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ヨルシカ『プレイシック』解釈 ~群集からの逃避~

全部嫌になった!

 僕たちは憂いた。『プレイシック』を起用したCM公開からフル尺リリースまでの時の長さを。CMが公開されたのが2025年7月1日、まだ暑い夏の日。そして焦らしに焦らされ、2025年12月22日あの寒い冬の日。ようやく我々の手元にやってきたのだ。さて、CMで断片的に、それも曖昧な状態で聞いていた頃は海辺を走る車の映像と相まって、夏らしいひたすら爽やかな歌との印象を受けた。

晴れの合間に
街を歩いてるみたい
ほらね、雨が止んだぜ
これさアカペラみたいだね

ヨルシカ『プレイシック』(Uta-Netより引用)

止まない雨はない、使い古された陳腐な常套句ではあるが、なんとも可愛らしいではないか。だがフル尺が公開された時、それはガラリと印象を変えたのだった。

全部嫌になるくらい
露骨なリピートで

ヨルシカ『プレイシック』前掲

そうだった。この歌詞を書いているのはそういう人であった。憂いの雨が晴れたという単純な喜びなんかではない。その晴れはいつしか雨にかわり、またそれが晴れ、さらに降り、また晴れ…。天候の変化に一喜一憂するのではなく、全体を包括した「露骨なリピート」と捉え、「全部嫌になるくらい」だと愚痴をこぼしたのであった。
 さて、ここでこの曲にも陳腐ではない面白みが出てきた。やけっぱちの皮肉、裏返しとも言えるこの「露骨なリピート」というテーマから『プレイシック』の歌詞について考えていこう。

文字数:約12000字


第一章 「露骨なリピート」と「間」

 さて、冒頭にも述べた「露骨なリピート」というテーマは全体を通して言及されている。例えば二番Aメロ「僕たちの憂いは/なんて言うか、針みたい」という比喩。針は何度も布の裏表を出たり入ったり繰り返し進んでいく。まさに「露骨なリピート」のために選ばれた比喩であると言えるだろう。だがこの曲のテーマはその一本槍ではない。「リピート」に関連して、「間」という概念が重要視されているのだ。各サビを見てみよう。この曲のサビにあたる部分には、露骨なほどに「間」に関わる語が多用されている。

・晴れの合間に/街を歩いてるみたい(一番サビ)
・人と人の隙間を君と、いびつなクロールでね(二番サビ)
・日々と日々の隙間で/たまに引く風邪にたいにね(大サビ①)
・ただの昼間に/街を歩いてるみたい(大サビ②)

ヨルシカ『プレイシック』前掲
本文中「/」は改行位置、文末に歌詞構成における位置を表記

「晴れの合間」「ただの昼間」の二つと、「隙間」の例二つの間にはやや意味の逕庭があるものの、どちらも「間」というワードへの意識が垣間見える。どれも言い回しとしては小洒落た感じがして全く不自然ではないが、ここまで意識的に用いられているとなるとテーマ性を感じざるをえない。また、この歌詞に対応するメロディも特徴的である。「あい・・まに…」のようにゆったりとした拍使いで、十分な「間」を使っているのだ。
 考えてみると、「リピート」は絶え間なく続くものであるが、その一セットと一セットの接続には必ず「間」があるといえる。「リピート」と「間」は切っても切り離せない存在なのだ。ではこの「リピート」と「間」というテーマは、どのように内容面に現像されているのだろうか。

・雨と晴れのリピート

 冒頭に軽く触れたとおり、この曲では天候の変化に一喜一憂するのではなく、その絶えず変化する様子を「リピート」と捉えた。その構造をまとめよう。一番Aメロでの天気の言及は次のとおり。

明日は晴れますかね
それよりやっぱり、何処かへ行きませんか

ヨルシカ『プレイシック』前掲

「明日は…」という借問が置かれていることから、おそらく現時点では雨が降っているということが推測される。そこからサビに次のようにつながっていく。

晴れの合間に
街を歩いてるみたい
ほらね、雨が止んだぜ

ヨルシカ『プレイシック』前掲

雨が降っているのにも関わらず外出した語り手。ここで否が応でも注目されるのは、雨の街の様相を「晴れの合間に/街を歩いているみたい」と形容したということであろう。雨を、真逆の天候である晴れによって例える、それは一歩踏み出せばノンセンスに近い表現であるようだが、それはこの曲を通じて近いことが行われている。次は二番のAメロだ。

明日は雨ですかね
それより咲いた向日葵を探しませんか

ヨルシカ『プレイシック』前掲

向日葵は日光を最大限に浴びるため、常に太陽の方向を向く、なんてのはその当てられた漢字にも書いてあるとおりだ。一方雨の日には日光が不足するため、下を向くという。せっかく咲いた向日葵を探すのなら、しゃんと上を向いた晴れの日の探すほうがよいのではないだろうか。
 さらには次のような表現もある。大サビより。

晴れに傘を掲げて
僕ら祈ってるみたい

ヨルシカ『プレイシック』前掲

これは一番とは全く逆の状況である。一番は雨なのにも関わらず晴れの日のように外出したが、ここでは晴れているのにも関わらず雨が降っているかのように傘を掲げたのである。天候と逆のことをする、これはどういったことなのだろうか。
 これはリピートの「間」を曖昧にする行為と捉えられないだろうか。晴れに傘というのは、晴れと雨との境界線、「間」を揺るがす行為とも言える。雨なのに晴れであるかのように出かける、雨に向日葵を探す、というのも同様である。晴れたら晴れのように振る舞い、雨が降ったらそのように振る舞うのではなく、あえて逆の行為をすることで機械的に訪れる「リピート」から逃避する。これが目的なのではないだろうか。
 このような、「間」を曖昧にして「リピート」から逃避するという行動は別のファクターによっても発見されるのだ。さらに深く潜って例を探しませんか。

・一日のリピート

 二番冒頭では「眠った 起きた」とある。これはまさに一日の変わり目を示している。それだけではない。二番ではまさに一日の折ふしが時系列順に描かれている。次の表現に着目したい。

恋をしていました
切れかけの電球に

月の灯りで
街を泳いでるみたい

ヨルシカ『プレイシック』前掲

注目すべきは「月の灯り」という表現である。通常なら「月の明かり」とするのが一般的だ。「灯り」を使う表現も無くはないが、使用には確固たる理由が求められる。ここで、「灯り」と「明かり」のニュアンスの違いについて確認しよう。「明」の成り立ちは以下のとおり。

「□*(=まど)」と「月(=つき)」とから成る。照ってあかるい。

*変換不可。「四」の中に「口」が入っている。「窓」の本字と思われる。
『新明解現代漢和辞典』三省堂 2016年3月1日 第五刷

「灯」及び「燈」(「灯」の旧字体)の成り立ちは以下のとおり。

「火(=ひ)」と、音「丁」とから成る。はげしい火。

『新明解現代漢和辞典』前掲

「火(=ひ)」と、音「登」とから成る。油皿のついた、火をともす道具。派生して「ともしび」の意。

『新明解現代漢和辞典』前掲

ここから「明」のほうは、より一般的な、光が当たっていて明るい状況を指すことが多い。一方「灯」の方は、「灯火」「灯台」などと人工的な照明装置を表すニュアンスが強い。このことから、「月の灯り」とは、月をあたかも家の照明電球や街灯のようなモノとして例えていることになる。そこで顧みられるべきは前文、「切れかけの電球」。ここにおいて「電球」とは夕刻に沈みゆく斜陽のことを指すようになるのである。
 このように、二番では「眠った 起きた」により朝が示され、「切れかけの電球」という比喩から「月の灯り」という表現に繋ぐことにより、夕刻から夜にかけての時間の変化が認められるのである。

 さて、ここで確認された一日の「間」を曖昧にする行為を探してみよう。そのためには、昼に行われるべき行為、夜に行われるべき行為の定義が不可欠である。晴れと雨の場合は外出するか否かということで直感的に分かり易いが、昼と夜の場合は人によってルーチンはバラバラ。そのため、歌詞の中からその定義を探すべきなのである。さて、二番サビでは、夜に取るべき行動に関する定義がされたのだが、聡明な読者は既に気付いたであろうか。夜に取るべき行動は、即ち外出なのである。
 ここでは月灯りが注ぐ街の様子が描かれたのだが、そこにはとある物が蔓延っていた。群集である。「人と人の隙間」とあり、それを進むのに「僕たち」は「いびつなクロール」で不器用に進まなければならない。このことから、夜の街には相当な数の人がいることが予想される。そして多数の群集がとる行動こそ、夜に行われるべき行動の定義と言えるだろう。もう少し詳しく考えよう。この群集は夜に集まって何をしているのか。蓋し帰宅であろう。会社や学校が終わり、それぞれの夜の街を歩く。この”街を歩く”という行為が夜にすべき行為なのである。
 では逆に昼にするべき行為は何なのか。これは夜の行為をひっくり返せばよい。つまり会社や学校など、屋内にいることだ。これを踏まえて「間」を曖昧にする行為を読み取っていこう。
 大サビには「ただの昼間に/街を歩いてるみたい」とある。これ単体ではなんともないフレーズであるが、先の昼と夜にすべき行為を思い出すと、「ただの」に込められた、ややもすればやけっぱちな反骨精神が見て取れるだろう。昼には就業すべし、日が暮れたら街を歩いて帰宅すべし、寝てまた起きたら就業すべし。そういった群集のぞっとするような「リピート」に抵抗し、あえて「ただの昼間」に「街を歩」くのである。これこそが、昼と夜との「間」を曖昧にする行為なのである。
 そして先に触れた「電球」の比喩もただ斜陽を表しただけのものではないということに気がつくだろう。これも「間」を曖昧にして「リピート」を逃避する存在の象徴である。電球も着いては消えてのリピートを繰り返す物で、「切れかけの電球」とはその着く・消えるの間を曖昧にするものである。このフレーズは、与えられた文脈の中で読むと斜陽への恋慕を表し、そしてさらにはリピートからの逃避行動全体への恋慕を包括したものであるとも捉えられるのだ。
 さて、話はすこし脱線したが、一日の中に現れた群集のリピートは次の項目からも読み取れる。

・週のリピート

 これまでは一日の時間の変化が読み取ったが、週の変化も示唆するような語が存在している。

月曜日の僕ら晴れやか
いわゆる仮病でね

ヨルシカ『プレイシック』前掲

「月曜日」は週の変わり目として普遍的なイメージを持つ。土日の休みが終わり、各々学業や仕事を再開する。そのため月曜日には憂鬱なイメージが持たれており、「ブルー・マンデー」などと呼ばれる。日本でも「サザエさん症候群」なる俗称はあまりにも有名であろう。
 先には群集がとるべき一日のリピートが述べられていたが、週もリピートの例として挙げられる。つまりそれは出勤と休みのリピートである。月から金まで働いて、土日休んでまた働いて。日曜から月曜日への移行は、まさにリピートの「間」に当たる時である。そしてそのリピートから逃避するために語り手が用いたのが「仮病」、タイトルにある「プレイシック」なのである。これは出勤と休みの「間」を曖昧にする行為といえよう。

 この点に関して、この歌詞は構造的に整理されているといえる。「日」曜日と「月」曜日、「日」が出る昼と「月」が出る夜、というふうに歌詞の中での移行の放物線が重なっている。そして共通して「月」が付く方は語り手にとって疎ましいものである。もちろん最大の嫌悪は「リピート」へ向けられているとはいえ、語り手の嫌悪はもう一つ、リピートの象徴とも言える群集に向かうのである。
 この群集への嫌悪というのは次のような箇所から読み取れる。先に述べたように語り手の行動が、雨に外出する、雨に向日葵を探す、平日の昼間に外出するなど群集から敢えて遠ざかっていることからそれがわかるのだ。また、群集の姿が描かれた二番の終わりが「全部嫌になるくらい!」となっており、一番の終わり「全部嫌になるくらい/露骨なリピートで」とは異なっている。その「嫌」の理由がリピートだけではなく群集の方へ向いていることは明らかであろう。このように嫌悪が向けられる群集が集まる日が「月」が付く時なのだ。月曜日には仕事・学校が始まり、群集の中に参加することが強制される。さらに月が照らす夜には帰宅ラッシュがあり、群集が集まっていた。
 このように、この歌詞の全体を通して、日から月への移行が意識されているのである。そして群集への嫌悪というテーマも絡み、それぞれの役割が整えられていたのだ。

 さて、この章をまとめよう。この曲の主題は「間」を曖昧にすることによって「リピート」から逃避するということであった。そして語り手の嫌悪はもう一つ、リピートの象徴ともいえる群集に向けられている。内容面から述べると、この曲のテーマは大体掴めたであろう。しかしその形式の面からもう一つ注目すべき点があるのだ。

第二章 「みたい」

 歌詞全体を俯瞰すると、やたらと多いある言葉が目に付く。それが「みたい」である。いわゆる直喩の際に使われるキーワードである。実際に羅列してみよう。

・38℃の体温みたい
・晴れの合間に/街を歩いてるみたい
・これさアカペラみたいだね
・なんて言うか、針みたい
・月の灯りで/街を泳いでるみたい
・晴れに傘を掲げて/僕ら祈ってるみたい
・日々と日々の隙間で/たまに引く風邪みたいにね
・ただの昼間に/街を歩いてるみたい
・これさアカペラみたいだね

ヨルシカ『プレイシック』前掲
太字は引用者による

 ご覧の通り、明らかに直喩が多用されている。いや、されすぎている。これには一体どのような狙いがあったのだろうか。それこそが今までに論じてきた主題、「間」を曖昧にするということに繋がるのだ。
 比喩とは、ある物と、それとは別の物を取り合わせてそれらの共通点を引き立てる修辞である。それなら「間」を曖昧にする、というのは不適切なのではないかという問いがあがるのは最もだ。なぜなら、物と物の間に明確な架け橋をつなげることこそが比喩だからである。それこそ「38℃の体温みたい」「針みたい」「アカペラみたい」などは、それぞれ嫌悪感やリピート、一人でいることを豊かに、的確に表した表現であり、間を曖昧にするということとは趣向が異なるだろう。では、これらの表現は何を曖昧にしているのか。それは、実景と心象との間である。もう一度、一番の歌詞を見てみよう。

明日は晴れますかね
それよりやっぱり、何処かへ行きませんか
〔…〕
晴れの合間に
街を歩いてるみたい
ほらね、雨が止んだぜ
これさアカペラみたいだね

ヨルシカ『プレイシック』前掲
太字は引用者による

雨が降っているのにも関わらず、「何処かへ行きませんか」と提案した語り手。そして問題なのが次の「晴れの合間に/街を歩いてるみたい」という歌詞である。雨が降っている状況なのに、それを真逆の状態である「晴れ」と例えるのは全くおかしいではないか。だがこれに対する解答は、既に論じてきた通りである。群集から逃避することによって、晴れやかな気持ちを得る、これこそが「晴れの合間」と例えられたのだった。そうなってくると、続きの「雨が止んだぜ」の意味も曖昧になってくる。現実の雨が止んだのか、心の雨が止んだのか、あるいはそのどちらもか。
 ここで実景と心象の間を曖昧にする、ということの意味がわかったであろう。実景では雨が降っている。しかし私の心は晴れやか、という修辞によるずらしを挿入することによって、真逆の物をつなぎとめることに成功したのである。そして、このことによって群集とは真逆の動きをする語り手の行為、そしてその理想自体を象徴したと言ってもよいだろう。
 他の例ではどうだろうか。「月の灯りで/街を泳いでるみたい」も実景と心象の間を曖昧にする表現として数えられるだろう。ここだけ「歩いてる」ではなく「泳いでる」となっていることは注意するべきである。地に足がついているのではなく「泳いでる」ということは、水の中のように浮かんでいるということ。つまり、群集から”浮いて”しまっていることと解釈できないだろうか。実際には夜の街の群集の中に混じっている語り手であるが、その心は群集の誰にも交わらず、”浮いて”しまっているのだ。ここにも実景と心象のずらしが存在するのである。

 このように、「みたいに」という表現を精査していくと、ただ似ているものを比喩として並べたというものだけでなく、実景とは一見真逆の心象の動きを表し、それによって群集と真逆の行為をする語り手の姿を象徴しているものもあることがわかるのだ。そしてそれによって群集と真逆の行為をする自分自身を理想化しているといえる。これは今までに述べてきたテーマ、「間」を曖昧にすることにつながってくるのだ。


「みたいに」に関して、あるいはこれとは別の大胆な読みも可能である。それは、全く街には出ていないという読み方だ。「街を歩いてる」こと自体が比喩に含まれると解釈すれば、この歌詞は、現実では全く動いていない語り手の心象の動き、つまり理想を表したものとなる。「みたいに」は現実と理想の「間」を曖昧にするキーワードとなるわけである。だが、その読みをするには全く動いていない語り手の居場所・時が明確に表されるべきであり、この歌詞のみからはそれは読み取れない。あくまで可能性の話である。

第三章 群集

 話は少し変わる。アルバム『二人称』に収録される曲は、文学作品との関連が示唆されてきた。例えば『火星人』では萩原朔太郎の「猫」、『へび』では元稹の「離思」、『修羅』では宮沢賢治の『春と修羅』など。だが、2026年1月28日時点、『プレイシック』にそのような関係の文学作品は明かされていない。それについて少し考えてみよう。 
 さて、ここまでの論で敢えて多用した表現がある。それが「群集」というワードである。歌詞中には一度も登場しない語であるのだが、明らかにそれが意識されていることは今までに語ってきた。文学好きの方なら、「群集」というキーワードでぴんとくるのではないだろうか。萩原朔太郎の「群集の中を求めて歩く」という詩がある。
 この詩は大正6年6月「感情」という雑誌に発表され、大正12年1月の朔太郎の第二詩集『青猫』に掲載された。朔太郎は生涯にわたってこのテクストを推敲し続けたため異同が大量に存在するのだが、ここでは『青猫』版を全文引用しておこう。

私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか
みよこの群集のながれてゆくありさまを
ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない
ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか
ああ このおほひなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。
うらがなしい春の日のたそがれどき
このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれ行かうとするのか
私のかなしい憂愁をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
浪の行方は地平にけぶる
ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。

萩原朔太郎「群集の中を求めて歩く」
(引用は『萩原朔太郎全詩集』筑摩書房 1979年による)

 この詩は近代になって成立した「群集」という観念を取り扱った作として名高い。「群集」とは近代の都市において誕生した。というのも村落共同体は人と人との距離が近いが、近代の都市はお互いに無知・無関心の人間が寄り集まった場所であるからだ。安(1998)は、「群集」を扱う日露戦争以後の詩作品を整理し、その扱われ方について三つの傾向を指摘した。一つは群集との一体感をうたうもの(三木露風「こゝろよき群」など)、二つ目に群集の中の孤独をうたうもの(河井醉茗「消えゆく日記」など)、そして最後に「群集の外にあって、群集のなかに紛れ込みたいというモティーフ」である。最後の項目には、啄木の短歌「浅草の夜のにぎはいに/まぎれ入り/まぎれ出で来し さびしき心」(引用者注:「/」は行分け)や三富朽葉「のぞみ」などが挙げられるが、朔太郎の該詩もこのモチーフをとるものである。
 この詩は全体として「群集のなかに紛れ込みたい」ということをうたうことに全く疑いの余地はない。「私はいつも都会をもとめる/都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる」という最初の二行においてそのスタンスは示されている。他にも、この詩においては同じ形容詞の重複使用が見られる。個人の感情については「ものがなしき春のたそがれどき」「憂ひと悲しみ」「私のかなしい憂愁」などと「かなしい」が使われ、群集については「群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか」「たのしき日影」「たのしき浪」などと「楽しい」が使われている。この重複使用を稚拙だとする評価もあるが、それは置くとしても個人に悲しみ、群集に楽しみが見出されていることには注目せざるをえない。さらに、朔太郎自身は後年次のように述べている。

 げに都会の生活の自由さは群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の単位であつて、しかも全体としての総合した意志をもつてる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全体の動く意志の中で、私がまた物を考へ、為し、味ひ、人々と共に楽しんで居る。心のいたく疲れた人、重い悩みに苦しむ人、わけても孤独を寂しむ人、孤独を愛する人によつて、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。

萩原朔太郎『絶望の逃走』より「群集の中に居て」
引用は『絶望の逃走』1935年 第一書房による

このように群集にこそ「自由」を求めるという考えは生涯を通して変わっていないのだ。これは朔太郎が前橋の(当時は)田舎出身であったことも関係しているだろう。実際に該詩が書かれた時期は上京前であり、まさに外部からの都会・群集への憧れをうたった詩であるといえよう。

 さて、朔太郎の詩と『プレイシック』を比較し、共通点と相違点を述べていこう。まずは一致する点として、群集を「浪」のように捉えたというところが挙げられる。『プレイシック』では「月の灯りで/街を泳いでるみたい/人と人の隙間を君と、いびつなクロールでね」と表現している。これはまさに群集を浪のように表現した朔太郎と発想の一致が見られる。また、眼前にない理想に思いを馳せるという点でも共通している。朔太郎が田舎から都会を夢見てこの詩を書いたことは先述したとおりだ。『プレイシック』も、前章で述べたとおり、現在は「憂い」の状態にありながら真逆の状態である理想を述べるという点でスタイルが同じである。共通点といえばこれくらいであるが、朔太郎とのリンクはむしろ相違点によって強調される。
 これらの詩の相違点は、まさに真逆のスタンスであろう。朔太郎は群集を求め、『プレイシック』は群集から離れる。朔太郎は群集に「自由」を見出し、『プレイシック』は群集に嫌になるほどの「リピート」、つまり強制を見出す。朔太郎は群集の外部者であったが、『プレイシック』は群集の内部者であった。これほど真逆の設定であるということは、それほど強く朔太郎を意識した歌詞であるといえよう。

 このような理由から、『プレイシック』は朔太郎の「群集の中を求めて歩く」を意識した作品なのではないかと考える。そして朔太郎とは真逆の価値観から語られており、まさに正反対の作品、ともすればアンチテーゼと言える作品となっているのだ。

第四章 「僕たち」

 さて、以上を踏まえた上で、最後に『プレイシック』の語り手について考えていきたい。この歌詞において、一人称はすべて「僕たち」および「僕ら」なのである。これは『プレイシック』の歌詞において最も解釈がしづらい部分である。なぜなら、すべての行動が「僕」と他の誰かの行動であるのだが、すべての行動がぴったりと同じだからである。またそれによって当の他の誰かの意志や姿形が見えてこないのである。一度、二番サビにおいて「君」が確認されるが、これも語り手と同じ行動をしているため、その姿にガウスがかかったままである。これについて、現時点で私は完璧な解釈を得ていないのだが、二つの仮説を立ててみた。
①「僕」(=語り手)と、文章の読み手である「君」
②僕(=語り手)と、僕の影(自分自身)である「君」
順に解説を付そう。

①「僕」(=語り手)と、文章の読み手である「君」

 この歌詞に一部丁寧語が用いられていたり、呼びかけが存在することに注目した。例えば「それよりやっぱり、何処かへ行きませんか」や、「ほらね、雨が止んだぜ」など。このことから、これは特定の誰かに見せるための文章、あるいはセリフとして描かれているのではないかと考えた。そうすると、読み手は語り手の視覚を共有することになる。また、この歌詞が実景とは異なる心象の動き・理想を述べたものだということは先に確認したとおりであるが、語り手の展開する理想の中で、読み手は語り手と行動を共にすることが可能なのだ。
 こうすることで、「僕」とその他の人が常に意志と行動を共にしているということに説明がつくようになる。そして「恋をしていました/あの頃の僕たちに」というフレーズにも説明がつくようになる。「僕たち」の関係が「露骨なリピート」つまりマンネリズムに陥ってしまったことを嘆き、出会いたての刺激的な関係に憧れた。そして、そんな貴方と共にこのリピートから抜け出していきたい、という趣旨の歌になる。

②僕(=語り手)と、僕の影(自分自身)である「君」

 これはやや突飛な説であるが、萩原朔太郎との関連があるのだったら捨てきれない線ではあると思う。朔太郎の第一詩集である『月に吠える』では、ドッペルゲンガー的な不気味さが表現されていた。これについては次の拙著、第三章に詳しく(そんなに詳しくもない)書いてある。
ヨルシカ「火星人」解釈 〜孤独なランデヴー〜|疎影
簡単に要約すると、犬が月に照らされて出来た自分の影を怪しみ吠えるように、朔太郎も自身の影(自身の過去などを意味するのだろうか)に不気味な視線を感じるのである。これがドッペルゲンガー的な不気味さというものだ。そしてヨルシカ『火星人』においては、語り手の自分と、対象化されたもう一人の自分がいるということを先のnoteに書いた。これと同じようなことが『プレイシック』にも考えられるのではないか、という主張である。
 自身の影ならば、語り手と常に行動を共にしているということに頷ける。といっても、一度登場する「君」はどう処理するか。この「君」が登場する文脈には「月」が揃って登場したことを考えればよい。つまり、「君」とは月影に黒黒と浮かんだ自身の影のことである(朔太郎イズム)。一番までで描かれるのは雨が降る街中であり、その影も薄かったと想像される。皓々とした月に照らされてはじめて、自身の影が浮き彫りになったのだ。このように解釈すれば、「アカペラ」という表現にも納得がいく。そもそもが一人の人間であるから、雨が止んで凪いだ街において一人歩けば、それは「アカペラ」になるだろう。
 さて、こちらの場合の「恋をしていました」であるが、これは『火星人』のように創作のことと捉えられる。創作を始めたての何もかもが楽しかったあの頃に「恋をして」いるのだ。一方現在では自身の創作活動にマンネリズムを覚えており、一人群集からはみ出すことによってそれを解消しようとする。その理想をうたった曲ということになるだろう。

 現時点ではどちらも正しいように思えてしまう。これはアルバム『二人称』によって明らかになるだろう。それまではこの二つの説の「間」を曖昧にしておこう。

まとめ

 『プレイシック』は、全体として「リピート」によるマンネリズムへの嫌悪、そしてそのリピートの「間」を曖昧にすることによって「リピート」から逃避したい、という願望をうたった曲である。また、その「リピート」を象徴するものとして、群集が意識されていた。語り手は群集から離れていくことによって、リピートからの逃避を図っている。
 歌詞の「僕たち」であるが、これは二通りの解釈が考えられる。一つはこの歌詞の語り手と読み手の二人のこと。もう一つが語り手とその影、いわば自分自身のこと。前者をとれば、群集から二人だけ抜け出すことによってマンネリズムに陥った関係から逃避したい、という曲になり、後者をとれば、群集から抜け出すことによって創作活動のマンネリズムを解消したい、という曲になる。

後書き

 今回扱った『プレイシック』という曲は、全体の解釈自体は非常に簡単である。結局帰結するのは、マンネリズムを解消したいというようなところであるから。その簡単さ故に逆に筆を遠ざけていたのだけれども、こうして深く読んでみると案外難しい。一本の記事としては最長だった気がします。うん、楽しい曲です。萩原朔太郎の関係はどうなのでしょうか。ボードレールにも『群衆』という詩があり、朔太郎はそれから影響を受けたため、それにも触れられたら良かったのですが、そんな余裕はありませんでした。
 さて、そろそろ『茜』がリリースされるそうで、この記事を大急ぎで書きました。ラジオで流れるのは今晩だそうで、楽しみです。

参考文献リスト

・ヨルシカの歌詞については、Uta-Netより行った。いつも引用しているヨルシカ OFFICIAL SITEには『プレイシック』の歌詞がまだ載っていません。
ヨルシカ プレイシック 歌詞 - 歌ネット

・『新明解現代漢和辞典』三省堂 2016年3月1日 第五刷

・『萩原朔太郎全詩集』筑摩書房 1979年

・『萩原朔太郎と近代』安智史  1998年

・『絶望の逃走』萩原朔太郎 第一書房 1935年 



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