ヨルシカ『へび』解釈(序章) ~典拠の解読~
星と言葉と
あなたは夜空を眺めている。そこにはあえて数えようとも思わないほどおびただしい星たちが、スパッタリングされた白いインクのように散らばっている。あなたはそれを漠然と眺め、美しいと思う。
ふと、あなたは真上に輝く北極星を見つける。特に明るい星たちに目が止まる。あなたは思い出す。開け放たれた部屋に吹き込んだ突風がカーテンや本のページの裏表を暴いていくように。星たちは繋がり、尨尨たる熊がのそりのそりと歩み寄る。その下には犬たちが戯れ、オリオンはきらびやかなベルトを締めて腕を振り上げる。遥かな旅路を惑うかのように思われたあの星も、隣人のような挨拶を投げかける。
首を撫でる乾いた冷たい風の中に、あなたはほつほつと鳥肌が立つのを覚える。
「世界は引用でできています。」
『へび』ミュージックビデオ公開時に、作詞者であるn-bunaはこのように語った。「世界」とは曖昧で漠然とした言葉であるが、もし「世界」が「言葉」で出来ているものだとしたなら、この言は正しい。「言葉」は先人たちの築いた歴史を強く反映する。夕顔の花が咲けば儚い恋を思い、七月六日になればサラダを思う。その言葉が直接示すこと以外の無関係な意味が、先人たちの使用例によって付与されているのだ。この引用の文化は漢詩文においては特に重視された。『へび』の典拠として明かされている「離思」も多くの別テキストを踏まえている。
蓋し言葉とは星である。
知るも知らずもその輝きに相違はない。だが、もしあなたが星たちの秩序に美的興奮を覚えるなら、先人たちの築いてきた巨大な丘に登り、天宮図を広げるべきである。
本稿では、『へび』の引用元となっている漢詩文を読み、のちの解釈の基盤としていく。少し長くなったため、この記事が序章。本文を実際に読んでいくのは次の記事である。
学校で漢文苦手だったな...引き返そう、と思ったあなた。そう、あなたね。本文には必要最低限の情報を記し、専門的な知識はなるべく注に逃がすようにした。ぜひ、恐れずに挑戦してみてほしい。
本文:約7000字+注:約3000字
合計約10000字
第一章 『へび』の軌跡を追って
星を観察するときは、まず暗がりをじっと見つめて目を慣らすという。それと同じように、まずは本文で解釈しがたい箇所をまとめておこう。
・「海を知らず 」
最後の「いつか見たへびに似る」という歌詞により、この曲の語り手はへびに自身の姿を仮託した人間であることが明かされる。それでは「海を知らず」とするのは不可解である。「海」には何か別のイメージが託されているのだろうか。
・「花を愛でず」
花は愛でるものだとするのが定石である。例えば、ヨルシカの『花に亡霊』という曲では「今も見るんだよ 夏に咲いている花に亡霊を」と、花への執着を語る。『春泥棒』でも散りゆく桜に命を重ね、それを惜しんでいる。花を愛でるのはいわばあたりまえであり、花を愛でないことにはそれなりの理由づけが必要なのだ。
・「巫山の雲」
これはそもそも何のことかわからない。何を意味するのだろうか。
・雨にまつわる描写
「あなたの鱗は日差しに似ていた/雨を知らず 触れて熱く」では、日差しや雨が登場する。空を一つの題材にしている手前、出てくること自体には何の抵抗もないが、いまいち腑に落ちる読解が出来ない。
・「夢」
ラスサビ前には「あなたとの夢の後では」とあるが、これだけでなく曲全体に夢または寝る行為にまつわる語彙が散りばめられている。例えば「まぶたは眠らず」、「冬の寝息を聞く」、「ブルーベルのベッド」、「芽吹く苔のベッド」など。眠ることはへびの冬眠に重なるが、こちらも核心に迫る指摘は難しい。
「海」「花」「巫山の雲」「雨」「夢」。実は、これらは全て典拠を辿れば説明がつく。典拠については、作詞者本人により以下のように語られている。
https://t.co/spsEstf2Nd
— ヨルシカ(n-buna、suis) / Official (@nbuna_staff) February 25, 2025
古典の授業です。
へびの詩が典拠としているのは、唐の詩人、元稹の「離思」の一節です。離思は離思五首という五つの詩からなる作品で、これはその四首目にあたります。
曾經滄海難爲水
除卻巫山不是雲
かつて滄海を経たれば水難しと為さず
巫山を除却すれば 是れ雲ならず…
このポストによると、『へび』は元稹の詩「離思」を典拠としている。概ね事実を知るにはこのポストだけで問題ない。しかし、重箱の隅をつつくような些細なこととはいえ、この「授業」にはいくつか内容上の誤りも含まれている。そのため、その指摘とさらなる内容の補完をしよう。ひとつ補習といこうではないか。
第二章 元稹「離思」
元稹、字は微之、中唐の詩人である。西暦でいうと800年前後。かの有名な杜甫・李白の少し後に活躍した。白居易と並び元白と称され、大陸文学史上の評価は高い。今日の日本で名前を聞く機会は少ないが、平安時代の王朝では非常に高い評価を得ていたようである。『源氏物語』の頭中将という登場人物は元稹をモデルとしたという説もあり、さらには主人公光源氏のキャラ造形にも影響を及ぼしているともいう。(*1)優れた和歌、漢詩を集めた『和漢朗詠集』では、大陸詩人の中で白居易に次いで多く作品が取られている。
元稹の中国文学史上の功績として、恋愛リアリズム詩の草分け的存在となったことが挙げられる。それまでは、女性を歌う詩はあるものの、実際に見たり経験したことではなく、形式として定まったイメージの中の女性を歌うのがほとんどであり、逆は存在こそするがごく僅かであった。しかし、元稹は自身の経験を詠み込み、すぐれた詩を残したのだ。そのうちの一つの作品が「離思」である。ちなみにこの漢詩について、前掲のポストでは「亡き妻への愛を歌っている」と述べているが、それは誤りである。元稹には確かに亡き妻を悼む詩がある。それらの作品は、悼亡詩(亡き人を悼む詩のジャンル)として詩集に収められているが、「離思」はその中に含まれていない。これは妻と結婚前のもので、別の女性との恋愛を回顧した、艶詩(女性をテーマとした詩のジャンル)とする説が有力である。(*2)そして、「離思」はテクストによって五首や六首と揺れがあることも念の為指摘しておこう。(*3)本稿ではn-bunaの発言より、五首構成とする『元氏長慶集補遺巻一』を原典として引用をする。少し長くなったが、詩を読んでいこう。
白文
曾經滄海難為水
除郤巫山不是雲
取次花叢嬾囘顧
半縁修道半縁君
書き下し
①曾て滄海を経たれば水と為し難く(*4)
②巫山を除却すれば是雲ならず
③取次する花叢回顧するも嬾し
④半ば修道に縁り半ば君に縁る
ちなみに、書き下しというのも”解釈”です。誤解なきように。
現代語訳と解説
①「一度大海を経験すれば、(少量の水を)水と認めるのは難しく」
この一節は、孟子 盡心上を典拠としている。
孟子曰、孔子登東山而小魯、登太山而小天下。故観於海者、難為水、遊於聖人之門者、難為言。
孟子が言う、「孔子は魯の東の山に登ってみて、魯の国を狭いと思い、さらに高い太山に登って四方を見下ろし、天下をも小さいと思われた。つまり、見識が広大になると標準も高くなるのだ。だから、海を見た人々は、たいていの川では驚かないし、聖人の門に学んだ者には、たいていの言論は相手にされない。
これを踏まえてもっと砕けた言い方をすると、滄海という大海を見てしまったら、たいていの水の量では驚嘆に値しない、というようになる。余談であるが、高所から海を見下ろすということは『へび』においても重要な意味を持っている。次の記事を待たれよ。
②「巫山を取り除いてしまえば、(大抵の雲は)雲に値しない。」
巫山とは、中国最高峰クラスの山である。そんな高い巫山にたなびく雲以外に認めるべき、驚いてしまうような雲は存在しない、という意味だ。前句の滄海に引き続き、なにか一流の物を経験してしまえば並大抵のものでは満足できなくなるという文脈を作る。
③「次々に咲く花々を振り返り見るのも億劫である。」
「取次」は次々に表れるというような意味。「嬾」は「懶」の本字であり、めんどうくさがる、けだるいなどの意味がある。
滄海、巫山というスケールの大きいものに比べれば、なんと小さき花々など見るに値しない些事である。そんな花々をあえて振り返り見るだろうか。(いや、見ない。)
④「(その理由は)半分は私が修行中の身であることに由来する。そしてもう半分は、あなた(を忘れられないこと)に由来する。」
ヨルシカを好きな人はこのフレーズも好きそう、というのは置いておいて。「修道」というのは解釈が難しいが、元稹が道教に凝っていたことを指摘し、その影響だとする説がある。(*5)
次々に咲くきれいな花を見ないのは、修行中の身に由来し、そして「君」に由来する。ここで疑問が芽生える。どうしていきなり「君」が出てきたのだろうか。これはもともと海や山、花などの自然を詠っていた詩であり、いきなり登場した「君」に困惑する人もあろう。実はこの「君」というのが、「離思」を貫く大きなテーマなのである。
次章では、あえてスルーしてきた「巫山の雲」の故事について詳しく見ていこう。ここに答えが隠されている。
その前にひとまず「離思」と『へび』についてまとめておこう。現時点でもいくつかの疑問は解消された。「海」や「巫山」、「花」は「離思」に登場するキーワードであった。「海」「巫山」は一流のもののことで、「花」はそれらに比べて数段スケールの落ちる些事である。「海を知らず」とは、優れた一流の物を知らない、という例えであろう。だから、「ただ海の深さを見たいだけ」や「ただ巫山の雲を見たいだけ」などと知への欲求を顕にしている。また、そのために些事である「花」には目を留めないのである。
第三章 「高唐賦」
それでは次に「巫山の雲」の故事について見ていこう。この故事の元となったのは「高唐賦」である。これが収められている『文選』は昭明太子により編纂された詩文集であり、成立年代は南北朝時代(西暦430~580ごろ)である。その中の宋玉という詩人の作である。簡単にあらすじを述べると、楚という国の王と作者宋玉が巫山のふもとに赴き、そこに浮かんでいる雲の様子や伝承などを詩にしたものである。少し長くなるので、注(*6)に書き下しを逃がし、白文と現代語訳のみ提示することにする。抜粋したのは冒頭、所謂序の部分である。
昔者楚襄王、与宋玉遊於雲夢之台。望高唐之観、其上独有雲気。崪兮直上、忽兮改容。須臾之間、変化無窮。王問玉曰、此何気也。玉対曰、所謂朝雲者也。王曰、何謂朝雲。玉曰、昔者先王嘗遊高唐、怠而昼寝。夢見一婦人、曰、妾巫山之女也。為高唐之客。聞君遊高唐、願薦枕席。王因幸之。去而辞曰、妾在巫山之陽、高丘之阻。旦為朝雲、暮為行雨。朝朝暮暮、陽台之下。旦朝視之如言。故為立廟、号曰朝雲。王曰、朝雲始出、状若何也。玉対曰、其始出也、㬣兮若松榯。其少進也、晣兮若姣姫揚袂鄣日而望所思。忽兮改容、偈兮若駕駟馬建羽旗。湫兮如風、凄兮如雨、風止雨霽、雲無処所。(以下略)
昔、楚の襄王が宋玉とともに雲夢の台を訪れ、高唐の楼観を眺めた。ちょうどその上には一筋の雲があった。その雲は高くまっすぐ上っていたが、忽然と姿を変えた。少しの間に限りなく変化しているのである。王は宋玉に、これは何という気なのかと尋ねた。宋玉は、朝雲と呼ばれているものですと答えた。王は、なぜ朝雲と言うのかと問う。宋玉は答えて次のように言った。昔、先代の王が高唐に訪れ、お疲れになったため昼寝をした。その夢には一人の婦人が現れこう言った。「私は巫山に住む女ですが、高唐に滞在しています。あなたが高唐にいらしたのをお聞きしましたので、どうか共寝させていただきたく参りました。」そこで先王はこの女と情を交わした。去るときにあたって、女はこう言った。「私は巫山の南の高く険しい丘に住んでいます。朝には雲となり、暮には雨となり、朝な夕なこの楼台の下に参ります。」翌朝にこの方向を眺めると、女の言った通り、雲が浮かんでいた。そして、女のために廟を立てて、朝雲と名付けた。
王は、朝雲の出始めはどのような形であるのか、と問うた。宋玉は次のように答えた。その出始めはまっすぐそそり立つ松の木のようであり、少し時間が進むと明るく輝き、美しい姫が袂を揚げて日を遮りながら向かう方向を思うかのように見える。たちまち形を変化させ、四頭の馬が引く馬車に羽の旗を立てて疾走するようになります。寒々しい風となり、雨となり、風が止み雨が晴れると、雲は無くなってしまう。(以下略)
ここからわかるように、「巫山の雲」あるいは「巫山の雲雨」とはそれ自体で男女の情交を意味するのだ。夢の中で契った女性が、朝には雲となり夕べには雨となることからこの意味で用いられる。
これを踏まえてまずは「離思」を解釈しよう。「巫山の雲」は男女の情交を意味することから、他に代え難い素晴らしい女性という意味でとっていいだろう。世界一深い「滄海」や世界一高い「巫山の雲」のように、この上ない女性が結句の「君」なのである。そう考えると「花」というのは他の女性のことだとわかるだろう。改めて意味を補った「離思」の現代語訳を置いておこう。
「離思」疎影訳
一度この世で一番深いとされる滄海を見てしまえば、たいていの水には驚かない。
この世で一番高い巫山の山にたなびく雲を除いてしまえば、他は雲とは言えない。
それと同じように、一度素晴らしい女性を知ってしまっては他の女性では満足できない。
次々に咲く花のように現れる他の女性を振り返り見るのも億劫である。
それは私が修行中の身であるから。そして何より、あなたを忘れることができないからだ。
さて、これの「巫山の雲」の故事は『へび』にも流入できる。『へび』の「巫山の雲」を、直接「高唐賦」本来の意味である男女の情交と読み替えるのはやや不自然である。しかし「離思」の、別れてしまったが忘れることができない女性というイメージにはぴったりであろう。「巫山の雲」とは、別れてしまった女性への思慕、あるいはその女性そのものを指すのである。また、本文中に幾度となく用いられる「雲」にも重ねられているものとして読んでいいだろう。
また、「高唐賦」からは「雨」や「夢」の描写の謎を解くことが出来る。
まず「高唐賦」における「夢」は、先王と巫山の女が逢瀬する場所であった。『へび』でもそのような文脈で使われている。
あの大きな海を経れば
あの雲の白さを見れば
あなたとの夢の後では
他には
「海」「雲」と、「離思」で代えがたい一流の存在として例えられたものを述べ、それと並列に「あなたとの夢」と語っている。これは間違いなく「高唐賦」の「夢」と同じく、「あなた」との逢瀬の場であると考えてよいだろう。そしてそれが何にも代えがたい大切な思い出であることを示唆しているのだ。
次に「雨」である。「雨」というのは女性のもう一つの姿であった。朝には雲、夕べには雨となる。後半部分ではその雲の動きの遷移が描写されている。「其少進也、晣兮若姣姫揚袂鄣日而望所思。(少し時間が進むと、明るく輝き、美しい姫が袂を揚げて日を遮りながら向かう方向を思うかのように見える。)」というように、明け方には明るく輝いていた雲は、暮には「湫兮如風、凄兮如雨、風止雨霽、雲無処所。(寒々しい風となり、雨となり、風が止み雨が晴れると、雲は無くなってしまう。)」と姿を変えてしまうのだ。『へび』ではこれを踏まえたような表現が認められる。
行方知らずのあの雲の下
あなたの鱗は日差しに似ていた
雨を知らず、触れて熱く
ぼやけたよもぎの香りがする
「あなた」はこの曲では「巫山の雲」に強く連動していることは先に述べた。「鱗」は現段階ではまだよくわからないが、「あなた」の身体にまつわるものが、「日差しに似ていた」「雨を知らず」とされている。この特徴はまさに「高唐賦」の明け方の雲の特徴と一致している。日を受けて明るく輝いた雲は、後に振る雨を感じさせもしない。それがこの表現の謎を解く鍵となるだろう。
次からは若干論拠の弱い余談になるが、「高唐賦」詩本文には次のような場面がある。これは巫山の傍らに建てられた楼からの景色を描いた場面である。
上至観側、地蓋底平。箕踵漫衍、芳草羅生。(略)薄草靡靡、聯延夭夭。越香掩掩、衆雀嗷嗷。雌雄相失、哀鳴相号。(略)其鳴喈喈、当年遨遊
頂きに登り楼の傍らに至れば、地平は平らである。前が広く後ろが狭い平らな土地に、香草が連なり生えている。(略―ここには香草の具体名が列挙されている)草むらが風に靡き、連なり若々しく生い茂っている。香草の香りが立ち込め、雀たちは悲しげに鳴く。雌雄は互いにはぐれ、哀れにも鳴き呼び交わす。(略―ここには鳥の具体名が列挙されている)それらは揃って鳴き、今が盛りと飛び回る。
ここでは香草と飛び回る鳥たちの様子が描かれている。『へび』にでてきた「よもぎ」「シジュウカラ」「ホオジロ」などは見られないが、『へび』によく似た世界観であると感じた。
まとめ
「巫山の雲」とは、「高唐賦」から派生して男女の情交の意味であった。それを引用した「離思」では何にも代えがたい女性の意味で使用しており、『へび』でも同様の意味で使われていると考えられる。他にも「海」や「花」など「離思」に関連した単語や、「雨」「夢」など「高唐賦」に関連した単語の使用が散見される。
さて、今回見ていったように「雲」と思いを寄せる相手、即ち「あなた」は強い関連で結ばれていると考えられる。ではこの「雲」をキーワードとして次の記事からようやく『へび』の本文を精読していくことにしよう。
注リスト
(*1)『源氏物語』と元稹との関係
『源氏物語』に登場する頭中将のモデルが彼だと言われるが、そもそも天皇の子孫が臣籍降下した際に賜る姓「源氏」とは、元稹の姓と同じ考え方のもとに成立したものである。その意味では彼の存在は頭中将と同時に光源氏のモデルでもあると言える。
「元稹の姓と同じ考え方」とは次のような事実を指す。
その祖先は北魏を建国した鮮卑族の拓跋珪(道武帝)であり、王族の末裔を意味する元氏を称した。
(*2)「離思」の成り立ち
元稹は生涯、主に三人の女性と関係をもったとされている。まず最初の妻韋叢。その没後に娶った裴淑。この二人の妻である。そして「離思」に強く関連するのは韋叢と結婚する前に恋愛関係にあった双文という女性である。双文について詳しいことはわかっていないが、元稹の伝奇小説『鶯鶯伝』で語られた女性のモデルとなった人物とされている。『鶯鶯伝』のあらすじは、官吏登用試験に挑む主人公と身分が低い家の女性が恋に落ちるが、試験に合格した主人公は身分の違いのためなくなく女性と別れるというものだ。
「離思」が悼亡詩と混同されることについて、次のような指摘がある。
雲谿友議下(引用者注:「雲谿友議」は唐末の説話集。范攄編。)の「艶陽詩」の条に、これを悼亡詩だと云っているが、杜撰であろう。
また、山本は「離思」について、同著で次のように語っている。
この詩を一読すれば、まず「遊仙窟」や「鶯鶯伝」の唐代伝奇小説と共通する性格の存在に気づく。それは、現実の生活とはあくまで次元を異にする世界のこととしてうたわれていることである。(略)この詩は中国の伝統的な抒情詩とはやや異なり、中唐以後、元稹自身もその作者の一人として加わった伝奇小説の流れに沿って誕生したものであり、特に「鶯鶯伝」の一部分としての性格が濃厚である。
(*3)「離思」構成の揺れ
『才調集』(韋毅編 五代十国時代(907~960あたり)に成立)では七言律詩一首と七言絶句五首をあわせた六首、『元氏長慶集補遺巻一』(馬元調編 1604年)ではすべて七言絶句の五首とする。『才調集』で「離思」に数えられていた七言律詩一首は、『元氏長慶集補遺巻一』では「鶯鶯詩」と名付けられ独立している。これも前掲の山本に指摘されている。
(*4)書き下しについて
ここは、前掲の「授業」ポストとは違う書き下しをしている。「授業」の方では「水難しと為さず」としているが、これは意味不明。ほとんどのテキストでは「水→難→為」ではなく、私がしたような「水→為→難」の順で読んでいる。
(*5)「修道」について
この「修道」は道教の概念とみる説がある。元稹と道教の関わりは早くからあったようで、次のように指摘されている。
早熟の才子であった元稹には、十八才の折の「開元観閑居酬呉士矩侍御三十韻」(『元稹集』巻十)と題する詩が残されており、詩人が若年から長安の道観に親しんでいた様子が窺われる。
また、「修道」という言葉については次のように述べられる。
「修道」という言葉との関わりと後述する元稹の司馬承禎に対する強い関心からして、随所に「修道」の語が重く用いられている司馬承禎の主著「坐忘論」の事が気に掛かる。
(略)
『坐忘論』では、序文で坐忘の法は、「略 七条を成し、以て修道の階次と為す」と説く如く「敬信」「断縁」「収心」「簡事」「真観」「泰定」「得道」の七段階が設けられ議論が展開される。
そして、元稹と司馬承禎との関わりについて次のように指摘する。
この詩(引用者注:元稹「東川に使す」(『元稹集』巻十七))によれば、元稹はこれより以前に司馬承禎の王屋山の道壇を訪れたことが知られ、元稹の司馬承禎に対する関心の深さが窺われる。
(*6)高唐賦 幷序 宋玉 書き下し
昔者楚の襄王、宋玉と雲夢の台に遊ぶ。高唐の観を望むに、其の上に独り雲気有り。崪として直上し、忽として容を改む。須臾の間、変化無窮なり。王玉に問て曰く、此れ何の気ぞと。玉対て曰く、所謂朝雲なる者なり。王曰く何をか朝雲と謂ふ。玉曰く、昔者先王嘗て高唐に遊び、怠て昼寝す。夢に一婦人を見る。曰く、妾は巫山の女なり。高唐の客と為る。君高唐に遊ぶと聞く。願は枕席を薦んと。王因て之を幸す。去りて辞して曰く、妾は巫山の陽、高丘の阻に在り。旦に朝雲と為り、暮に行雨と為る。朝な朝な暮な暮な陽台の下にあり。旦朝に之を視れば言の如し。故に為に廟を立て号して朝雲と曰ふと。王曰く朝雲の始出、状若何ぞ。玉対て曰く、其の始出、㬣として松榯の若し。其の少進、晣として姣姫袂を揚げ日を鄣して思ふ所を望むが若し。忽として容を改む。偈として駟馬に駕し羽旗を建るが若し。湫として風の如く、凄として雨の如し。風止み雨霽れ、雲処所無し。(以下略)
参考文献リスト
・ヨルシカの歌詞については、ヨルシカ OFFICIAL SITEの「LYRICS」より引用している。
ヨルシカ OFFICIAL SITE
・『中国日本〈漢〉文化大事典』明治書院 二〇二四年六月 「元稹」の項(静永健)
・『元氏長慶集補遺巻一』(馬元調 一六〇四年)(閲覧は次のサイトによる。
元氏長慶集補遺卷一-元氏長慶集全文原文及譯文-識典古籍)
・『理と詩情 中国文学のうちそと』山本和義 研文出版 二〇一二年七月
・『孟子 全訳注』宇野精一 講談社学術文庫 二〇一九年三月
・「「上元」「蕊珠」と「金籍」「玉皇」―元稹の詩文と道教世界―」砂山稔(『東方宗教 第百三十七号』二〇二一年十一月二十日 日本道教学会)
・『標註文選正文 四』蕭統 撰(一八八二年十二月 水野幸)
閲覧は国会図書館デジタルコレクションによった。
文選正文 : 標註 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション
・『新釈漢文大系81 文選(賦篇)下』(明治書院 二〇〇一年七月)
