《超適当雑記140》2025年9月25日(木)【母親~氷解する思い~④】
〚3719文字〛
こんにちわ。入谷です。
まず感謝とご報告についてお伝えします。前回までの記事について、マガジンにてご紹介していただいた方々へお礼申し上げたいと思います。
■感謝とご報告〚597文字〛
メルト&クリエイトさま
momoさま
ペリン🍡さま
の3名の方より、以下の記事、
について、
マガジンへ追加していただきました。
思ったより長くなってしまったシリーズでございますが、いつも取り上げてくださり、本当に感謝しております。皆様のご好意がとても励みになっております。どうもありがとうございます。
どうぞ、今後とも宜しく申し上げます。
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りーまむさま
からは、こちらの記事、
について、
マガジンに追加していただきました。
中身を想像し難い記事だと我ながら反省点は多々ありますが、それでも、いつも取り上げてくださり、誠にありがとうございます。
大変感謝しております。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
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itigonohanaさま
からは、こちらの記事、
について、
マガジンに追加していただきました。
葬式というテーマの重い空気漂う記事を取り上げてくださり、ありがとうございます。大変励みになっております。嬉しい限りです。
どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
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明日見健作 青春の旅さま
より、こちらの記事、
について、
マガジンに追加していただきました。
今年は旅行へ行けいないので、懐かしさを感じる記事でございますが、いつも取り上げてくださり、大変感謝しております。また嬉しく思います。ありがとうございます。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
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■母親~氷解する思い~④〚2878文字〛
前回『母親~氷解する思い~③』はこちら。↓ ↓ ↓
・家出とその後・
高校受験は、眼病の発症と入院で叶わなかったけれど、大学は行きたい大学に入ろうと自分なりに取り組んできました。
その甲斐あって希望の大学に入ることが出来ました。
その頃の僕には就職したい、憧れの業界があり、そこに勤めるという目標が明確に決まっていました。目標に近い大学に入ったわけですが、母親は、それを良く思っていませんでした。
というのも、母親は祖父の教育方針により、希望の進路を選べなかった過去があり、どうしても息子にその道を歩んでもらいたかったようです。
親が子供に進路を期待することは、よくある話ですが、うちの場合は根深い問題があったようです。
「女が大学行ったら生意気になる」
今では本当にあり得ないことですが、
祖父はそう言って母親の向学心を一蹴し、少し働いたら、見合い結婚をするように急かしていたそうです。
なので母親の悔しい気持ちは分からなくもありません。
ただ、やはり当時の僕としては、母親に横暴さを感じ、反発する気持ちが強くありました。
絵が非常に得意だった母親は美術関係の大学を希望していたそうです。
中学、高校と美術部で絵に親しみ、入賞の実績もありましたし、将来は美術教師になりたかったと聞かされていました。
僕も絵を描くことが好きでしたし、それ関係の大学へ行くよう勧めるのなら分かるのですが、一体何がどうしたのか、母親は、大学や就職先にステータスを求めるような母親になっていました。
せっかく学費を出すのだから、有名大学を目指しなさい。
安定した生活のため、立派な大企業に入りなさい。
大学の受験勉強を始めた頃から、そう言うようになりました。
何を考えているのだろうと思いました。
蛙の子は蛙。鳶が鷹を産むはずがありません。
僕は、僕の入りたい大学を選び、母親の望む進路とは程遠い世界に行こうとしていたのです。
だからその日も、苛立って釘を刺されていました。
「病気がちなんだから、就職先は安定した役所勤めいい」
「国公立の病院職員とかなら、公務員だし、体調が悪くなったらすぐ診てもらえる」
「あんなお父さんでさえ〇〇の社員だったんだから、あんたも系列の会社に入るための勉強をしたらどう?」
もしかしたら、
それは目に持病を持つ僕を慮っての発言だったのかもしれません。
でもその時はそう思えません。
子供時代の母親がフラッシュバックし、もうこの人に呑み込まれてはいけないという防衛本能から、反論しました。
「どうして勝手に決めるんだよ」
「公務員が良けりゃ、自分が勝手になりゃいいじゃん」
「親父が勤めた会社の関係に入ったって幸せになるとは限らねーだろ」
「母さん、俺は、あんたとは違う人間なんだよ」
冷静に言ったつもりでした。
母親は顔をみるみる真っ赤になり、わなわなと震えながら怒り出しました。
「分からない?!。将来のためを思って言ってやってるんだ!」
「大体金を出してるのは誰だ?。私だろ?!」
「本当にお前とは気が合わない!」
「だから子供なんか嫌なんだ。お前なんか産むんじゃなかったよ!」
何度も聞いた母親の口癖でした。
でも、その瞬間、僕の中で何かがひび割れる音がして、即座に結論が出ました。
「自分の道は自分で決める」
「学費も要らない。金は自分で何とかする。家を出て寮から通う」
「今まで育ててくれたことには感謝してる。ありがとう」
母親は怒ったまま部屋から出て行ってしまいましたが、僕はその日から荷物を纏め、一週間後には実家を出ました。
以前から家を出る計画を立て、大学寮のアパートについて下調べをしてあったため、そこで生活する目処はついていました。
しかしそれからが本当に大変でした。
吐いた唾は呑み込めない。僕にも意地がありました。でもその意地が自立心を育ててくれたと思うのです。
高校時代から貯めていたバイト代で大学寮へ入りました。
奨学金を借りるという頭はなく、学業と並行して、バイトを2つ3つ掛け持ちしながら、学費と生活費を捻出しました。
それでも出費は嵩むので、ヤフーオークションで物を売ったり、ブログを書いたりするなどして小銭を稼ぎ、20になると、少ない資金を元手に株式や為替取引も始めました。
親に車を買ってもらった、とか、親と海外旅行に行った、と話す友達が羨ましいとも思いました。
その後、寮よりも安いルームシェアに切り替え、
大変だったけれど、それなりに充実した時間を過ごしていました。
その間、母親とはほとんど連絡を取っていませんでした。
しかし大学3年の就活時期に緑内障が再発、再度失明を伴う危機的状況となります。
その時は流石に母親に事情を話さざるを得ない状況となりましたが、荷物を取りに行った数日以外は、実家へ帰りませんでした。
希望した業界への就職も叶わず、その後2年と続くモラトリアムの療養期間でさえ、何とかお金を工面して、友達や元妻など周囲の協力を得ながら生活と住む場所を確保していました。
ニートやフリーターになったとしても、母親を頼るという選択だけはしたくないと踏ん張っていました。
それは母親が嫌いだからではありません。
嫌味や文句なんか幾らでも言ってくれて構わないけれど、
母親の、「あんたを健康な身体に運でやれなかった。私の所為でこうなってしまった」という、
時折見せる自己憐憫的態度が何より悲しかったからです。
・心の距離感・
やはり僕が突然家を出たのは、母親にとっても大きかったと思います。
療養期間とモラトリアムを終えた2010年、同棲していた元妻との間に長女が生まれて、結婚し、同時期に就職しました。
元妻の強い勧めにより、長女誕生を機に一旦母親とは和解したものの、互いに一定の距離感がありました。
ぎこちないところはあったものの、母親は、結婚や孫娘の誕生を一応喜んでくれました。
しかし、性格はそう簡単に変わるものではなく、寧ろ前よりひどくなっているように感じました。
壁を作って関わらないようにする態度は、元妻や孫娘を連れて来るな!という暗黙の意思表示であると解釈しました。
母親は口には出しませんでしたが、自分と真逆な性格の元妻に脅威を感じており、僕が元妻の実家で婿養子のような生活をしていることも、よく思っていなかったことと思います。
それを感じるにつけ、実家への足は再び遠退いていきました。
けれど、2013年に母親が子宮筋腫の手術をし、心配になりました。
それ以降、頼まれ事があれば、実家に帰って身の回りのことを手伝うということが増えていきました。
ちょうど元妻が次女の出産を控えており、自分も二児の父親となり、子供を育てることの苦労や大変さを知ったからでもありました。
本音を言えば、もっと元妻や娘たち、お義父さん、お義母さんとも良好な関係であって欲しかったのですが、
離れていることで、それなりに上手くやっていけるなら、会わない方がいい場合もある、と考えていました。
一定の距離を保ち、向き合わずにいること。それが僕と母親の在り方だと思っていました。
でも不思議ですね。人生は常に課題の解決を求めて、お前の次のカリキュラムはこれだと迫ってきます。
そうして、2016年の8月を迎えたのです。
次回《母親~氷解する思い~⑤》へ続きます。
※ ※ ※ ※ ※
ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。
皆様の明日が明日が素晴らしい1日になりますように。
