雪・風・雨』鈴木健一編、三弥井書店、2015年2月)

・『古代歌謡と儀礼の研究』土橋寛、岩波書店、1965年

・UNIVERSAL MUSIC JAPAN「TVアニメ『葬送のフリーレン』新オープニングテーマにヨルシカの新曲「晴る」が決定」n-bunaによるコメントを引用
TVアニメ『葬送のフリーレン』新オープニングテーマにヨルシカの新曲「晴る」が決定 - ヨルシカ

・宮沢賢治「春と修羅」の引用は『宮沢賢治全集1』(ちくま文庫、1986年2月)より行った。

・「ヨルシカ - 千鳥(OFFICIAL VIDEO)」概要欄より引用
ヨルシカ - 千鳥(OFFICIAL VIDEO)



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