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《超適当雑記138》2025年9月16日(火)【母親~氷解する思い~②】

〚3452文字〛
こんばんわ。入谷です。
まず感謝ご報告についてお伝えします。前回までの記事について、マガジンにてご紹介していただいた方々へお礼申し上げたいと思います。


■感謝とご報告〚451文字〛

momoさま

メルト&クリエイトさま

ペリンさま

りーまむさま

より、以下の記事、

について、
マガジンへ追加していただきました。
取り上げてくださり、いつも感謝しております。皆様のご好意がとても励みになっております。どうもありがとうございます!
今後とも宜しくお願い申し上げます

※ ※ ※ ※ ※

Fuuさま

より、以下の記事、

について、
マガジンへ追加していただきました。
取り上げてくださり、とても嬉しく思います。ありがとうございます!
励みになります。今後とも宜しくお願い申し上げます

※ ※ ※ ※ ※

ミツコさん|じぶん育てラボ所長さま

からは、以下の記事、

について、
ご紹介してくださりました。
いつも取り上げてくださり、ありがとうございます大変感謝です。コメントも励みになります。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます

※ ※ ※ ※ ※

■母親~氷解する思い~②〚2917文字〛

前回『母親~氷解する思い~①』はこちら。 ↓ ↓ ↓

・最初の病院・

2016年8月22日/月曜の朝。
どう見ても手足がふらついて見えたので、母親に仕事を休むように言い、一番で診てもらおうと、地元の脳神経外科に連れて行くことにしました。

その日は台風が接近しており、千葉は暴風雨
開院時間を待つ車内で、母親は覚悟を決めており、何を言われてもしっかり治療すると宣言しました。
天気雨の空に、駐車場の椰子の木暴風でグワングワンと揺れているのが印象的な日でした。

緊張しながら待合室にいると、MRI検査と診察を終えた母親が戻ってきました。
結果は問題なし何の所見もないとのこと。脳には問題がないから、整形外科に行きなさい、と、医者から言われたそう。

MRIで問題が無いのに、こうも突然左にふらついたり、もったりとした歩き方をするものだろうか・・・。

釈然としない気持ちはありましたが、脳外科の医者が病気はないと言うのだから、一先ずそれを信頼することにしました。

それでもその日の夜になると、次第に、あの不吉な予感が再燃しました。
どうすべきか考えた末、実家にもう一泊し、症状に注意しながら、大丈夫であれば、実家から会社に向かうつもりでした。

・二番目の病院で脳梗塞が発覚・

8月23日/火曜の朝。
母親には一目で判る脳卒中の症状が出ていました。
本人は普通に歩いているようなのですが、どもった喋り方に、左の口角が下がり左手足の歪みはさらに大きく現れていました。

タイヤの左側で踏んで潰れた夏蜜柑の映像がフラッシュバックしました。

「ちょっと変じゃないか?」
「大丈夫だって」
「いやいや、全然大丈夫じゃないだろう」
「先生が何でもないって言ったんだから」
「ダメだ。違う病院へ行こう!」

それでもなお、母親は仕事に行く準備をしていたので、慌てて引き留め、ソファーで休んでいるように言うと、自分も職場に休む旨の連絡をし、病院を探し始めました。
そこで救急車を呼べば良かったのですが、何故か分からないけれど、直感的に自分で探す方が良いと思ったのです。

県下で手術入院施設のある脳神経外科の専門病院を見つけ、そこに連絡して事情を話すと、運よく渡りが付いたので、急いで支度して出掛けました。
母親は日頃から旅行用と災害用、そして入院用に各々必要なものをキャリーケースに入れて用意していたので、すぐに出ることが出来ました。

高速で20分走り、脳神経外科の専門病院へ着くと、すでに受付で準備がされており、他の患者に優先して診察、検査がスムーズに行われました
問診での症状が明らかだったことと、血圧が高値だったため、ストレッチャーで検査室に入りました。

昨日の病院では異常なしと言われておりましたが、この日やったMRIの検査では、はっきり脳梗塞の所見がありました。
即入院となり、すでに準備が出来ていたため、処置室で薬剤の点滴をされたあと、管に繋がれて上階の病棟へ運ばれて行きます。
母親は意識がはっきりしていたので、多少安心しましたが、ああ、これは大変なことになったな、と思いました。

その後で入院の手続きを取り、母親の職場に事情を説明し、自分の職場にもしばらく休むと伝えるなど、各所への電話連絡と確認に追われ、バタバタしていて、その日の詳しい記憶は殆どありません

ただ医者からの説明は覚えていました。
正式な病名はラクナ梗塞
脳の深部を流れる細い血管に血栓が詰まって起きる脳梗塞で、症状は通常の脳梗塞と同様の半身の異常言語嚥下機能の低下等あるそうですが、場所によっては無症状であることも多いそう。
しかし母親の場合、それが脳梁近くの毛細血管で起こった脳梗塞で、急変する恐れがあるので注意が必要と言われました。

治療は薬剤の点滴が主で、一週間点滴をした後、回復をする人、変わらない人、症状が悪化する人がいるとのこと。
点滴の期間が終わったその後は、回復期の病院に転院が決まるまで、ひたすらリハビリをするという流れになるということでした。

医師の話を聞き終え、病院や健保の諸手続きを済まして病室に向かうと、母親は4人部屋の廊下側のベッドに寝かされていました。病室は軽度の脳卒中患者ばかりで、母親が一番症状が重い患者のようでした。
不憫に思うと同時に、がんで入院していた父親と被って見えました。父親は老人ばかりの病室で年齢が若いのにも関わらず、誰よりも重篤ながん患者でした。

胸が軋みました。

「職場や叔父さんたちには連絡しといた」
「〇〇(元妻)も明日来るってから」
「保険会社にも、高額医療費のやつもやっといたからよ」
「俺も休み取って一週間くらいこっちいるから、必要な物あったら言って」

こんな時、掛ける言葉もなく、事務的なことしか思い浮かびません。

「悪いね、ありがとう」。母親はとかすれた声でそう言って、ずっと天井を見つめていました。

帰り際、「また明日来るから」と言うと、
母親はこちらを見つめ、妙にしおらしく「迷惑掛けてごめんね」と、申し訳なさそうに謝るのです。

僕は母親の顔を見れませんでした。

・長い夜・

病院から実家へ戻る車中、色々な考えが巡りました。

母親は今後どうなってしまうだろうか。ちゃんと回復するのだろうか。
医者から言われた『脳梁近くの毛細血管で起こった脳梗塞で、急変する恐れがあるので注意が必要』という言葉が妙に気になっていました。
母親は当時55、僕は31でした。もしものことも考えました。

祖父の家で叔父に入院の保証関係の書類を書いてもらい、実家に着いた頃には、完全に頭が冴えていました。

何かせずにはいられない気持ちでした。
入院が決まった後に母親から頼まれていた、実家の荷物整理と掃除に取り掛かります。
僕はなるべく物は持たない、ミニマリスト的な生活を意識していたので、すでに実家にもその影響があり、不要品はそれほどありません。

一週間はこの家に居るので、冷蔵庫の余りものや食材で数日分の食事を作って冷凍し、入院生活が数ヶ月に及ぶことも想定されると説明されたので、食べきれないものは腐る前に処分。
今後の経過を見て、周囲と相談することになっていましたが、一応、後遺症が残った状態で母親が戻って来た時、すぐリフォームに着手できるよう、玄関や水回りは勿論、1階のリビングが寝室になる可能性も踏まえて、その辺りの片付けと掃除を入念にやることにしました。

そうして夜中に一人で黙々と作業していると、また色々な考えが頭に浮かんで来ます

僕とって母親とはどんな人物だったのか。
母親にとって自分とはどんな息子だったのか。
僕は母親をどう見ていたのか。
母親は自分自身をどのように思っていたのか。

入院が決まった時、母親から日記帳を持ってきてほしいと頼まれたことも思い出し、戸棚にある2016年の日記を取り出しました。

戸棚には、結婚した1984年から現在(2016年当時)までの約30年に及ぶ記録が並べられており、本人には大変申し訳ないと思いながらも、僕が幼かった頃に書かれた日記を少しだけ見てしまいました。
日記を読みながら、遠い記憶の底にある子供時代の母親について思いを巡らせてゆきます。

次回《母親~氷解する思い~③》へ続きます。

※ ※ ※ ※ ※

ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。
皆様の明日が明日が素晴らしい1日になりますように。

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