「霧島光」は渡辺温の変名ではないだろうか
新青年で創作を1編、翻訳作品を1編発表している「霧島光」という人物がいる。これは渡辺温の変名ではないだろうか。
もし本当に渡辺温の変名ならば、これは新たに作品と翻訳作品を発見したことになる。なので「霧島光」が渡辺温だと考えた理由を総て此処に記すことにする。
「さかさ綺譚」の翻訳者
新青年昭和5年2月増刊号(11巻3号)に「霧島光」という人物が「さかさ奇譚」という作品を翻訳している。

増刊号はお小遣い稼ぎになるという話。
先ず、この目次を目にした時に「横溝、水谷が並んで寄稿しているのに渡辺温だけが寄稿しないというのは、どういう事だったのだろうか?」と言う事を思った。何故なら横溝正史が、昭和3年に渡辺温と二人で旅行へ行った時の話として、こんな事を書いて居たからだ。
当時のわれわれはたいへん貧乏であった。いや収入はそうとうあったのだけれど、金さえあれば社からまっすぐに銀座へ出て、あちらのバー、こちらのカフェと飲み歩いていたので、ふたりともいつも金欠病者であった。ことに温ちゃんはまだ独身だったからいいようなものの、私はその前年の正月に結婚して世帯をもっていたにもかかわらず、家を外に飲み歩いていたのだから、私の金欠病はことにひどかった。
そこで旅費の調達を「新青年」の増刊でやろうということになった。当時に「新青年」は春と夏に二回増刊を出していたが、どの増刊も探偵小説の翻訳が満載されており、これが「新青年」の呼びものになっていた。
(中略)
さて、当時「新青年」を発行していた博文館ではこういう掟になっていた。「新青年」なら「新青年」の編集担当者が普通号に書いた場合、原稿料は請求できないことになっていた。しかし、年二回の増刊や年三回あるいは四回出る增大号ではそれが許されるのである。しかし、いかに許されるからといって、自分の雑誌に自分が書いて稼ぐということは、あまり誉められたことではないので、私は出来るだけ控えるようにしていたが、こんどはひとつ旅費を捻出するためにも、ひとつやってみようではないかということになり、温ちゃん私とで四十枚の翻訳をやった。前半の二十枚を温ちゃんがやり、後半の二十枚を私がやったうえ、全体の文体を私が整理したのである。当時から私はたいへん小器用であった。
詰まり、増刊号は新青年編集者にとってよい小遣い稼ぎのチャンスであり、横溝・水谷と共に飲み歩いて居た温だけが、この機会をみすみす逃すだろうか?ということを思ったのだ。
昭和5年2月増刊号の頃は水谷と温は新青年の担当だが、横溝は文藝倶楽部に居る。横溝は増刊号でなくとも新青年に書けば原稿料が貰えただろうが、仲の良い水谷が声を掛けたという感じだろうか。二人並んで同じ企画に執筆しているあたりに、裏の人間模様を感じてしまう。(そう考えるともう一人の「蒼山直樹」と言うのも博文館に居た誰かの変名ではないのかと思えるが……)
「霧島」というペンネームについて
昭和三年の夏季増刊探偵小説傑作集に『深夜の晩餐』<ビーストン・霧島クララ訳>とあるのがそれである。私がなぜこんなことを記憶しているかといえば、いざ訳者のペン・ネームをつけるだんになって、
「温ちゃん、前半はあんたがやったんよって、苗字はあんたがつけえな。だれか好きな女優さんでもいないか」
温ちゃんは当時あった築地小劇場のファンだったので、そこの主演女優級の霧島直子(後の映画界の大スター伏見直江)の霧島をとり、私は当時イット女優と騒がれたクララ・ボウのクララをとった。かくて霧島クララというペン・ネームが出来上がったので、私はいまでもよく憶えているのである。
さて、原稿料は一枚二円。きっちり四十枚に翻訳したので、しめて八十円を請求し無事に払い出された。
※「霧島クララ」が翻訳で新青年に初登場したのは、昭和2年4月增大號の「アモス・ホプストン 」との事なので(新青年傑作選5/立風書房より)この名を付けたこと自体は昭和2年の2〜3月頃だと考えられる。
渡辺温と横溝正史の翻訳ユニット名である「霧島クララ」は「霧島」も「クララ」も女優(俳優)の名で、「霧島」の部分は渡辺温という事になる。
当初は横溝とのユニット名として生まれた「霧島クララ」だったが、温はその後「十年後の十字街」「風船美人」を霧島クララの名で書いて居る。
「光」と言う名について
「霧島光」の「光」の方だが、渡辺温の友人には俳優の「山内光(=岡田桑三)」が居る。横溝正史によると温は愛用の山高帽を山内光に売り、そのお金を足してシルクハットを買ったという事。このエピソードから山内光は半分くらいは渡辺温の「シルクハット」の登場人物「中村」のモデルになったのではないかとも思われる人物だ。詰まり山内光と渡辺温は比較的親しかったらしい、という事だ。
亦、伊沢蘭奢が昭和3年に宛てた手紙の中で、渡辺温と山内光が飲み仲間だったらしい樣子が書かれて居る。
(昭和3年5月19日 伊沢蘭奢から息子へ宛てた手紙)
邦楽座の楽の晩、いつか内藤さんと三人でいったリッツってカフェね、あそこから電話で呼びだされて行ってみたら、「新青年」の渡辺温さんと村山知義さんと日活の山内光さんと「キネマ旬報」の内田岐三雄さんの四人でまちうけていて、御馳走してくれたり、高島愛子が売り子に出ているアザレという池田俊子の店へ四人でいって、がやがやひっかきまわして二つ三つ買った時、村山さんが一つごまかしてきたというフランス製の紅グモのえりどめを進呈してくれたりして、それからサイセリヤというカフェへいって、いろんなカクテルをのまされて、でもなかなかしっかりして、狼連をのがれて、円タクでかえってきた。
そして山内光は渡辺温が横溝、水谷らと行き着けていて妻と出会ったバーである「サイセリア」の客だったという事を、伊沢蘭奢の息子が話して居たと言うことだ。
ぼくのところへきた最後の手紙には、高田保、内田岐三雄、山内光らといっしょにサイセリアで飲んでいる、と書いてありました。
亦、山内光は新青年への寄稿も行っており、上記の事からも此れは渡辺温の縁で寄稿したのではないかと考えられる。
「霧島クララ」の名は、苗字・名前ともに俳優に由来があるが、「光」も俳優の名である。それも渡辺温の友人の俳優の名だ。
詰まり僕は「霧島光」は「霧島クララ」と同じ法則で作られたペンネームだと考えた。
仮に「霧島光」が渡辺温一人の名でないにしろ、少なくともこれは渡辺温と山内光ファンの誰かとの連名ではないだろうか、と思われた。
さかさ綺譚はイギリスの作品
「さかさ綺譚」の原作、F・アンスティはビクトリア時代のイギリスの作家で(wikiより。→ https://w.wiki/Ef3H )諷刺雑誌でユーモア小説を書き、代表作「あべこべ」は黒岩涙香が「おやおや親」として翻案しのだそう。内容から「さかさ綺譚」は「あべこべ」と同じ作品だと考えられる。
この作品は英語で書かれた作品なので、渡辺温でも翻訳が可能である。(※温はポーの作品なども翻訳して居る。)
また、内容的に「さかさ綺譚」はユーモアで「入れ替わりもの」である。温は本格推理小説を訳することは殆ど無く、ジャンル的にもこの「さかさ綺譚」を手がけていてもおかしくは無い。
故に状況的に見ても、渡辺温が翻訳をして居ることに無理は無い作品だと言える。
モダン大學の予告
と、まあ当初は上記に上げた理由だけで「霧島光」は渡辺温の変名ではないかと疑って居たのだが、別件で新青年を見て居た所、殆ど確定ではないかと思われる証拠を見付けた。
新青年昭和4年10月号の予告より。

霧島光が「ロマンティスト」について書くとの事。
だが実際は11月号の「モダン大學」では「浪漫趣味者として」を渡辺温が書いて居る。これがロマンティストの項にあたる物だ。

予告を書いた時点で予定していた寄稿者が変わってしまったのか。或いはすべは仮の名だったのかという可能性も思い、他の寄稿者の状況も比べてみた。
ロマンティスト:霧島光
浪漫趣味者として:渡辺温オプテイミスト:浅山二郎
楽天家たるの術:浅山二郎イデアリスト:川崎西児
悲しき理想主義者:川崎西児ニヒリスト:長谷川修二
虚無主義者たる心得:長谷川修二フエミニスト:赤井修
女人第一第一課:サトウ・ハチロー
霧島光が「ロマンティスト」を書こうとした理由を考える
この内変更になったのは霧島光と赤井修である。赤井修と言う人はGoogleでは出て来ず、当時用もないのに博文館で過ごして居たというサトウ・ハチロー(※岡戸武平/博文館の侍たちより)が、適当に上げたペンネームで、いざ掲載となるとちゃんと自分の名で出したくなったと言うことなのだろうか。
赤井修≒サトウ・ハチローの謎は他の方にお任せするとして……。
霧島光≒渡辺温の話だが、当初渡辺温は、霧島光と言う匿名でロマンチストとして何か愛に就いての話を語るつもりではなかったのだろうか。
後述するが、昭和4年12月号に掲載された霧島光の創作は、母親に戀愛は未だ早いと止められるような少女と、少女を誘惑する青年と性の目覚めというようなモチーフの話が描かれている。話のエッセンスは「十年後の十字街」にも近い。そういえば「十年後の十字街」も渡辺温名義ではなく「霧島クララ」名義だ。
渡辺温がもう一つの変名「奥村みさ子」を使う時は、及川道子との戀愛とその決別の物語を書いて居る。
温は自分の心の爲に此れらの物語を書かざるを得なかったけれど「決別」という悲しい心情を、及川道子には読まれたくなかった。或いは、読まれるにしても自分が書いたとは知られず、他の作家が偶然自分たちと似た境遇の物語を書いていたと言う風に思われたいと、考えたんじゃないんだろうか、と僕は考えて居る。
「おくむらみさこ」と「おいかわみちこ」は平仮名にするとよく似た名前になるし、その上「さ」と「ち」は鏡に映せば同じになる。
そのことからも「奥村みさ子」は及川道子に関する物語を書くための専用の名前ではないかと思われる。(更に余談だが、奥村みさ子名義で書いたのは温と道子が別れたと思われる時期と、道子が映画デビューをした直後。温の人生と重ねると作品の理解がしやすい)
「霧島光」が登場した昭和4年の渡辺温は「結婚」と言う名の同棲中で、内縁の妻・まりが居る。妻に「まだ及川道子を愛しているの?」と不安にさせないように、新たに作った変名「霧島光」で道子との関係を想起させる物語を書こうとしたのではないのだろうか。
これが僕が当初渡辺温が「霧島光」の名でロマンティストについて書こうとしたのではないか、と考えた理由だ。
渡辺温が「浪漫趣味者として」を書いた理由
では実際は何故「渡辺温」の名で浪漫趣味者としてを執筆、掲載したのかというと、これは長谷川修二との関係があると思われる。
渡辺温と長谷川修二は大学時代からの親友で、学生時代は毎日一緒に過ごす程仲が良かったのだそう。けれども大正15年の12月に修二が仕事で関西へ行ってからは、温の死まで二人は10回程度しか合っていないということ。となると、年に3回程度のペースだろうか。
参考:二人の仲良しぶりがよく分かる文章↓
修二は温が編集に入ってから此の昭和4年11月までも、新青年に様々な記事を寄稿して居る。中でもカフェに関する随筆風の創作では度々、渡辺温がモデルだと思われる人物に就いて「カフェでめちゃくちゃしてる」というような話を書いている。
そうして、長谷川修二は温の追悼記事の中で、こんな事を書いて居る。
こんな原稿を讀まうものなら、ひでえ奴だお前は、とか何とか云ひながら、ニヤニヤ笑ふだらう、と許り想像する
詰まり、渡辺温が死んだという原稿を読んだら温は「ひでえ奴だお前は」と笑うだろうという話なのだが、これはもしかしたら今迄、修二が新青年で温の事を書く度に「ひでえ奴だお前は」とか言いながら温がニヤニヤ笑っていたという事なんじゃないだろうか。
閑話休題。
長谷川修二の話が長くなったが、渡辺温側の話をする。
たまにしか会えない親友が、原稿を送ってくれば毎度のように誌面で自分にじゃれついて來る。今とは違い電話もそう出來ないし、修二の作品は温にとってある種のラブレターみたいな物だったんじゃないだろうか。
そうして到頭、此の「浪漫趣味者として」で温は修二にやり返している。
「浪漫趣味者として」を新青年誌上で見ると、同じ「モダン大學」という企画内で長谷川修二→渡辺温という並びで掲載されて居る。この流れで読むと作中に登場するH氏というのは長谷川修二の事だろうと言うのは想像に容易い。二人の関係を知って居る者からすれば、すぐにピンと来る。
二人の関係を思えば長谷川修二の本名「楢原」からN氏としても良さそうだが、H氏としたのは察しの良い人々へ修二の事だと伝わるように、敢えてH氏としたのだと、修二へプレッシャーを掛けるような気持ちでそうしたのだと思われる。
またこのH氏のキャラクターが非常に長谷川修二らしい。教養豊かでお洒落の知識やマナーも豊富、色々な蘊蓄を語って聞かせる所も長谷川修二によく似ており、此の人を調べれば調べるほどH氏は長谷川修二でしかないなと思う程に。(※長谷川修二らしさというのは本人の様々な文章や人々の回想録から判断した/引用すると膨大になる爲今回は控えておきます…が、一つだけ▶▶ 長谷川修二は昭和三年頃で既に「多元宇宙理論」を知っており、その事をユーモアに織り交ぜた程に、新しい事にも古いことにも知識が深い人であります)
亦、この作中で主人公はH氏に連れ居ていって貰った店で、H氏が先に仲良くしていた女給と恋仲になる……という展開があるが、長谷川修二が昭和4年9月号に書いて居た「カフェに於ける」にはH氏側の視点とも云える同じようなエピソードがある。
此れは主人公が行きつけのカフェに「オング君」を連れて行ったら、自分が何ヶ月も掛けて口説いていた女給とオング君があっという間に恋仲になってしまったと言うものだ。
「浪漫趣味者として」の執筆期間が9月中と考えられるので、温はこの9月号の修二の原稿を読んでそのアンサーとして浪漫趣味者を書いたのではないだろうか。
此の頃の温はまだ新青年に復帰をしていないから、発売前に原稿を見る事はなく新青年の発売と共にその内容を知った可能性が高いと僕は考える。
参考:昭和4年8月〜5年の渡辺温のスケジュール↓
新青年編輯部復帰前の温は、水谷準辺りから原稿の依頼を受け、当初「霧島光」で書くと伝えたが、修二も書くことを知り「なら温の名で書いて修二にやり返してやろう」と考えたのではないだろうか。そうして修二へのアンサーとしての作品を書くのなら、匿名めいた変名よりも「渡辺温」の方が相応しいしと考え、霧島光の名を使うことを止めたのではないのだろうか。
「浪漫趣味者として」のオチは、結局H氏は貧乏なペテン師だったという話で、そういえば学生時代の長谷川修二はお金が無かったと室伏高信が書いて居た。それを思うと「浪漫趣味者として」は半分くらいは実話なのかもしれない。
温はこうしてH氏こと長谷川修二の事を描き、親友にじゃれ返してやったのだろうと思う。
故に「霧島光」なる人物が執筆を止めて、渡辺温が代打として書いたのでは無く、渡辺温が霧島光の変名を使う事を止めたと言う事は十分に考えられる。
作風について
ゴギ・マゴギの物語、オットーとエムマの話
その翌月、霧島光は新青年昭和4年12月号に「ゴギ・マゴギの物語」という掌編を書いて居る。

先にも書いたけれど、恋を知る以前の思春期の入口に立つ少女と、少女を誘惑する青年、それを憂う母。キスの意味も解らない少女に突然の口附けなど。二編とも「十年後の十字街」に近い要素で構成されている物語だった。渡辺温の作品によく見られる「少女と青年の恋」というモチーフでもあり、及川道子からインスピレーションを得たと思われる作品だ。
けれど「奥村みさ子」名義作品と違い、霧島光の作品はあっけらかんとした笑い話のようでもあり、ものすごく残酷にも見える話でもあり、そこに至るまでの過程にセンチメンタルな情感があったり、切れの良いナイフですぱっと切り落としたようなラストで、余韻の無さが却って余韻になって居たりと、個人的には渡辺温の作風そのものであると感じた。
僕は温が「霧島光」などの変名を使うのは、妻に見られたくない原稿を書く時、という仮説を立てた。しかし此の内容では道子との恋に未練があるとは読み取れない話だが、妻(内縁)であるならモチーフにも過敏になって居てもおかしくないし、横溝正史は「純真な温ちゃんは生涯ひとりの女性を愛しつづけた」(※惜春賦より)と書いており、マリと結婚していても尚、及川道子を愛していたという事が周りに知られていたことになる。少なくとも親友の横溝にはその胸の内を明かしていたということだ。温のそういう本心をマリはどこかで感じており、それが時に不信感や嫉妬となっていたのかもしれない。
若い夫婦(当時25,6歳)の心模様を思えば、この程度の内容でも温が気を遣って変名にしていても無理はないと話だと思う。
さかさ綺譚
目次では「綺譚」とあるが、本文挿絵のロゴでは「奇譚」となっている。恐らくこれは挿絵画家の間違いで、「綺譚」が正しいのではないだろうか。

この作品は内容的にも渡辺温が好きそうな話で、温の創作並に温らしい要素が随所に見られた。それ故に原作を氣に入って翻訳したのだろうと言う事も感じられる。
反権力、弱者を描くこと、弱者へ寄り添う視点、狂騒的なくだらなさ、女の子と少年の小さな恋などがしっかり入ってるあたりも、渡辺温的だなあと思う。ダンスの場面などは、モダンボーイとして夜の街で遊び、チャブ屋(高級洋風風俗店)の女の子とダンスを楽しんでいた温にとって親しみを感じた所ではないのだろうか。
この作品は父と息子が入れ替わる話で、アンスティが1882年に発表した「あべこべ」がこれに当たると思われる。
「さかさ綺譚」が新青年に掲載されたのが1930年なので、当時の視点からするとこれは48年前の作品だ。
渡辺温が啓助と共にポーの作品を翻訳した時に、ポーの時代の空気なども意識してクラシカルな言葉を選んで訳したのだと聞く。
このさかさ綺譚も、50年前のビクトリア時代を意識したのか「あべこべ」或いは「おやおや親」等、訳されるものに「さかさ綺譚」と言う恐らく昭和5年の感覚から見てクラシカルな雰囲気の題名を附けている。また「あべこべ」に比べて「さかさ」と言うのも言葉が固い。
本文では「尠からず(すくなからず)」という字を使っており、温の漢字の使い方とも重なり、特徴的であると思う。
このあたりの翻訳センスも、渡辺温に近いように感じる。
ハッキリとは言えないが、文体も渡辺温の物と遠くはない印象だ。
霧島光の執筆状況
最後に「霧島光」の執筆状況を調べた。
渡辺温が少なくとも「影」でデビューする以前に新青年に寄稿していたら、それは温だという可能性が下がると思うし、温の死後にも寄稿していたら別人の可能性が上がると考えられる。
「霧島光」は昭和4年10月号の予告、12月号の「ゴギ・マゴギの物語」昭和5年2月増刊号の「さかさ綺譚」翻訳以外では名前を見付けられなかった。
【確認方法】
全号の目次をこちらのサイト樣で確認した。→ http://yagi.la.coocan.jp/ssd/ssd_indx_top.html
欠けはデータ掲載サイト樣で確認した。http://hiroshioka1125.life.coocan.jp/book_collection/yokomizoseisi/hakubun_kan/sinseinen_warehouse/sinseinen_2.html
翻訳者は新青年傑作選5(立風書房)で全号分確認した。
国会図書館デジタルコレクションで「霧島光」を検索した
目次と本に関しては確認を目視でやったので8時間ほど掛かったと思う。こういう時に一發で検索出来るデータベースが無いものか……と思ったけれど、本当に存在しないらしく、此れは僕が作るしかないのか、と一寸腕まくりした。
以上が僕が「霧島光」を渡辺温の変名だと考える理由です。
ただ、関係者や本人の直接的な証言がない以上「その可能性がある」の壁を越える事は出來ないと思いますが、僕は渡辺温の変名であると思って居ます。
推定しか出來ない以上、霧島光が渡辺温の作品集に収録されることは恐らくないので、何時かその内僕が霧島光の作品集か、新青年の広告文句やコラージュ漫画などを集めて「渡辺温の作品かもしれない集」でも作って出したいと思っています。その時はどうぞよろしくね。
↓新青年オラクルも含めて、温の匂いがするものが新青年にはたくさん埋もれている。
一旦お終い。
霧島光の件に何か進展があれば追記します。
渡辺温の回想、未発掘記事など、その他渡辺温に関する情報何でもお待ちしております。温の思い出は、伊沢蘭奢さんの手紙のように一行、一言であっても収集しておりますので…。
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