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ヨルシカ「火星人」解釈 〜孤独なランデヴー〜

はじめに

 『火星人』は、数あるヨルシカの楽曲の中で最も淋しい曲である。そう言うと貴方は驚くだろうか。ヨルシカの楽曲は、別れを詠み込んだ歌詞が特徴的であり、”切ない”曲は枚挙にいとまがない。しかし、『火星人』はそれらのどれよりも、”淋しさ”を叫んで止まないのである。
 本稿は、『火星人』基礎解釈の指標を示すものである。まだ配信されて日が浅く、細部に渡る完璧な解釈には至っていないが、ご容赦いただきたい。また、相当な文量になってしまったため、「時間と余裕がない君へのまとめ」も用意した。なかなかアイロニカル。上記該当の方はそちらへご移動願う。

ヨルシカ - 火星人(OFFICIAL VIDEO

 2025年5月9日に配信リリース、同日にMVが公開された本作品『火星人』。スウィングした心地の良いリズムにジャズ的な語彙により奏でられるミュージック、今にも踊りだしたくなるような軽快さ。同作者の作品だと『ブレーメン』や『ルバート』を彷彿とさせる楽曲である。歌詞にも遊び心が満載で、尚且つMVも非常に愉快な仕様となっている。そんな『火星人』には、ポップでかわいいイメージを持っている人も少なからずいるだろう。しかし、私はこの楽曲に、淋しく落ちる影を見る。このややもすればニヒルな淋しさを、引用元となっている萩原朔太郎の詩観も交えながら解き明かしていこう。

序章 「火星」とは何か

 本作での重要なテーマとなっている「火星」。その意味に関して、作詞者のn-bunaからヒントが与えられている。この章では確認程度にとどめておき、詳しい追求は後に回そう。
 以下がn-bunaによるコメントである。

火星人という楽曲においての"火星"は憧れであり理想で、火星人はそこにいる人です。これは今いる場所を抜け出して火星に行きたいという曲です。
歌詞に出てくる「ぴんとたてた尻尾のさきから糸のやうなみかづきがかすんでゐる」は萩原朔太郎の猫という詩からです。その一節を、本歌取りする感覚で引用しました。少しずつ形を変えて繰り返され、最後に原典の詩が出てくる形の作詞です。その原典が僕にとっての火星です。 

TVアニメ『小市民シリーズ』公式サイトより

 『火星人』において、「火星」は憧れや理想を意味するそうだ。また、萩原朔太郎の詩を「火星」と呼んでおり、必然的にそれへの憧れを抱いているという意味に変換される。
 「火星」の意義の確認が済んだところで、本論を始めよう。

1章 「火星でランデヴー」誰と?

 この楽曲のサビにして最もキャッチーなフレーズから考えてみよう。その前に、まずは「ランデヴー」の意義を明確にしておこう。

ランデ‐ブー(〈フランス〉rendez-vous)

[名](スル)《会う約束の意》
男女が会うこと。あいびき。デート。「人目を忍んでランデブーする」
別の軌道をもつ宇宙船どうしが宇宙空間で接近すること。
⇒ボンジュール
[類語](1)デート・逢い引き・密会・逢瀬・忍び逢い

小学館 デジタル大辞泉より 最終閲覧2025/5/10

 日本ではややロマンチックな香りを含むこのワードだが、根幹にあるのは、「会う約束」という意味である。そこから、男女の逢瀬や、宇宙船どうしの接近に意味が派生している。
 さて、この楽曲においての用法であるが、1と2どちらの意味でも使われていると考えられる。その違いは、付帯する助詞において明らかに差別化されている。一番サビでは「火星ランデヴー」となっている。これは、火星という対象に近づくための「」であるため、2の接近するという意味でとるのが妥当だ。一方二番サビでは「火星ランデヴー」となっている。これは、”火星において”という意味での「」であるため、こちらは1や原義に近い会う方の意味と解釈するのがよいだろう。
 ではここで、二番サビの方に疑問が湧く。一体誰と「ランデヴー」するのだろうか。従来のヨルシカ楽曲のように、別れてしまった誰かと解釈してよいのだろうか。

 これを明らかにするため、「火星人」で使われている人称を整理しよう。おそらく、この歌詞では、語り手自身と、「ランデヴー」をする相手の二人が出てくると予想される。そのため、以下に使用されている人称を、一人称と二人称でわけて整理した。ここから相手を特定してみよう。

一人称

一番サビ
が見たいのはふざけた嵐だけ」
の苦しさが月の反射だったらいいのに」
二番Aメロ
「芯のない自分が見える」
二番サビ
が見たいのは自分(おまえ)の中身だけ」
自分へランデヴー」
の価値観が脳の反射だったらいいのに」
ラスサビ
が見てるのは言葉の光だけ」
の苦しさが月の反射だったらいい」

『火星人』ヨルシカ OFFICIAL SITEより引用 適宜必要な読み仮名を括弧の中に記した

二人称

二番サビ
「僕が見たいのは自分(おまえ)の中身だけ」
ラスサビ
に足りないのは時間と余裕だけ」

『火星人』前掲 適宜必要な読み仮名を括弧の中に記した

 これは困った。歌詞上は「自分」となっているが、明らかに「おまえ」と歌われている箇所があり、それが一人称、二人称のどちらにも該当してしまうのだ。じゃあこれは歌詞の記載ミスだ!と早合点してしまうのではなく、ここを少し考えてみよう。このほつれた糸の先にはこの曲の妙味が隠されている。

2章 「僕」と「自分」

 この違和感はどう解釈すればよいのか。結局これは自分のことなのか、それとも自分ではない誰かのことなのか。それを考えるためには、今一度人称の表現をじっくりと見直すべきである。
 一人称を列挙した表を見返してみると、二種類の一人称が使われていることがわかる。「僕」と「自分」である。そのうち、「自分」というのは一人称としても一般的に使用されており、意味的にも語り手自身を指すことは言うまでもない。しかし、僕、俺、私などの純正の一人称と比べると、わずかばかり客観的であることは確かだ。自らを分ける、つまり他を認識した上で、他と自を分けているのである。ここからは、「自分」に関する記述を深堀りしていこう。

ぴんと立てたペンの先から
芯のない自分が見える

『火星人』前掲

 「自分が見える」とは単純な言葉である。文法的にも語彙的にも平易で、何ら悩むべきところはない。だが、理解に苦しむ言葉である。本来、自分は自分の全身を視覚的に捉えることはできない。それこそ鏡などを利用しない限りは自己の認識は非常に難しい。
 この一節には、二通りの解釈がある。一つは、”ペン先に映る自分”である。ペン先は金属で出来ていることが多く、それには景色も反射する。さらには丸みを帯びていることから、ペン先に映った景色は歪んでしまう。「芯のない」とは、歪んで間抜け面になった自分の姿を指す。そんな、ペン先に映った歪んだ自分、というのが一つ目の解釈である。
 もう一つは、”創作物に反映される自分”である。ペンで書き起こした創作物には、自分が反映される。直接自身のことを語った私小説的な作品にはもちろんだが、それ以外の創作物全般にも言えるだろう。いくら創作物は作者の手から離れるとは言っても、作者の経験や思想、影響を受けたものなどは創作物に色濃く反映される。このように、創作物に現れた自分の姿、というのがもう一つの解釈である。
 両者に共通しているのは、もうひとりの「自分」という存在を対象化しているということである。自分は本来一人であるのに、別の存在であるかのような「自分」を捉えているのである。
 視覚的に自身を対象化しているのか、創作物に投影された自分を対象化しているのか。どちらと定めるべきなのだろう。残念ながらこのフレーズ単体では判別不可能というべきだ。証拠が少なく、どちらを主張するにも妄想であるという批判は避けられない。この問いはひとまず置いておいて、もう少し他の記述から対象化された「自分」を考えてみよう。

火星でランデヴー
惰性の日々 理想は引力
僕が見たいのは自分(おまえ)の中身だけ
自分へランデヴー
それに音楽も薬もいらない
僕の価値観が脳の反射だったらいいのに

『火星人』前掲 適宜必要な読み仮名を括弧の中に記した

 二番のサビである。ここでも前述の場合と同様に、「僕」は何かに映った「自分」を「見たい」と主張しているのである。そう、何かに映った「自分」を対象化しているからこそ、「おまえ」と呼んでいるのである。「自分(おまえ)」という本来相反する言葉は、何かに反映された自分を対象化することにより表裏一体のものとなるのだ。
 ここにランデヴー相手の答えがある。前述の通り、二番は「火星ランデヴー」となっており、「火星」において誰かとミーティングするという意味でとるのがよい。二番サビでは「僕」と「自分(おまえ)」が、同一人物ではあるが対象化されており、ここに二つの存在が発生する。この「僕」と「自分(おまえ)」とのミーティングこそが、「火星でランデヴー」の正体なのだ。

 ここまでをまとめよう。一人称を整理すると、「僕」と「自分」の書き分けが見られた。「僕」は語り手自身のことを指し、「自分」というのは何かに映った、対象化された自身のことであった。二番サビでは「自分」がおまえと読まれることから、「ランデヴー」するのは、「僕」と「自分」ということになる。
 では、先ほど置き忘れた問いを回収しよう。「自分」はどんな風に対象化されているのだろうか。先程の「芯のない自分」の二つの解釈のように、視覚的に映った自身のことなのか、それとも創作物に反映された自身のことなのだろうか。これを考える上で、萩原朔太郎の詩観はインスピレーションをもたらす。

3章 対象化された「自分」とは?朔太郎先生に聞いてみる

 『火星人』では、萩原朔太郎の詩が引用されていることは、先に引いたn-bunaのコメントに既に明かされている。萩原朔太郎は日本近体詩の父とも呼ばれる、言わずと知れた文豪である。それまで文語によって制作されていた詩の世界に口語を持ち込み、口語自由詩の確立に大きく寄与した。そんな朔太郎の詩観には、独特の自己意識が現れているのだ。

 ポップじゃないから少し止めるけど。

 それでは我々のよく知る人の言葉を取っ掛かりにして、朔太郎の詩観を覗いていこう。n-bunaは、以前朔太郎に関する書籍に寄稿をしていた。そこでは萩原朔太郎の詩について以下のように述べられている。

表現を受け取る側への語りかけ、コミュニケーションとしての詩表現、この要素が朔太郎には少ない。(略)朔太郎が自身へのなぐさめとして産み出した言葉を我々が受け取め(原文ママ)解釈する構図がそこには存在する。

『萩原朔太郎大全』春陽堂 朔太郎大全実行委員回編 「蝶を夢む」n-buna(ヨルシカ)より引用

 朔太郎の詩は「自身へのなぐさめ」であり、そこに誰かへの語りかけが少ないと捉えている。では、「なぐさめ」とはどういう意味なのだろうか。また、実際に萩原朔太郎はどのように詩と向き合っていたのだろうか。彼の代表詩集とも評される『月に吠える』には朔太郎自身により序が付されている。ここには朔太郎の詩観が端的に現れている。

 私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
 私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
 詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
 詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。

萩原朔太郎『月に吠える』序より

 朔太郎曰く、詩は喜びや幸せ、興奮が高じて生み出されるものではない。孤独な自身への「なぐさめ」なのである。この表現より、n-bunaは先述の発言をしたものと思われる。
 朔太郎はさらに続けて、こう述べる。

 過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。 
 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
 私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。

萩原朔太郎『月に吠える』序より

 私は、ここに朔太郎の詩作の根源を見る。犬が自身の影を恐れ吠えるように、朔太郎は自身の影(その意味するところは自身の過去のことであろうか)を恐れ、慰めを詩に求めるのである。誰かのせい、誰かのためではなく、自身の影に怯え、自身の慰めのために詩が発生する。ここに、n-bunaは「コミュニケーションとしての詩表現」の少なさを看破したのだろう。

 そして、何より重要なのが、ここに自分と自分との対象化が見られることである。朔太郎は自分の影に怯える。その影が自分のものであると自覚しておりながら、怯えるのである。先程「火星人」の中に見られた、「僕」と「自分」の対象化と同一の現象が起こっている。
 ここで最後に押さえておくべきは、朔太郎の言う影とは、視覚的に認識される実際の自身の影ではないということだ。思想の中にある、自身の陰鬱な一部分なのである。視覚的ではない、思想的な部分での自身の対象化、それは萩原朔太郎を衝き動かす要因となっていた。

4章 改めて、「自分」を解釈する

 朔太郎の発言では、自分と「私自身の陰鬱な影」という二つの自分の対象化が読み取れた。それは、視覚的な自身の対象化でなく、思想的な部分での自身の対象化であった。では、これを踏まえて改めて『火星人』で対象化されている、もう一人の「自分」について考えてみよう。

 対象化された「自分」がどこに反映されたものなのか。それを解き明かすためには、対象化された「自分」を認識する方法についての表現を整理するほかない。不幸なことにその認識方法は直接語られてはいないが、逆説的にその方法が語られるのである。

火星へランデヴー
それにランタンも鏡もいらない

 『火星人』前掲

 どうやらランタンと鏡は必要ないらしい。このランタンと鏡というのは18世紀初頭に、火星人との交信手段として使われていたものだという(wiki参照…、恥ずかしい)。ただ、「自分」に会うという文脈で捉えるのなら、これらは自身の姿を視覚的に捉えるための道具になる。ランタンは光を発し、自身の影を作る。また、鏡は自身の姿を映してくれる。つまり、ランタンも鏡もいらないということは、「自分」に会うとは、自身を視覚的に認識するわけではないということになる。これで、対象化された「自分」は、朔太郎と同様に視覚的に認識されるものではないことがわかった。
 まだ表現は続く。詳しく見ていこう。

自分へランデヴー
それに音楽も薬もいらない

『火星人』前掲

 「自分」へ「ランデヴー」(接近)するには、音楽も薬もいらないらしい。「音楽」の解釈は難しいが、「薬」と合わせて自分の外にあるもの、外発的なものであるという捉えられる。楽器やメディアを通して奏でられる「音楽」と、自分に足りない成分を補う「薬」。「自分」を認識するには、そういった外発的なものもいらないという。では何が必要なのだろうか。

僕が見てるのは言葉の光だけ

『火星人』前掲

 「言葉の光だけ」が必要なのだ。ここが全てを解決するワードとなっている。光が自分を照らし影を作るように、「言葉」だけが自身の形を自覚させる影を作り出すのだ。言葉を尽くして表現することで、「自分(おまえ)」に出会えるのだ。言葉による創作によって、はじめて自身の形がわかる。これこそが『火星人』における自己認識なのだ。
 もう言うまでもないが、これによって先ほどの疑問が解決した。「ぴんと立てたペンの先から/芯のない自分が見える」というのは、ペン先に映った視覚的な自分ではなく、言葉によって表現された自分の姿なのである。

 ここまでをまとめよう。対象化された「自分(おまえ)」を認識するためには、鏡やランタンなどの視覚的に自身を認識させる道具は必要ないという。ここで、朔太郎と同様に、自身を思想的に対象化していることがわかった。次にどのように思想的に自身を認識する方法として、音楽や薬など、外発的な道具はすべて必要ないという。必要なのは「言葉の光」であり、言葉による創作によって、はじめて自身の形を認識できるのである。
 こうすると、冒頭で述べた、ヨルシカの中で最も淋しい曲だ、という発言が理解されるだろう。常に二人の別れを描いてきたヨルシカが、孤独のうちに完結する歌を歌うのである。『火星人』において踊るのは、自身と自身の影のみ。痛く孤独なランデヴーなのである。

5章 『火星人』の主張

 以上を踏まえて『火星人』での主張をまとめよう。それは、自身の創作が思うようにいかないというフラストレーションである。
 本稿序章では、「火星」が憧れや理想を示すということを確認した。それを踏まえたうえで、次の一節を見てみよう。

ぴんと立てたしっぽの先から、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる

休符。
あぁ、いらいらするね

『火星人』前掲

 冒頭に掲げたn-bunaのコメントでは、この「ぴんと立てた…」は萩原朔太郎「猫」からの引用であり、「火星」すなわち憧れであるということが述べられた。そんな憧れに対する感想が、「いらいらするね」。これには違和感を覚えざるをえない。
 なぜ、憧れの詩を見て「いらいら」してしまうのか。それは、自身の創作が、憧れである火星に近づけないためである。歌詞中にはそのような描写が散見される。

ぴんと立てたペンの先から
芯のない自分が見える

『火星人』前掲

 創作の上に落ちた自身の影である「自分」に「芯がない」と嘆く。

僕の価値観が脳の反射だったらいいのに

『火星人』前掲

 自身の価値観が「脳の反射」つまり、自身の考えのみを純粋に照射したオリジナルの価値観であったらいいと願う。憧れに影響された自身の価値観は何度も屈折し、その憧れたれないもどかしさのみが募っていく。
(推敲時追記。この記述に関しては、2025/5/11時点、X上で同じような解釈をしている方がいらっしゃいました。この記事は、2025/5/10にほとんど書き終えています。純粋な僕の脳の反射であり、パクリというわけではありませんよ。トラブルを避けるためにも一応記録しておきます。)

僕の苦しさが月の反射だったらいいのに

『火星人』前掲

 挙げ句の果てには、「苦しさ」が描かれる。
 このように、憧れの「火星人」たれないもどかしさ、創作の難航に対しての「苦しさ」や「いらいら」が散見されるのだ。結局生まれた自身の影にも「芯がな」く、惰性の日々では憧れである「火星」には接近すらできない。
 私は、『火星人』の解釈をこのように考えます。

まとめ 時間と余裕がない君へ

 「火星人」においてランデヴーするのは、エルマでもエイミーでも、盗作おじさんでもその妻でもない。語り手である「僕」と、「僕」が書き記す創作上に影のように現れる「自分(おまえ)」なのである。自分と自分の孤独なランデヴーが火星人という曲なのだ。これが冒頭の、ヨルシカの中で一番淋しい曲という発言の理由である。
 また、「火星」とは憧れの作品のことであり、「火星人」はそれを生み出した創作者を現す。この曲の語り手は、「火星」へ近づこうとするものの、なかなかそれを成し得ない。そのもどかしさ、フラストレーションを表現したのが『火星人』という曲なのである。

拾遺 「君」とは誰なのか

 さて、論を閉じる前にラスサビに登場する「君」について述べなければならない。

君に足りないのは時間と余裕だけ

『火星人』前掲

 今まで述べてきたように、「火星人」とは「僕」とその影である「自分」のランデヴーの曲である。そのため、終始孤独で寂しい歌であるとの解釈をしたが、「君」という言葉が喉につっかえた魚の骨のように解釈の邪魔をしてくる。「僕」と対象化された「自分」は”おまえ”と呼ばれていたから、「君」とは別の存在である。ではこの「君」とは誰なのか。

 思うに、「君」とは我々視聴者である。そう、「火星人」を聞いている私であり、貴方であり、視聴者全体である。
 この一節は曲中でも特に異質である。「時間と余裕だけ」というところは、ボーカルのsuisが歌わず、複数人による合唱となっている。これは明らかにライブでのコールアンドレスポンスが想定されており、我々視聴者との距離がぐっと縮まる箇所である。
 これを本稿の解釈のレールに乗せるなら、創作上ではなく、メタ的に二人称的存在を登場させることで、曲中の「おまえ」はあくまで「自分」であるということを強調させている、という風になる。彼此に明確に境界線を引き、この曲は孤独なランデヴーであるということを際立たせているのだ。

 更に、ここまで読んできた貴方には何か思い当たる節があるのではないか。それは先ほど引用した、n-bunaによる発言である。そこには、「表現を受け取る側への語りかけ、コミュニケーションとしての詩表現、この要素が朔太郎には少ない。」とあった。まさに、「コミュニケーションとしての詩表現」がこの一節なのだろう。
 ここからは妄想である。先にも述べた通り、『火星人』は創作を極められない自分へのフラストレーションを歌った曲である。憧れの「火星人」である朔太郎がやらなかった表現を、自身が創作に取り入れるということ自体が、憧れの「火星」へ近づけないことを表現しているのではないか。
 これは自嘲である。ならば、こちらとしてもそれを笑ってやらねば失礼というもの。聡明な読者諸君は、ライブで「火星人」が披露された際には、大声で「時間と余裕だけ」と叫ぶとよい。きっとひねくれた語り手が「はい(笑)」と返してくれることだろう。

後書き

 今回の「火星人」、筆者はとても強い衝撃を受けました。今まで二人の別れを描いてきたヨルシカですが、明確に作中での二人称的存在が排除され、なんと孤独なランデヴー。あるのは創作への苦しさ、フラストレーション。この痛々しさが、淋しさが私の胸を打つ。私の火星には、n-buna、貴方も住んでいるんです。

 さて、だいぶお久しぶりの更新となりました。一年なんてそんなもんじゃないでしょうよ。曲の衝撃で書き始めたはいいものの、内容の言語化が難しく、皆様に伝わっただろうかと不安でたまりませんが、私の解釈はそこそこいいところを行っていると確信しています。
 もし、引き続き「火星人」について気になったことがあればサボらずnoteも更新します。また、今や準新曲となってしまいましたが、「へび」に関しては述べなければならないことが山程あるので、そちらは必ず更新します。5月末には頑張って上げます。

参考文献リスト

・歌詞の引用はすべて「ヨルシカ OFFICIAL SITE」より行った。
ヨルシカ OFFICIAL SITE

・小学館 デジタル大辞泉「ランデブー」
閲覧は、「コトバンク」による。最終閲覧:2025年5月10日
ランデブーとは?意味や使い方 - コトバンク

・TVアニメ『小市民シリーズ』公式サイト「OPにヨルシカ、EDにやなぎなぎが決定!「小市民シリーズ」第2期 第1弾PV【秋期限定栗きんとん事件】にてOP音源初解禁!」2025年3月6日公開
OPにヨルシカ、EDにやなぎなぎが決定!「小市民シリーズ」第2期 第1PV 【秋期限定栗きんとん事件】にてOP音源初解禁! -TVアニメ『小市民シリーズ』公式サイト-

・『萩原朔太郎大全』春陽堂 朔太郎大全実行委員会編 2022年11月発行
以下のサイトから購入できます。今回引用したように、n-bunaによる寄稿もありますので、ヨルシカファンも必見です。
萩原朔太郎大全|朔太郎大全実行委員会 朔太郎、没後八〇年――朔太郎の魅力の源泉にせまる。

・『月に吠える』萩原朔太郎(『萩原朔太郎詩集』岩波文庫 三好達治編  1952年1月発行より引用)

・この記事のサムネイル及び概要欄より引用『ヨルシカ - 火星人(OFFICIAL VIDEO)』YouTube 2025年5月9日公開  最終閲覧:2025年5月10日
ヨルシカ - 火星人(OFFICIAL VIDEO


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