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《超適当雑記136》2025年9月7日(日)【『葬式で多くの人に来てもらえるような人物になりなさい』の違和感から生まれた視点】

〚2438文字〛
おはようございます。入谷です。
まず感謝ご報告についてお伝えします。前回までの記事について、マガジンにてご紹介していただいた方々へお礼申し上げたいと思います。


■感謝とご報告〚276文字〛

momoさま

メルト&クリエイトさま

KAZぼす@メンタルアナリストさま

ペリンさま

やんうぇんりーさま

より、5名の方から以下の記事、

について、
マガジンへ追加していただきました。
取り上げてくださり、いつも感謝しております。皆様のご好意がとても励みになっております。
どうもありがとうございます!今後とも宜しくお願い致します!

※ ※ ※ ※ ※

りこ@一生養生さま

より、こちらの過去記事について、

2つも紹介していただきました
いつも取り上げてくださり、誠にありがとうございます。こちらこそ感謝申し上げます。どうぞ今後とも宜しくお願い致します

※ ※ ※ ※ ※

■『葬式で多くの人に来てもらえるような人物になりなさい』の違和感から生まれた視点〚2014文字〛

世間でよく言われる言葉かもしれません。
僕が初めてそれを聞いたのは小学生の頃。親族の誰かの葬式で、どこかのおばさんが、子供たちに対して、さも当たり前であるかのように話していたのを覚えています。

「葬式で多くの人に来てもらえるような人物になりなさい」
「だって誰も来ないなんて悲しいじゃない」
人生の価値は、その人の死を悼んでくれる人の数で決まるの」
「見て。沢山の花が壇上に飾られているでしょう。ここへ来れない人からも想われているのよ」

確かに、葬儀に多くの参列者が出席する人物というのは、社会で偉大な仕事を成し、他者に多大な貢献を齎した人物、というイメージがあります。
また、周囲の人々に優しさと思い遣りの心を与える、人から慕われるような人間性を持った人物であったのかもしれません。

つまり、「あなたも仕事や行いを通して社会や人々に貢献できる利他的な人間になりなさい」ということを言っているのだと、
子供の僕にも分かりましたし、
それが、大人が子供に教える、生きる上で大切な指針であることも理解できました。

ただ、疑問だったのは、《葬式に多くの人が来てもらえる》ことと、幸福であるということは、必ずしも一致するものでないという点です。 
これは成功者が必ずしも幸福であったかという問いと一緒かもしれません。

勿論、その後も人生訓のようなものを気分良さそうに喋っているおばさんに問えるはずもなく、ついつい反対の側面に興味を持ってしまう性分であった僕は、にわかに不信感を覚えました。

というのは、
このおばさんの、その後も続いた話の端々には、人生の勝敗人間の価値の有無や、優劣について含むところが過分にあり、
それなら、
葬儀に誰も来ない人物は価値のない人間であり、 
見送る者がいないことは人間として劣っている、という意味にも受け取りかねず、そこばかりに気持ちがいってしまうのです。

寧ろ僕はそういう人物にこそ、多く弔問客が来、彼、彼女の死を追悼するべきなのではないかと考え、
誰も来ないことが悲しいなら、なおさらそうすることが、孤独に死んでいった者の冥福に繋がるのではないか、と、その時思っていたのです。

おばさんの話を納得して聞いている他の子供たちの中で、僕は一人、モヤモヤしたものが心の中に渦巻いていました。

誰からも看取られず、葬儀に参列者のいない人物の最期。孤独に死んでいった者―。
その人にも人生の営みがあった。そこには思いがあった。
喜びや悲しみ、信条としていた事柄や、好きなもの、嫌いなもの、楽しみもあったはずに違いありません。

誰かの名言だったかもしれません。
『誰もが羨むような成功者の人生の良さは誰もが知っているが、自分の人生の良さは自分しか知らない』という言葉に準えて言えば、
その人にしか分からない人生の良さや幸福もあったということ。

それを弔問客や供花の数で一括りにし、まるで否定するかのようなおばさんの物言いに違和感があったのです。
その人の人生の価値は自分が自分で決めるものだと。

※ ※ ※ ※ ※

多死社会の現代、身寄りもなく、孤独死した者には葬儀が行われず、自治体によって簡素な火葬と納骨が行われるのみという場合がほとんどです。
葬儀があった場合も、遺体の発見者となった大家と隣人、自治体の職員の3人で行われたという話を聞いたこともあります。

そこには人生の勝敗や優劣や価値の有無もないのです。

身寄りがなく、孤独死した者であっても、その死の影響は、近隣住民不動産関係者行政の担当や福祉関係者対応した警察や消防特殊清掃の人間など、科学的根拠はないものの、少なくとも6人程度に及ぶものと考えられています。
その6人が孤独死に触れた体験を持ち帰って、人生について深く考えるきっかけにもなれば、彼、彼女の死は決して悲しいものではないし、かえって役に立っているという事実さえあるのかもしれません。

勿論、孤独死には様々な問題があり、全員がそのような心持ちでないことは承知の上ですが、僕の仕事関係者で知り合いの不動産オーナーは、孤独死問題に直面した時、自分の利益よりも、その人の死を悼む気持ちが大きく、会うとよくその話をしてくれます。

彼は清掃や遺品整理の現場にも積極的に立ち会っているそうです。
すると故人の人柄が見えてくることがあり、
身寄りがなくとも、
生前働いていた頃は調理師をしていて料理が得意だったとか、近所の猫を可愛がっていたとか、小説や球技が好きだったとか、元気な時は山を散策して押し花づくりと写真が趣味だったなど、その人が生きた人生の時間を感じ取ることができるということです。

僕は、あのおばさんの話に違和感を持ったことは、きっと間違いではなかったと今も思うのです。

ではでは、朝っぱらから葬儀の話などしてしまいましたが、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。そして今日という二度ない日、皆様にとって素晴らしい1日になりますように。。


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