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ヨルシカ『へび』解釈 ~へびの夢~

はじめに

 馬鹿のふりでもしよう。
 「行方知らずのあの雲を見た」って、意味不明じゃないですか。行方知らずで姿が見えないのに、それを「見た」っておかしくないですか。皆さん本当に意味わかってるんですか。

 芸術は決して手の届かないところにある深遠なるものではない。せいぜい少し上等の香水を振った隣席の貴婦人くらいのものだ。わからないから”そういうもの”として嚥下し盲信するのではなく、わからないものにはわからないと言ってもいいのだ。そしてわからないものを徹底的に検討し、作品の中から答えを見つける。それが解釈という行為だ。端に感じた疑問は、よりよい解釈の道標である。こうしちゃいられないな。早速検討していこう。

 この記事は、前回の記事の続きである。が、誠に不本意ながらこの記事だけでも完結した内容になっている、と言っておこう。前回は『へび』の典拠について確認していった。今回の内容に大いにつながるのだが、便宜上典拠に触れる際は最低限の補足をした。だがよりよい理解には前回の記事を要する。お時間あれば是非。
ヨルシカ『へび』解釈(序章) ~典拠の解読~ |疎影


第一章 「雲」を見たい『へび』

 前記事では、「離思」や「高唐賦」などの典拠をたどりながら、疑問点を解消していった。ここからは、それに基づいて本格的な解釈を施そう。そのためには、目下「雲」が問題となっている。前回の記事で確認したように、「雲」は「あなた」に重ねられる重要なワードであった。そして、はじめに触れたようにこのフレーズには強烈な違和感がある。「あの雲」は「行方知らず」であるのに、実際に目にすることは可能なのかということである。行方知らず、とは文字通りすでに眼前から消えてしまいどこに行ったかわからないことである。それなのに、「見た」や「下」など行為・存在に関わるのは不自然なのではないか。
 それではこの雲が語り手の所属する現在において、「行方知らず」なのか、それとも行為・存在を伴うモノなのかを明らかにすることから始めよう。ここで解釈のポイントとなるのが次の歌詞である

海を知らず、花を愛でず、空を仰ぐわたしは
また巫山の雲を見たいだけ

ヨルシカ『へび』 OFFICIAL SITEより引用

ここでは「また」「見たい」とある。もう言うまでもないと思うが、現在に実際に存在するものを、また見たいなんて言うだろうか。「また」というのは、昔は視認可能であったが、現在ではそれが叶わなくなった事実を雄弁に語る。このことから、「行方知らずの雲」は本当に「行方知らず」なのであり、語り手が所属する現在の行為・存在は伴わないことがわかる。それでは、「見た」「下」といった矛盾はどのように解釈すればよいのだろうか。それは語り手の現在という時間の条件を取り払うことで成立するようになる。
 「行方知らず」というのは「あの雲」の、現在の状態である。だが、「あの雲」が「行方知らず」ではなかった時があるということも同時に証明している。そこから考えるに、語り手が位置する現在は「行方知らずのあの雲」であるが、過去には実際に存在しており、視認可能であったということである。つまり、時間軸に関わる語を補ってこの一文を解釈するのならば次のようになる。
「(現在では)行方知らずのあの雲(の過去の姿)を見た」
「(現在では)行方知らずのあの雲の(過去の姿の)下」
前章までで見てきたように「高唐賦」では朝から暮まで刻々と変化する雲の姿を描いており、朝には薄く輝いていた雲は、雨となり最終的には霧散してしまった。ここでは雲を科学的な見地から不可算物体としてみるのではなく、一つの体を持った物体として姿を変化させるというニュアンスで描いていた。『へび』のこの箇所でも同じように、霧散してしまった雲を一つの体を持った物体として捉え、その過去の姿を認めているのだ。

 さて、「行方知らず」の矛盾については解消された。しかし、もう一つ考えなければならない問題がある。それが「あの雲を見た」時間、方法である。「(現在では)行方知らずのあの雲の(過去の姿の)下」のほうは意味がわかりやすい。過去の時点における「あの雲の下」の出来事であるから、あの雲がまだ頭上にあった時のこと、というように読み替え可能である。しかし、「見た」例は難しい。「見た」のがいつ、どこでなのかがわからず、詳細が不明なのである。よりシャープな解釈のためには、現在では視認不可能なはずの「あの雲」をいつ、どのように「見た」のか解き明かさなければならない。
 このフレーズでは、現在の結果を踏まえながら、視認不可能な過去の物を見ている。この図式を可能にする唯一方法は、脳内での再現である。今は行方知らずとなっているが、語り手の脳内、記憶には確かに存在し、回想することで「見る」ことは可能だ。実際の雲を語り手の網膜に写したわけではなく、回想することで現在と過去の時間軸を接近させたのであろう。その結果がこの現在と過去の入り交じるフレーズなのだ。
 では「見た」のはいつなのか。後の文脈の時制を整理してみよう。

行方知らずのあの雲を見た
わたしの鱗はあなたに似ていた
舌は二つ、まぶたは眠らず
ぼやけたよもぎの香りがする

ヨルシカ『へび』 前掲 太字化は引用者による。

ここでは二つの時制が用いられている。「見た」「似ていた」が過去、「する」が現在である。語用論的フィクション論者に言わせれば、創作物における過去形はしばしば現在の行動を描写するらしいが、この場合は明確に時制の使い分けが見られる。そのため、「見た」は過去の行動ととっていいだろう。しかし、ここで問題なのが、これは記憶の中での出来事であるということだ。語り手が回想をしたことを「見た」と過去形で語る、という図式は不自然である。では最も自然な状況とはなにか。それはただ一つ、「夢」である。夢は偶発的に記憶の像を映し出し、かつそれを認識するのは普通は目覚めた後である。そのため、記憶の中の出来事で、かつ自然に過去形を使わしめる状況とは夢しかないのではないだろうか。
 これを夢の中での出来事とすると、多くの辻褄が合っていく。「よもぎの香り」が「ぼやけ」ているのは、たった今目覚めたところで、感覚が鈍っているから。「あなたとの夢の後では」というフレーズにも違和感なく接続する。そして、「あの雲を見た」例が冒頭の一箇所のみで、他は「あの雲の下」となっているのにも説明がつく。これは曲冒頭で目覚めを描き、それ以降の「あの雲」はすべて語り手の回想であるからだろう。曲を通して、冬眠から目覚め春を知っていくへびの姿が描かれるが、再び眠るのはその筋書きを大きく逸脱する。「まぶたは眠らず」とある通り、語り手の目覚めは一度。再び眠らないのだ。このように、冒頭の「行方知らずのあの雲を見た」は、語り手が夢から覚めたという状況を端的に語っているのだ。
 さて、今まで見てきたこのフレーズは、過去と現在の時が交錯するトラフィックとなっていた。では、次にこれを敷衍して、この曲全体を通した時間的な構造を明らかにしていこう。

第二章 過去と現在を蛇行し続ける『へび』

 この曲の一貫した時間的な構造を明らかにすることは、おそらく「あなた」の所在を明らかにすることにつながるだろう。ひいてはテーマを解き明かすことに繋がる。早速曲の時系列に沿って見ていこう。
 まずは冒頭。これは先程述べたように、「行方知らず…」では眠りから覚めた語り手がその夢の内容を語り出す。だが続く「わたしの鱗はあなたに似ていた/舌は二つ、まぶたは眠らず」は少しわかりづらい。これが夢の中での出来事なのか、はたまた現在の語り手の様相なのか。「似ていた」とあることから、「わたしの鱗」と「あなた」のどちらか、あるいは両方が過去のテンスを負っている。だが、やはり「ぼけやたよもぎの香りがする」とリアルタイムな嗅覚の情報が入ってくることから、現在との対比でひとまずはこれは夢の中での出来事ととっておきたい。夢の中で語り手は「へび」的な姿に変身してしまったという読みである。
 次に一番。

行方知らずのあの雲の下
わたしの心は火の粉に似ていた
靴はいらず、耳は知らず
あなたの寝息を聞く

ブルーベルのベッドを滑った 春みたいだ
シジュウカラはあんな風に歌うのか
海を知らず、花を愛でず、空を仰ぐわたしは
また巫山の雲を見たいだけ

ヨルシカ『へび』 前掲

「あの雲の下」は先程述べたように、あの雲があった時、つまり過去のいずれかの地点を回想していることを示す。そこから「火の粉に似ていた」までは回想の内容だと断定できる。ただここでも難しいのが「靴~聞く」までである。「聞く」と現在形での動詞が見られることから、おそらく回想の内容ではないだろう。ここの一片だけでは断定は難しいが、次のフレーズを見れば解決する。
 サビでは「ブルーベルのベッドを滑った」とあるが、これは「寝息を聞く」とリンクした表現となっているのだ。それではまずは「靴はいらず、耳は知らず/あなたの寝息を聞く」について考えてみよう。これには二通りの解釈が考えられる。まずはへび的な語り手の行動として、足と耳がないへびが、地に密着した肌で冬が終わっていくのを感じるということだ。冬眠から目覚めたへびが、春の訪れを予感するのだ。次に人間的な語り手の行動として、「あなた」に密着する様子が描かれる。「靴はいらず」とはつまり裸足である。また、「耳は知らず」なのに「寝息を聞く」ということは、直接肌で寝息を感じられるくらい密着しているということを示している。裸足であることも含め、添い寝の様子が描かれているのだ。なんと官能的な表現であろうか。これを踏まえると、「あなた」より先に夢から覚めてしまった語り手が、眠りについた「あなた」つまり遠い夢の世界へ行ってしまったあなたのことを思い、その夢を現在進行系で回想しているところを表す。
 そして「ブルーベルのベッドを滑った」と続く。へび的語り手の行動では、春に咲いたブルーベルを横目に、季節が変わったことへの困惑を示す場面である。だが、人間的語り手においてベッドというのが重要である。「ベッド」とは、つまり「あなた」との思い出を共有する場所であった。夢の中で強く密着できる、そんな場所である。しかしそこから「滑って」しまう。これは別離を表すのだ。「あなた」と共にあった夢から目覚め、そしてそれを見ていたベッドから滑り落ちてしまったのである。これこそが「ブルーベルのベッド」が示すもう一つの意味であろう。
 さて、そうなると「靴~聞く」は現在の行動で間違いないだろう。眠りから覚めた語り手が、寝床で夢を回想している現在の様子を示す描写だからだ。しかしそれも叶わず「ベッド」から「滑って」しまう。
 言うまでもなく、続くサビは現在の内容を示す。

 続いて二番以下。こちらはこれまで触れてきた内容と被るところもあるため、端的に進めよう。二番冒頭では「あの雲の下」とあることから、過去のある地点の回想の内容であることを示す。しかしその回想は「ぼやけたよもぎの香りがする」と、イントロ同様春の気配に遮られてしまう。
 サビは少し複雑であるが、「芽吹く苔のベッドを転がった/あの頃みたいに」で少しの回想が入る。一番同様、「ベッド」とは、「あなた」と共に居ることができた地である。現在腹に感じる「カタバミ」の柔さにそれを思い出すのである。その一瞬以外はほぼ現在の出来事である。
 Cメロではようやく「夢」というワードが出てくる。ここでついに夢を回想していた構造について直接言及がされている。むろん、ここは現在である。
 果たして大サビ。基本的には現在の出来事であることは一番と同じである。しかし、一番の「春みたいだ」から「春になれば」と変わっており、一番から一定の時間的経過が描かれていると言っていいだろう。目覚めたてで困惑していた語り手は、「春」になったことを確信し、認めるのである。これは「あなたとの夢」から覚めてそれに縋っていた語り手が、その埋められない距離を自覚したことを示す。それでも尚、「ただあなたを見たいだけ」という切実さを示しアウトロに入る。
 アウトロでは再び「あの雲の下」という回想が展開される。その最後で「いつか見たへびに似る」とある。ここでは現在と過去の交錯が描かれるのだ。初めに見たように、イントロでは「わたしの鱗はあなたに似ていた」とあり、夢の中で語り手がへびに似た姿になっていることが語られた。そして現在と過去を繰り返しながら物語は進んだ。あるいはへび的な姿を彷彿とさせ、しかし人間的な感性から内面が描写されており、どちらと定むべきかわからなかった。しかし、このフレーズはどちらの姿も真であると容認するのである。夢において見たへびの姿、そして「わたし」の姿、それはこの曲においてはどちらも正しく、等しく語り手のことを指すのである。
 さて、ここで疑問。「舌は二つ」「まぶたは眠らず」などとあるが、これはへび的な身体の特徴であり、人間の「わたし」の身体描写とは異なる。そもそも「へびに似る」と語れるのは人間的な語り手であるため、いくら夢の中での語り手の姿とはいえ、この曲を語る時点の「わたし」はこの身体的特徴を有さないのである。では、このへびの身体表現にはどのような意味が載せられているのだろうか。次章で見ていこう。

 その前にこの章をまとめよう。冒頭で夢から覚めた語り手は、回想を繰り返すが「ベッドを滑った」り「ぼやけたよもぎの香り」などに邪魔され、現在の時間軸に引き戻されてきた。そして曲の進行にあわせ、語り手も「春」になったことを認めるが、再び回想のうちに曲が終わる。まさに過去の回想と現在をへびのように蛇行するのが『へび』の構造なのである。

第三章 『へび』と「わたし」

 それでは前章の疑問を解消するため、へびの身体的特徴が人間的語り手においてどのような意味を持つか考えていこう。これに該当する表現は次の五つ。「鱗」、「舌は二つ」、「まぶたは眠らず」、「靴はいらず」、「耳は知らず」。このうち、靴と耳については先程述べた。へびは言うまでもなく足がないから靴は必要ない。そしてへびは鼓膜が無く、地面からの振動として音を感知するため、耳は無い。しかしその節の文脈によれば、裸足になって密着しているから、寝息が肌にかかり、寝息を聞くのに耳が必要ないということであった。他の三つの表現についてもこのような対象が割り当てられそうである。

・鱗

 鱗に関する表現は以下の如。

・わたしの鱗はあなたに似ていた
・あなたの鱗は日差しに似ていた

ヨルシカ『へび』 前掲より抜粋

 このうち、前者の「わたしの鱗」については先述のとおりである。夢の中で語り手の姿はへびであり、文字通りその鱗のことを指す。では「あなたの鱗」は何を示すのだろうか。
 ここで前回記事で見てきた漢籍を思い出そう。「離思」中では、語り手が思う女性は「雲」に例えられてきた。『へび』においても同様で、「ただ巫山の雲を見たいだけ」というフレーズから、「あなた」が雲に重ねられていることは言うまでもない。語り手の姿が、【夢:へび→現実:人間】という構図になっているように、思う相手の姿は【夢:雲→現実:人間】という構図になっているのだ。雲と鱗との考えられる関係はただ一つ。うろこ雲であろう。うろこ雲(巻積雲)は薄く、太陽の光を透過する。このことから「日差しに似ていた」と評されたのだろう。
 また、「高唐賦」では巫山の雲が時によって姿を変えることが述べられていた。朝には薄く光を通していたが、暮には雨となり、最終的に行方知らずとなってしまうことを述べていた。そして『へび』では「雨を知らず」という箇所にそのストーリーが引き継がれている。現在は「行方知らず」となっていることから、おそらく「高唐賦」と同様に、語り手は「雨」を経験してきたのだろう。しかし回想の中の「日差し」を透かした輝かしい朝の雲を見て、その眩しい姿を「雨を知らず」と評したのだろう。
 さて、うろこ雲は雨を呼ぶ雲として知られており、迷信ではなく科学的な根拠をもって裏付けられている。雨を前提とするストーリーに一定の共通点をもって存在できるのだ。
 つまり、「鱗」とは、語り手にとってはへびとなった自身の鱗、「あなた」にとってはうろこ雲を指すのではないか。

・舌は二つ

 これに関して、次のような指摘がある。

(余談であるが、このツイート主であるぎんこ氏は現在、ヨルシカの楽曲に引用された文学作品の総目録と分析を併せた大作note記事を執筆中であるという。その完成を願い、noteのクリエイターページのリンクも掲載しておく。【ほのか|note】)
念の為前後文脈を補足しよう。カドムスは次々と訪れる不幸や変異を土地のためとして、妻のハルモニアとともに遠いイリュリアの地へとたどり着く。そこで一家を襲った不幸を思い返し次のように言った。

「わしは、シドンからやってきたとき、槍で毒蛇を刺し殺し、その歯をふしぎな種として地中に播いたが、もしかするとあの蛇は神さまの蛇だったのであろうか。そのことが神々のお怒りにふれ、こうして復讐を受けているのだとすれば、わしも神々にお願いして、みずから蛇となって長々と寝そべりたいものだ」

「変身物語」Publius Ovidius Naso 著
(引用は『転身物語』人文書院 1966年 田中秀央, 前田敬作訳による)

そうすると体が突然変異し、蛇になってしまう。残る手を差し伸べ、妻に言葉をかけるが、ポストで引用されているように、舌が割れてしまい言葉が出なくなってしまうのだった。
 おそらく、「舌は二つ」の意味としてはこれが最も近いと感じる。整理すると、自身の感情をうまく言葉に表せないという意味だ。実はこれは、かの引用部分だけでなく明確な対比のうちに語られているのだ。

 歌詞中には二種類の鳥が登場する。シジュウカラとホオジロである。歌詞では「歌うのか」「笑うのか」という様に、発声を伴った登場をした。シジュウカラは蛇に対して警告音を出し、ホオジロは春になると伴侶を探し求め鳴きまわる。このことから声にフィーチャーされたのであろう。「舌は二つ」で声はうまく出ず一人ぼっちの「へび」、対して歌ったり笑ったりできて群れる鳥たちとは正反対の存在であるのだ。
 そして、鳥たちは空を飛べるということがなにより重要だ。前記事で、『へび』の引用元の一つとなっている孟子について触れた。簡単に述べると、高いところに登り広い海を見た者はごく少量の水では驚かなくなる、といった内容があった。ここの一節を敷衍していくと、次のような対比が見いだせる。「へび」は地を這っているから海の深さを知ることが出来ない。つまり「海を知らず」ということだ。一方鳥たちは空を飛ぶことが出来るため、海の深さを知っているのだ。「知ること」については、MVの概要欄に次のような言及がある。

(略)へびの詩を書こうと思いました。元稹の詩を借りて、知ることをへびに喩えた詩です。

YouTube『ヨルシカ - へび(OFFICIAL VIDEO)』概要欄より

先程の鳥たちとの対比により、「知ること」とは物理的に上昇していくことと重ねられている。へびは一生地を這うことしか出来ないから、逆に上昇への欲求を持つものと解釈されたのだろう。では上昇していった先には何があるのか。それは、「あなた」にも重ねられた雲である。上昇したいということは、つまり雲に近づきたいということであり、それはまた「あなた」を知りたいということになるのである。だがへびには翼も声も無い。ただ見ることしか叶わないのである。「あなた」への憧憬と、会えないことを理解した絶望、諦念がこの『へび』を貫く一つのテーマなのではないだろうか。

 さて、少し話がそれたが、舌については以上のとおりである。舌が割れていることは、うまく言葉を表し得ないことを示す。そして自由におしゃべりが出来る鳥たちとの対比により、「知ること」というテーマを支える重要なファクターの一つとなっているのだ。

・まぶたは眠らず

 元稹の詩に「三遣悲懐」というものがある。これは一人目の妻が亡くなった時に作られた悼亡詩である。そこの一節を引く。

唯将終夜長開眼 報答平生未展眉

「三遣悲懐」元稹(『元氏長慶集巻第九』)

唯終夜つねに開ける眼をちて 報答す、平生未だひらかざる眉に

私訳。

これは「長に開ける眼」つまり眠らないまぶたを持っているという点で『へび』のフレーズに強い親和性を持つ。これについて次のような説がある。(どうしても原典に当たれなかったため、孫引きにて失礼つかまつる)

陳寅恪氏の説では、「長に眼を開ける」ものはいわゆる「鰥魚」のことで、ここで、自分を「鰥魚」に喩え、終生鰥のままでいるという亡妻への誓いを立てている。(陳寅恪『元白詩箋証稿』(一九五三年初版、二〇〇四年三聯書店出版『陳寅恪集』所収)
後漢 㔁煕著『釈明』(上海商務印書館 一九一九年)「釈親属」に「無妻曰鰥。鰥、昆也。昆、明也。愁挹不寐目恒鰥鰥然也。故其字従魚、魚目不閉者也」とある。「鰥」は年をとって妻のない男のことで、魚が水の中で常に目を開いていることから、後に「鰥魚」をもってうれいのため眠れないさまをいう。

「『源氏物語』幻巻の光源氏と元稹の悼亡詩 ―「三遣悲懐」と「離思五首 其四」を中心に―」呉松梅 2008年

妻を亡くした者を寡男やもお、ひいてはやもおと言う。これは眼を常に開ける魚になぞらえて、憂いのため眠れない男の様子を表したものだ。『へび』の「まぶたは眠らず」もこの意味を踏襲しているといえるだろう。夢が覚めて「あなた」と別れてしまい、忘れることが出来ず眠ることは出来ないのだ。
 だがそれだけではないだろう。「舌は二つ」の項でも述べたが、語り手と「あなた」には文字どおり天と地ほどの差がある。そのため、「あなた」を探そうとしても鼻は効かないし音も意味を為さない、もちろん触れられもしない。「あなた」を捉えるには、ただ見るしか無いのである。

 「まぶたは眠らず」とは、「あなた」と別れ、その絶望の最中眠ることが出来ない語り手の姿を表す。しかしそれと同時に、「あなた」を知りたい、ただ見たいという執着に取り憑かれた語り手の姿も見ることが出来る。

・へびというテーマ

 最後に蛇というテーマについて考えよう。発祥の東西を問わず、人間が蛇に変身する話は多く存在する。東洋の変身譚については、次の博士論文に詳しくまとめられているためさらりと流そう。
「中国と日本の変身譚の歴史的変遷に関する考察 : 狐、蛇、虎、犬、亀を中心に」王貝(大阪大学,2016年)28070_Dissertation.pdf
この論文では、古代の呪術的な世界では蛇は神性が強く人に危害を加える動物としては描かれないが、時代が下り仏教的な感性が輸入されると有害動物として描かれるパターンが増えてくると分析している。また中国には悪事の報いとして蛇に変身するパターンが多いが、日本ではそれに加えて執着や怨恨によって蛇に変身してしまうパターンも多いと述べる。そしてこれは我々が蛇に持つ執着深いイメージのためであるとも指摘されている。蛇が簡単には死なないこと、獲物を狙う時にじっと息を潜めることなどからこのイメージが喚起されるそうな。
 そしてなんといっても見逃せないのが、西洋における蛇のイメージ。聖書における蛇は人間の黎明期に影響を与える重要なロールを演じているからだ。あらすじは次の通り。神に造られた最初の人間であるアダムとイヴは、蛇の誘惑のため禁じられた知識の木の実を口にしてしまう。その結果二人には罰が下り、楽園であった地球は住みにくい環境に変えられてしまったのだ。そして蛇にも地を這うさだめが課されてしまう。旧約聖書においては、二人を誘惑した蛇の正体は明確にされていないが、イングランドの17世紀の詩人ミルトンは堕天したサタンに注目し、この部分を詳細に描いた。それがキリスト教叙事詩の金字塔『失楽園』である。『へび』ミュージックビデオでも次のように触れられている。

僕はへびと、知りたいと思うことの関連性を感じています。母の書斎で、ミルトンの失楽園を見たからなのかも。聖書の中で、へびは知恵の実を食べることを人間に唆しますよね。知ることへの欲求が、へびそのものに姿を変えたみたいだ。

YouTube『ヨルシカ - へび(OFFICIAL VIDEO)』概要欄より

 あらすじは以下の通り。かつて大天使として力をふるったが、神に反逆し敗れたセータン(サタン)は、神への復讐を誓う。その一計として、神の新たな創造物である人間及び地球の破壊を計画し、単身地獄を出て地球に乗り込む。そこでアダムとイヴが知識の木の実について話すのを聞き、誘惑して堕落させようと計画する。だが地球には護衛の天使たちがいる。セータンは蛇に変身するのだった。蛇は最も賢い生物のため、セータンがどれだけ怪しい行動をしてもおかしくはない。セータンの奸計が怪しまれにくく、行動しやすいと判断したのだ。だがかつては大天使であったセータンは、蛇にまで身をやつさねばならぬ自己の境遇を嘆くのだった。

汚き堕落かな!前には最高の位にかむと神々と争ひしに、今や畜生の体内なかに入り、畜生の粘液に混りて、神の高きに憧れし霊質を肉化し獣化せむとは!さはれ、野心と復讐には何にか身を落さゞらむ?憧るゝ者は早晩いつかはいと卑しき物に落つべく、高く翔るごと、低く下らざるべからず。

『失楽園』ミルトン 第九巻
(『失楽園 下巻(新選世界文学集)』大泉書店 1948年より引用)

 ここには『へび』に通ずる観念が表れている。先程、鳥たちとへびとの対比を論じた。この『へび』の曲中では孟子の典拠に沿いながら、明らかに体の不自由なへびと対象的に自由で牧歌的な鳥たちの様子が対比されている。だがへびにあって鳥たちに無い物、それは強烈な執着と憧れである。鳥たちは、へびが憧れる雲に近い存在であるが、歌ったり笑ったりと全く苦しむ様子がない。つまり雲への関心は薄いのである。それに比べて地を這うしかできないへびは雲に対して強烈な憧れを抱いている。これはミルトンのこの一節を反映しているのではないだろうか。最後の一文を要約すると、高きに憧れる者は、どこかで深く低く落ち込んで「卑しき物」とならなければならない、というようになる。低く地を這うへびこそが、雲への憧れ、ひいては知識欲の体現者ということになるのだ。強い憧れ、執着というテーマは先程見た東洋の変身譚にも通づる。『へび』において蛇という生き物が選択された理由、それは強い憧れと執着にあるのだ。

まとめ

 『へび』は典拠である「離思」、そしてその典拠である「孟子」や「高唐賦」の内容を踏まえている。「離思」で雲に別れてしまった女性の姿が重ねられていたように、『へび』でも別れてしまった「あなた」の姿が重ねられている。また、「高唐賦」で女性との逢瀬の場が夢であったように、『へび』においても夢は重要な意味を持つ。
 「行方知らずのあの雲を見た」とは、夢で「あの雲」すなわち「あなた」を見たということである。このフレーズは同時に、語り手がその夢から覚めたことを明らかにしている。語り手はその夢の中で実際にへびの姿になっている。しかし、夢から覚めても「あなた」に強い執着を示す語り手の姿は、まさに強い執着を司るへびに似ているのだった。
 回想と現在を蛇行しながら、語り手は悟る。もう「あなた」には会えないことを。しかしどれだけ醜い姿になろうと、「あなた」を忘れることは無いのだった。

おわりに

 この曲は様々な典拠が重層的に絡まりあい、新しい詩世界が構築されている。「離思」が最も大きな典拠とはいっても、その主題から伸びるレールをひた走るだけでなく、様々な駅を経由しながら、へびというテーマを盛り込み新境地にたどり着いた。大変読み応えのある詩であり、同時に高く評価しうる。資料集めや考察に時間を要したが、鑑賞体験としてやって損のないものだった。もしこの面白さをあなたと共有できたら、それは喜ばしいことである。
 さて、次の記事の予定は今のところ無い。曲が一部公開されている『プレイシック』や『茜』のリリースが楽しみだ。特に『茜』は島崎藤村の詩が引用されているという。今から少し資料を集めておこうかな。
 それでは。

参考文献リスト

・ヨルシカの歌詞については、ヨルシカ OFFICIAL SITEの「LYRICS」より引用している。
ヨルシカ OFFICIAL SITE

・『へび』ミュージックビデオ。本記事では概要欄から引用をした。
ヨルシカ - へび(OFFICIAL VIDEO)

・『転身物語』Publius Ovidius Naso 著、田中秀央、前田敬作 訳 人文書院 1966年
閲覧は国会図書館デジタルコレクションによる。
転身物語 - 国立国会図書館デジタルコレクション

・『元氏長慶集巻第九』
閲覧は以下のサイトによる。
三遣悲懷-元氏長慶集(元稹集)全文原文及譯文-識典古籍

・「『源氏物語』幻巻の光源氏と元稹の悼亡詩 ―「三遣悲懐」と「離思五首 其四」を中心に―」呉松梅 2008年(『國学院大學紀要』2008年 所収)

・「中国と日本の変身譚の歴史的変遷に関する考察 : 狐、蛇、虎、犬、亀を中心に」王貝(大阪大学,2016年)
28070_Dissertation.pdf

・『失楽園 下巻(新選世界文学集)』ミルトン 著、繁野天来 訳 大泉書店 1948年
閲覧は国会図書館デジタルコレクションによる。
失楽園 下巻 (新選世界文学集) - 国立国会図書館デジタルコレクション



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