零戦と三菱重工業〜日本航空機メーカーの雄を辿る
日本の三大航空機メーカーとして、中島、三菱、川崎は揺るぎない存在でした。この3社は飛行機のみならず、航空用エンジンの開発にも力を注ぎました。今回はその中から、零戦で広く知られる三菱重工業について取り上げます。陸海軍双方に航空機を提供し、さらに航空用エンジン「金星」や「火星」の開発を行った三菱重工業は、日本有数の総合重工業企業として軍需生産に大きな貢献を果たしました。
1. 三菱重工業と零戦
三菱重工業の起源は1884年にさかのぼります。岩崎弥太郎氏が長崎造船所を開設し、船舶事業を発展させていきました。その後1934年に重機や鉄道車両を統合し「三菱重工業株式会社」となり、太平洋戦争期には日本を代表する総合重工業企業となりました。
その名を不朽にしたのが零式艦上戦闘機(A6M)です。零戦は太平洋戦争初期、比類なき航続距離と旋回性能によって世界を驚かせました。設計を担当したのは堀越二郎氏であり、その名は映画『風立ちぬ』でも広く知られるようになりました。

しかし零戦には意外な事実があります。総生産数は約10,423機でしたが、そのうち三菱製は約3,880機に過ぎず、残り6,500機以上は中島飛行機によるライセンス生産でした。つまり「零戦は三菱の設計、中島の量産」という分業体制こそが、日本の航空戦力を支えていたのです。しかも細部には生産会社ごとの違いがあり、塗装の色合いやスピナ形状には微妙な差が生まれました。こうしたエピソードは零戦の奥深さを物語っています。

ファインモールド1/48零戦の紹介HPより
2. 三菱軍用機の系譜
三菱は零戦の前に、すでに革新的な航空機を生み出していました。1936年に登場した九六式艦上戦闘機(A5M)は、日本初の全金属単葉戦闘機であり、複葉戦闘機が主流だった時代に一歩先を行く存在でした。この設計思想は、そのまま零戦の基礎となります。
堀越二郎氏も「零戦よりも九六式艦上戦闘機の完成の方が感慨深かった」と述べてます。
太平洋戦争に入ると、海軍向けには一式陸上攻撃機(G4M)が主役となりました。航続距離は抜群で、ガダルカナルやインド洋など広大な戦域で活躍します。

さらに本土防空用の局地戦闘機 雷電(J2M)や、零戦の後継を目指した烈風(A7M)も開発されました。烈風は大馬力エンジンハ43を搭載する予定でしたが、戦局の悪化と資源不足で実戦投入には至りませんでした。三菱は堀越二郎氏を中心とした技術陣で零戦の後継機の開発に望みますが、相当苦労したようです。
陸軍向けでも、三菱は存在感を放ちました。九七式重爆撃機は日中戦争から太平洋戦争初期にかけて陸軍の主力爆撃機として活躍しましたし、百式司令部偵察機は「連合軍パイロットが追いつけない偵察機」と称賛されるほどの高速性能を誇りました。
主な自社開発の軍用機
旧日本陸軍
・九七式重爆撃機 2,064機(約2,064機、中島との共同)
・九七式軽爆撃機 686~820機(三菱636機)
・九七式司令部偵察機 437機
・九九式襲撃機/軍偵察機 2,385機(軍偵含む)
・ 一〇〇式司令部偵察機 1,742機
・四式重爆撃機「飛龍」635~697機 ※三菱にとっての一式陸攻の後継機的存在
・キ83 遠距離戦闘機 (日本陸軍機で最速の戦闘機 試作4機)

旧日本海軍
・九六式艦上戦闘機 1,094機
・九六式陸上攻撃機 421機(資料により530機)
・九七式二号艦上攻撃機 205機 ※もう一種類の九七式艦攻
・零式艦上戦闘機 10,430機(うち三菱約3,880機、残り中島)
・零式水上観測機 532機
・一式陸上攻撃機 2,435機
・局地戦闘機「雷電」671機
・十七試艦上戦闘機「烈風」8機(試作のみ)
・十九試局地戦闘機「秋水」(陸海軍共同開発)6機

3. エンジン開発と技術の挑戦
航空機の心臓部であるエンジンでも、三菱は独自の歩みを進めました。初期にはドイツのBMW製液冷エンジンをライセンス生産しましたが、やがて空冷星型に注力し「金星」「瑞星」「火星」といったシリーズを開発しました。中でも信頼性に優れた金星系列は多くの機体に搭載されました。

さらに戦争末期には2,200馬力級のハ43を開発し、烈風や局地戦闘機に搭載する計画でした。もし量産されていれば、日本戦闘機の性能は大幅に向上したと考えられています。
また、国産初のジェットエンジン「ネ20」開発にも関わり、試作ジェット機「橘花」に搭載されました。敗戦で量産は幻となりましたが、この経験は戦後航空産業の再建に大きく寄与しました。
4. 中島とのライバル関係
日本の航空史を語る上で欠かせないのが、中島飛行機とのライバル関係です。中島は日本一の生産能力と豊富な開発技術者たちを強みにし、陸海軍の主力戦闘機たちを開発、量産しました。特に疾風は三菱の飛龍と共に大東亜決戦機と称され、戦争末期の切り札とされたことで有名です。
両者は競い合いながらも補完し合い、日本全体の航空技術水準を押し上げました。零戦の設計を三菱が担い、生産を中島が引き受けた事実は、その象徴的なエピソードといえるでしょう。

5. 戦後の復活と教訓
敗戦と同時に航空機製造は禁止され、技術者たちは散り散りとなりました。三菱は財閥解体により分割されましたが、1964年に再統合され新生「三菱重工業株式会社」となります。その後はF-86セイバーやF-4ファントムのライセンス生産で再び航空機開発に携わりました。
1960年代には国産双発ターボプロップ機MU-2を開発し、欧米市場でも成功を収めます。戦後日本の航空機で商業的に成功した数少ない機体でした。さらに21世紀には国産ジェット旅客機MRJ(後のSpaceJet)に挑みました。結果的に事業は中止となりましたが、複合材やシステム統合の経験は日本の航空産業にとって大きな資産となりました。
「零戦の三菱」という言葉は、単なる過去の栄光を語るものではありません。苦難に直面することで当時のエンジニアたちが潜在力を発揮し、苦難の中から新たな挑戦を生み出してきた歴史そのものを示しています。
企業も人間も、試練の時こそ真価を問われます。三菱の歩みは、その普遍的な教訓を今に伝えているのです。
