《超適当雑記137》2025年9月13日(土)【母親~氷解する思い~①】
〚3276文字〛
こんにちわ。入谷です。
まず感謝とご報告についてお伝えします。前回までの記事について、マガジンにてご紹介していただいた方々へお礼申し上げたいと思います。
■感謝とご報告〚348文字〛
momoさま
ペリンさま
りこ@一生養生さま
メルト&クリエイトさま
みるみるさま
より、以下の記事、
について、
マガジンへ追加していただきました。
取り上げてくださり、いつも感謝しております。皆様のご好意がとても励みになっております。どうもありがとうございます!。今後とも宜しくお願い致します!。
※ ※ ※ ※ ※
ミツコさん|自分育てラボ所長さま
からは、こちらの記事、
について、ご紹介していただきました。
この度は取り上げてくださり、どうもありがとうございます。大変感謝です。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
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■母親~氷解する思い~①〚2897文字〛
・はじめに/概要・
今でこそ、どこにでもある普通の親子ですが、そこに至るまでには、険しい道のりがあったように思います。
中学で父親が亡くなって以降、母一人子一人の二人三脚で生きてきた時代もありました。それに間違いはありません。
働く母親の代わりに、僕が家事をする、家の手伝いをする、そこだけ切り取れば、実に協力的な親子にだったことは確かです。
しかし心は常にすれ違いの連続でした。
母親の性格を一言で言うと頑固で生真面目。
加えて言うなら抑圧的で被害者意識が強く、悲しいくらい不器用な人間。
自分のルールにそぐわない相手を受け入れることはありません。
祖父との関係からインナーチャイルドにも深い心の傷を抱えており、『親から愛されない自分』という苦しみを持っていたように感じます。
子供の頃の母親は厳しく、
いつも顔色を伺っていなければなりませんでした。
家事の手伝いは惜しまなかったけれど、僕が反抗期になると、さらに関係が悪化し、大学入学後に家を出ました。
バイトを掛け持ちしての学費捻出、大学寮やルームシェアでの生活。
在学中、持病が悪化し、卒業後約2年間の療養期間でさえ、友達や元妻の部屋に居候しながら、家には帰りませんでした。
そうなったのには勿論、母親の苦悩や葛藤を理解してあげられなかった僕自身の未熟さもあります。考えを押し付けられて、自分を否定されることに我慢できなかった幼稚さもありました。
当時は母親に不信感や嫌悪感を持ち、反発することばかりでしたが、
家を出た最たる要因は、
「私とお前は気が合わない」
「子供なんか嫌いだ、お前なんか産むんじゃなかった」
という、傷付くような言葉を、口癖のように平気で言うところが、何より嫌だったからです。
母親にはいくつか口癖がありました。
前述のように怒りに任せて感情的な発言をしたかと思えば、
「全部私が悪いんだろ」
「お前は私にいつも嫌がらせをする」
と、癇癪を起こした子供のように喚いて訴えるところが、
僕はどうしても受け入れることができず、
早く自活をしなければいけないと思わせてくれる母親だった。
それはある意味不幸で、ある意味幸福でした。
なぜなら人間の最たる目標は、親元から離れて自立することだと考えていたからです。
やがて僕も就職して結婚し、子供が生まれました。いや、順番が逆です。子供が生まれて結婚し、就職をしました。
母親はそれをよく思っていなかったことから、なおさら僕は実家を避けるようになっていったと思います。
それでも完全に割り切ることが出来ず、たとえば男手が必要な時などは、母からの頼まれ事を義務として引き受けていました。
そんな折、母親が脳梗塞を発症して入院。
一時は命も危ぶまれる事態に陥りました。
身の回りの世話のため、実家と自宅と病院を行き来する生活の中で、僕は母親の人生の悲しみを知り、傾聴と会話を重ねながら、拗れていた親子関係が修復されていくという体験を通じ、母親に対する理解を深め、多くの気付きと学びを得ることとなりました。
本記事は母親の病気を通して、親子の抱える問題が氷解する過程を記したものであり、今回から数回に分けて投稿したいと思います。
長くなりますが、出来る限り短く、分かりやすい文章を心掛けていきますので、宜しければ、どうぞお付き合いください。
・シグナル・
2016年8月21日。その日は日曜日でした。
珍しく母親が「買い物に付き合ってほしい」と言うので、
久々に実家へ帰り、ドライブを兼ね、地元から離れたホームセンターへ行くことになりました。
いつもなら一人で勝手にどこにでもに行くのに、わざわざ息子を呼んで買い物に行こうと誘うこと自体、本当に珍しいことでした。
この日の母親はいつになく多弁で、職場での出来事や、友人関係のことについて、聞いてもいないのに、話が止まりません。そればかりか、連れて行ってもあまり興味を示さなかった孫のことについて聞きたがり、娘たちの近況を話すと、余程気分が良かったのか、綻んだ表情で頷いておりました。
変でした。
普段なら寡黙で仏頂面なのに、明らかにいつもの母親と違いました。
鬱陶しさと嬉しさの両方を感じながら、近道のため、住宅街の細い市道を走っていると、誤って道路に落ちていた果物を踏んでしまいました。
「左側、何か踏んだね」。母親が言いました。
停まって確認すると、左タイヤで踏んだ夏蜜柑が潰れて破裂していました。
母親は依然として明るく、早く目的地に行こうと促しますが、僕は違いました。僕は何故だか、その瞬間から、言葉では表現できない不吉な予感を止められずにいたのです。
その不吉な予感は、黒いモヤモヤとなって頭から離れず、買い物をしている母親を車中で待っている間もずっとあり、やはり言葉にできない不安を伴って、身体中に纏わり付いていました。
今思うとあれは、如何にもな、虫の知らせだったと思います。
母親は仕事で使う備品を見ると言って、店内で2、3時間買い物をしたあと、昼も過ぎたので、近くの飲食店で一緒に食事をしました。
そこでも母親は上機嫌で、さらに職場での出来事を話したがります。
母親は当時、福祉関係の施設で介護の主任として働いており、利用者に向けてやるレクリエーションの一環として、皆の前で歌を歌っていると聞かされました。
あの性格の母親が、人前で何かを披露することを意外に思いましたが、歌が好きだったことも初めて知りました。また、介護は自分の天職だと話していたことにも驚きました。
それくらい僕は母親について知らなかったのです。
・異変・
帰りに母親が、入院中だった祖父の見舞いに行きたいというので、病院へ寄ってから家に帰ることにしました。
車中、母親はずっと眠っていました。話掛けても応じません。今日は久々の遠出で疲れていたのか、なかなか目を覚ましませんでした。
到着したので、起きるように言うと、身体を起こしたくないらしく、
「少し休みたい」
と、あまりに気怠そうなので、
しばらく眠気が覚めるまで待つことにしました。
30分経ってもまだ寝ているので、もう一度起こすと、ようやく起き上がりました。
まだ寝ぼけているのか、病室へ向かう足取りもふらついていて、後ろから見ていて、左側が何か歪んでいるように見えたので、どうも普通ではありませんでした。
しかし祖父の見舞いを終え、車へ戻ると、母親は元に戻り、完全に目が覚めたようだったので安心しました。
これは脳卒中の前兆ではないか。実家から自宅に戻ろうと車のエンジンを掛けた時、そんな思いが頭を過ぎりました。
心配だった僕は、次の日も休みだったことから、母親の様子を見るため、実家に泊まることにしました。
看護師の元妻も電話口で、やはり脳卒中ではないかと疑い、救急車で病院へ行った方がいいと言っておりました。電話を切った後、救急車を呼ぼうとしましたが、母親は、そんな大袈裟なことはしなくていいと断ったので、
結局、その日は何もせず過ぎてしまいました。
次回《母親~氷解する思い~②》へ続きます。
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ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。
皆様の明日が明日が素晴らしい1日になりますように。
